北イスラエルの王ヤロブアム二世の治世の半ば、南ユダ王国はアマツヤの子アザルヤが王となった。
別の名は「ウジヤ」で、「ウジヤ王」としての方がよく知られている。
十六歳で王となり、五十二年間治めたとされているが、父アマツヤとの共同統治の時代があったと考えられている。
後にマナセが五十五年間王となったことに次ぐ、長期にわたる治世である。
列王記第二15章は、このウジヤについて少し触れた後、北王国でヤロブアムの子ゼカリヤが六か月間、シャルムが一か月間、メナヘムが十年間、ペカフヤが二年間、ペカが二十年間王となったことを記している。
そして南王国では、ウジヤからヨタムに王位が継承されていったことを記している。
その記述の仕方は、それぞれ決まり文句のように、「主の目にかなうことを行った。ただし」と言われる南王国の王と、「彼は主の目の前に悪を行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪を離れなかった」と言われる北王国の王に分かれている。
シャルムについては一か月の統治であり、何も言われていない。
北はヤロブアム二世の時代、国として栄えていながら、主に立ち返る悔い改めを先送りした結果、いよいよ滅亡へと向かっていた。
これに対し南は、なお主のあわれみによって祝福され、不完全ではあっても、主を呼ぶ者を必ず守ると、主ご自身がメッセージを発し続けておられたのである。
ウジヤに関して言うならば、ヨアシュ、アマツヤ、ウジヤ、ヨタムと、四代にわたって主を恐れる信仰が受け継がれていたことになる。
さてそのウジヤ王であるが、5節で突然のように、「主が王を打たれたので、彼は死ぬ日までツァラアトに冒された者となり、隔ての家に住んだ。王の子ヨタムが宮殿を管理し、この国の人々をさばいていた」と記されている。
これは「高き所を取り除かなかった」ことに対する裁きではなかった。
当時の人々には周知の出来事があったのである。
ウジヤには信仰の導き手となるゼカリヤという人物がいた。
そのゼカリヤの教えに従い、神を求めていた間、神は彼を栄えさせておられた。
国の繁栄は、国土の拡大や交易の広がりなどとなって表れていた。
ところが、その絶頂の時に「彼の心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた」のであった。
彼は、彼の神、主に対して不信の罪を犯した。
彼は神殿で香をたこうとしたのである。
その務めは祭司だけに許されていたものであった。
祭司たちの制止を聞かず、怒りに任せ、手に香炉を取って香をたこうとして、主に打たれたのであった。
彼の額にツァラアトが現れ、そこにいた祭司たち全員が、「主が彼を打たれたからである」との事実を知ることとなった。
ウジヤは高ぶりの罪を犯し、死ぬ日まで隔ての家に住むこととなり、主の宮からは絶たれてしまった。
自らの罪を片時も忘れることなく心に刻んで生きるように、主は彼を取り扱われたのである。
北イスラエル王国は、アッシリヤによってアラムの脅威が去ったことにより繁栄を得ていたが、その繁栄を主のあわれみによるものとは考えなかった。
主は滅びに向かう国に、もう一度チャンスを与えておられた。
しかし彼らは権力闘争を繰り返し、ますますアッシリヤに頼る道を選び取っていた。
その行為はかえって国力を弱めることになり、ついにはペカの時代、イスラエルの民がアッシリヤに捕囚される悲劇に見舞われることになった。
また南ユダ王国は、ヨタムの時代、ウジヤ王の繁栄の名残りを保ちながらであった。
しかし主は王と民に向かって、真に頼るべきは神、主であることを気づかせようと働きかけておられた。
すでに弱くなったとは言え、アラムの王レツィンがイスラエルの王ペカと手を組んでユダを攻め始めていた。
そのような時こそ、主の名を呼ぶようにと、主は預言者を遣わしておられたのである。
預言者イザヤは、ウジヤ王の死んだ年に預言者として主によって召されていた。
時代が激しく揺れ動く時、主はすべてのことを見ておられるのである。
起こり来る一切の事柄はもちろんのこと、そこで生きている人々の心の中のすべてを見通しておられる。
背く者に「わたしに返れ」と手を差し伸べ、み声をかけておられた。
主を呼ぶ者には必ず答え、助けを与えておられたのである。
けれども背きを止めないなら、警告を発し、それでも頑なに拒むなら、裁きを下しておられたのである。
私たちは神の民イスラエル、すなわち南北の王国の歴史から、また王たちの姿から何を学ぶことができるだろうか。
長い歴史の中で、事柄は決して単純ではない。
一面的に善し悪しを言うことは控えなければならない。
すなわち、主の目にかなう王であっても誤りを犯しているのに対して、主の目の前に悪を行った王であっても、主に用いられ、国は祝福されることがあるからである。
肝心なことは、主の目にすべての事柄は明らかであり、あらわになっているという事実である。
人は本当の意味で主を恐れて生きているかどうか、そのことが問われるのである。
一時的、また表面的に善し悪しを云々するより、根本の所で神に頼っているのか、それとも人を頼っているのか。
全幅の信頼を主なる神に寄せているのか、そのような信仰が問われているのである。
説教の準備中、木曜日の夕刊一面の記事は象徴的であった。
米国のアーミテージ国務副長官が「日米同盟にとって、憲法9条は妨げである」と言ったとのことである。
憲法を改正するなら、9条を改正して武力行使ができるようにせよと発言したというのである。
クリスチャンであろうとなかろうと、本当に頼るべきはだれなのか。
今、日本にいるすべての人が自分の心に問うように、真の神、主は語りかけておられるのではないだろうか。
今この時代も、すべてのことは主の目にあらわである。
だからと言って、すぐ右に行け、いや左だというように道を示してくださるわけではない。
むしろ私たち一人一人がよくよく考え、祈り、主に頼ることを本気で選び取るように待っていてくださるのである。
聖書の言葉を心に刻み、聖霊に導かれて祈り、そのようにして自分の進む道を主に問いつつ歩み続けること、そのことを主は望んでおられるのである。
そのような意味で、最後に箴言16章1節以下の言葉を、私たちに多くのことを教えてくれるものとして再確認し、心に刻みたい。