エドムに対する勝利によって高ぶったアマツヤは、イスラエルの王ヨアシュに打ち負かされた。
しかしヨアシュはアマツヤより先に世を去り、北イスラエルはヨアシュの子ヤロブアム(ヤロブアム二世)が王となった。
「彼は主の目の前に悪を行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムのすべての罪をやめなかった。」
この王の治世の中に、主の不思議なあわれみと見守りが示されている。
このヤロブアムは、金の子牛礼拝というヤロブアム一世がイスラエルに持ち込んだ罪を止めることなく、その子牛礼拝から派生し、国中に広がっていた偶像礼拝を止めなかったのである。
南の王アマツヤについて、「彼は主の目にかなうことを行ったが、彼の父祖、ダビデのようではなく」と言われているのと比べると、主を仰ぐ信仰の面では評価できるとは言えなかった。
ところが彼の治世は四十一年に及んだ。
そして領土を回復したが、それは主が預言者ヨナを通して告げられたことばのとおりであったと記されている。
しかも、「主がイスラエルの悩みが非常に激しいのを見られたからである。……主はイスラエルの名を天の下から消し去ろうとは言っておられなかった。それで、ヨアシュの子ヤロブアムによって彼らを救われたのである」というのである。
主のあわれみは、王の信仰の善し悪しに関係なくイスラエルに注がれていた。
国には平安が保たれ、民が目を天に向けさえすれば、主の見守りに触れることができるという幸いを、主は与えておられた。
イスラエルを助ける者は主ご自身であることを教えようとしておられたのである。
ここに登場する「ガテ・ヘフェルの出の預言者アミタイの子ヨナ」とは、旧約聖書ヨナ書のヨナのことである。
ヨナはヤロブアム二世以前から活躍していた可能性がある。
当時は、北の大国アッシリヤがイスラエルをもユダをも脅かしていて、さらにすぐ北のアラムにも脅かされては、国々が慌てふためいていたのである。
ヨナが主によって、「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに叫べ」と命じられたそのニネベとは、アッシリヤの首都であった。
ヨナは、そんな遠くまでなぜ自分が行くのかと戸惑ったに違いない。
しかしそれ以上に、脅威をもたらす敵対国に、なぜ悔い改めを迫るメッセージを携えて行かねばならないのかと、大いに戸惑ったのである。
主はすべての国を治めておられるのである。
ただ力で支配するのではなく、ご自身の愛やあわれみを豊かに注いで、すべての国を治めておられた。
どの国の人々であっても、主は見守り、主に立ち返るのを待っておられることを、ヨナは気づかされていた。
そしてこの頃、ヨナはイスラエルに対する主のご計画を知らされ、アッシリヤの国が関わりながらイスラエルが安泰となる預言をしていたと考えられるのである。
イスラエルの王にとって、ダマスコを首都とするアラムとの勢力争いは絶えず繰り返されていた。
ところがアッシリヤによりダマスコが陥落してからはアラムの脅威は去り、ヤロブアム二世は四十一年にわたる繁栄を得たのである。
その繁栄はあくまでも主のあわれみによるものであった。
主が民の悩みの激しいのを見て、助けの手を差し伸べておられたのである。
主は明らかに滅びに向かう国に、もう一度悔い改めるチャンスを与えておられた。
主の見守り、導き、助け、忍耐など、その一つ一つは確かなものとして注がれていた。
しかし、王も民もその繁栄を自分勝手に享受して、ますます主に背き、主の怒りを増してしまったのがヤロブアム二世の時代である。
預言者アモスやホセアによる警告が繰り返されたにもかかわらず、王も民も国が栄えるのを喜んでも、主のことばに聞き従う信仰はおろそかにしたのである。
形式的な礼拝はますます盛んになり、祭司たちは肥え太るという宗教の醜さが目立つ時代となっていた。
主はあくまでもイスラエルを助けておられた。
イスラエルが滅びるのをよしとはされず、ヤロブアムを用いて民を救おうとされた。
主の忍耐と見守りによって国は守られていたが、その恵みを受け取る側が主に立ち返ろうとしなかったのである。
ヤロブアムは主の目の前に悪を行った王である。
しかしその王をも用いて、主はイスラエルの国を救っておられた。
国の繁栄や領土の回復などの背後には、神のみ手が必ず働いていたということである。
人の思いでは測り知ることのできない神、主の見守りがあるという不思議がここにある。
いつの時代、どこの国にあっても、天の下で主のみ手の及ばないことは何一つない。
また主が見ておられないことはなく、すべての人は主の見守りの内にあるのである。
私たちを見守り、私たちを救おうとしてくださる神は、私たちが真心から神を求め、神の前に罪あることを認めることができるように、聖霊を遣わしていてくださる。
そして何よりも、主イエス・キリストを仰ぎ見るように導いていてくださる。
私たちが神に向いているなら手を差し伸べてくださるのだろうか。その時はもちろんのこと、そうでなく、私たちが主から離れていたとしても、主の見守りは確かで、主への立ち返りを待ってくださるのである。
そのような主の見守りの中で、私たちは生かされている。何と幸いなことか。
海外宣教週間にあたって、この幸いを証しし、この幸いを宣べ伝える責任が私たちにあることを覚えたい。
自ら果たすことと、具体的な働きに遣わされている者たちのために祈ること、また献げることによって、その務めにあずからせていただきたい。