列王記第二13章20節に、預言者エリシャの死が告げられている。
その死においてなお神からの不思議な力が働いたことが記されているが、その反面、北イスラエル王国は、何事もなかったかのように神を仰ぐことのないまま、国の滅亡という裁きに向かっていた。
この北王国に対して、南王国で王となったアマツヤは何を思ったのか、対決姿勢に出たのであった。
二十五歳で王となったアマツヤの父ヨアシュは、祭司エホヤダの教えを受けていた間は主の目にかなうことを行っていた。
このヨアシュの結婚にはエホヤダの指導があったという。
アマツヤの「母の名はエホアダンといい、エルサレムの出であった」との記述は、エホヤダの指導をこのアマツヤも受けていた可能性を示している。
アマツヤの治世において、「彼は主の目にかなうことを行った」と言われるが、その正確な評価は、「が、彼の父祖、ダビデのようではなく、すべて父ヨアシュが行ったとおりを行った」というものであった。
エホヤダの教えに従った父ヨアシュにならったものの、ダビデのようにではなかった父の生き方に留まっていたのである。
高き所を取り除くことがないままの弊害は国中に根強く、どこまでも民の落とし穴となっていた。
不完全さや不徹底さを見せていたアマツヤの治世であったが、それでも「主の目にかなうことを行った」ことに主は応えておられた。
王国は力を増し加えられ、比較的安定するときを迎えていたのである。
父ヨアシュは家来たちの謀反によって殺されたが、王位はアマツヤに受け継がれていた。
しばらくは不安定な状態であったが、国が安定したとき、謀反を起こした家来たちを打ち、裁きを実行した。
いたずらに怒りにまかせることなく、律法の定めに従ってそれを成すことができたのは、主のあわれみによることと考えられる。
アマツヤはまたエドム人に対しても勝利することができた。
もともとエドムは南王国の支配下にあったが、ヨラムのときに王を立ててユダの支配から脱していたのを、再び支配下に治めたのである。
国の威信という意味では、大いに誇りたくなる勝利であった。
こうした勝利を得るために彼が成していたことは、ひたすらの軍隊増強であった。
二十歳以上の者を登録して精鋭三十万人を得た上、さらにイスラエルからの勇士を十万人も雇って、力に頼ろうとしていた。
預言者の忠告により、さすがにこのイスラエルからの雇兵は国に帰したものの、神に頼らずとも、兵の力で勝利を味わい、エドム人の拝む神々を持ち帰り、これを礼拝する罪を犯すのであった。
目の前の勝利に酔ってしまったアマツヤは、南方はこれでよし、次は北方とばかり、イスラエルの王ヨアシュに「さあ、勝敗を決めようではないか」と戦いを挑んだ。
もともと神の民として王国は一つであったはずが、分裂後は絶えず主導権争いを繰り返していた。
賢明な王は友好関係を結ぶものの、なぜか力を頼む王は決着を急ぐのである。
北のヨアシュ王はこのとき余裕を見せていた。まだ自分たちの方が強いと確信していたのであろう。
「レバノンのあざみ」と「レバノンの杉」をたとえに用いて、アマツヤに自重を促した。
「あなたは、エドムを打ちに打って、それであなたの心は高ぶっている。誇ってもよいが、自分の家にとどまっていなさい。なぜ、争いをしかけてわざわいを求め、あなたもユダも共に倒れようとするのか。」
主は人を用いて警告を発しておられたのである。
しかしアマツヤはヨアシュの勧めを聞き入れることなく北に攻め上った。
彼はもはや聞く耳を持たなかった。
神は高ぶる者を懲らしめ、退けられるのである。
ユダはイスラエルによって打ち負かされ、攻め上った者たちは、おのおの自分の天幕に逃げ帰るしかなかった。
アマツヤは捕らえられ、エルサレムの城壁を破壊され、主の宮の宝物を持ち去られるという屈辱を味わうのであった。
主に守られ、よく報われていたことのすべてが崩れ去ってしまったのである。
アマツヤの姿から明らかになることは、高ぶりの報い、代償は身の破滅という厳しい事実である。
彼はエホヤダや父ヨアシュから、主の目にかなうことが何であるかを学んでいたが、力を増すにつれて、高ぶることから逃れられなくなっていった。
「主の目にかなう」ということでは、ダビデ王の生き方はよい模範であったが、ダビデに習うよりは父ヨアシュに習うことでよしとする、王としての打算などが心を占めたのであろう。
この後、北のヨアシュが先に世を去り、なお十五年生きながらえたアマツヤであるが、主に頼ることのない王、そして主から見放された王として命を狙われ、逃亡の果てに殺された。
彼はダビデの町、エルサレムに葬られたが、主から離れてしまった最後は痛ましいばかりである。
私たち一人一人は、どのように生きたらよいだろうか。
高ぶることなく、心を低くして生きるには、どのように学び、どのように受け伝えて行けばよいのだろうか。
その一つのヒントを、「ダビデのように」ということに求めてよいのではないだろうか。
自分一人だけのことではなく、代々に受け継がれることとしてである。
もちろんダビデは完全ではなく、欠けがあった。
しかし罪を悔い改めることや、主の前に心を低くすることにおいて、ダビデは私たちが習うべき道を示してくれている。
その姿に習い、さらに私たちの生きる姿を通して、主と共に生きる幸いを習う人が起こされるように祈り求めること、それが今日に私たちが生きる課題であろう。