北イスラエル王国のエホアハズ王は、ヤロブアムの罪を犯し続け、それを止めないで主の怒りを招いていた。
アラムの国の脅威にさらされていたのである。
そのような罪の中にあって、エホアハズが主に願った時、主はこれを聞き入れられた。
ところが、それにもかかわらず、王も民もなお罪を止めないまま国力が弱まり、王の死を迎え、代わってヨアシュが王となった。
北イスラエル王国は、もはや神の裁きに向かって突き進むばかりであった。
ヨアシュも父エホアハズと同じく、「主の目の前に悪を行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムのすべての罪から離れず、なおそれを行い続けた」からである。
国が弱体化する時、拠り所をどこに見出してよいのか分からなくなるという状況だったのであろう。
主に頼って助けをいただきながら、生き方を根底から変えることはせず、国の形態を取り繕うことに必死になっていたのかもしれない。
恐らく民をまとめるためには、目に見えない真の神よりも、目に見える金の子牛は分かりやすかったと考えられる。
しかし、もちろんヨアシュは真の神を知らないわけではなかった。
預言者エリヤやエリシャのことを知っていた。
アハブ王の時代の出来事、特にエリヤとバアルの預言者の対決のこと、またエリヤの死後エリシャがいてイスラエルは大いに助けられたことなど、よくよく知っていた。
それでも、神、主に頼ることを潔しとはしなかったのである。
そのようなヨアシュが、主を求め、主の助けを求めてエリシャのもとにやって来たことがあった。
「エリシャが死の病をわずらっていたときのことである。」
彼はエリシャの上に泣き伏して、「わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫んだのであった。
イスラエルの国がアラムによって脅かされ、弱くなるばかりの時、預言者エリシャの死の時が迫っていた。
ヨアシュは見舞うためにエリシャのもとに来たが、ただ見舞うだけでなく、アラムと対決するにはエリシャの助けが必要と懇願していたのである。
彼が泣き伏して叫んだ言葉は、エリヤの死に際してエリシャが叫んだ言葉と同じであった。
そこには、「あなたが信じる神の力を私も信じます。あなたと同じ道を歩みます。力を与えてください」というような祈りが込められた叫びであった。
ヨアシュは自分の弱さを認めたからこそ、エリシャのもとに泣き伏して叫んだのである。
それまでは主に頼ることなく、まして預言者のもとを訪ねることもなく強がっていた。
しかし、もはや他に頼るすべもなく、エリシャを主の預言者と認めて助けを呼び求めたのである。
そして主に頼ろうとするヨアシュの心の内を認めたので、エリシャは主の助けを告げるのである。
エリシャがヨアシュに弓と矢を取るように命じたこと、弓に手をかけさせ、東側の窓を開けて矢を射させたことは、主の勝利のしるしであった。
そして、「主の勝利の矢、アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを打ち、これを絶ち滅ぼす」と告げたことのすべては、主がアラムに対する勝利をヨアシュに与えるとの約束のしるしであった。
エリシャの手が王の手の上にのせられているのは、エリシャが王を支えること、すなわち主の助けの手が添えられることを示していた。
東側の窓は、アラムの方角を示す。
エリシャはなおも王に矢を取り、「それで地面を打ちなさい」と命じた。
しかし王は三回打って、それで止めた。
エリシャは、「あなたは、五回、六回、打つべきだった」と王に向かって怒りを表した。
ヨアシュには、主の勝利を徹底的に求める、そんな姿勢が感じられなかったからである。
神は全き勝利を備えておられたにもかかわらず、王は当面の勝利だけを求めていたということが明らかとなった。
エリシャは、「今は三度だけアラムを打つことになろう」と宣告した。
結局この宣告のとおり、ヨアシュは三度アラムを打ち破って、イスラエルの町々を取り返したが、アラムの脅威が去ることはなかった。
神が完全な勝利を備えておられたにもかかわらず、人が目の前の勝利だけで満足してしまうという皮肉な結末は、まことに残念である。
主の助けを求めて叫ぶなら、心の底からの叫び声をあげ、主の勝利を余すことなく受ける者となりたいものである。
私たちが主の勝利を余すことなく受けるには、どうすればよいのだろうか。
主が備えてくださる全き道を歩むには、どうすればよいのだろうか。
まず第一歩は、ヨアシュのように神に向かって助けを求め、叫び声をあげることである。
祈りによって神に近づくことである。
この時、弱さを認め、絶望して神に向かうか否かは、求めの切実さに表れるものである。
強がっている間は、祈りも真実なものにはなり得ない。
けれども主に背いていた王でも、主に求め、叫ぶなら、主はこれを聞いてくださるのである。
せっかく主の勝利にあずかっていながら、十分にその祝福にあずかりきれなかったヨアシュの問題は、信仰の一貫性がなかったことにあると考えられる。
主を信じていなかったわけではなく、主を信じつつも、金の子牛礼拝も行い続けていた。
主に背いているとの自覚は余りないまま、王の務めを果たすのに懸命だったのかもしれない。
私たちも主を信じていながら、日々の生活や務めに追われる時、つい目先の問題解決を第一にしているなら、同じような罠に陥ると心しなければならない。
生涯変わらずに主イエスを信じ、この主に従う歩みが導かれるように、何を大切にし、何を選び取って生きるか、注意深く歩みたい。
何よりも、祈りを聞いてくださる神がおられることは幸いである。
この神は、私たちに最善を成し、困難を打ち破って前進することができるように、勝利を導いてくださる方である。
目の前にある問題の解決はもちろん、将来にわたって完全な勝利を備えていてくださるのが、主イエスを救い主として遣わしてくださった真の神である。
この主に祈れること、主に叫んで助けを求められること、それは私たちにとって大きな力なのである。