礼拝説教要旨 2004年6月6日
主を呼ぶ幸い
列王記第二 13章1~13節

南ユダ王国のヨアシュ王は、祭司エホヤダが生きている間は主の目にかなうことを行っていた。

ところがエホヤダが死ぬと、王国は再び偶像礼拝をする者の力が増し加わり、王自身も主を捨てるかのように、主の宮の金をアラムの王ハザエルに送って自分を守るという背信行為を犯した。

彼は真心からの神信仰を自分のものとはしていなかったのである。

その同時期、北イスラエル王国ははたしてどのようであったか、その様子を13章は記している。

一、主に立ち返るよう促される神

北イスラエル王国では、エフーの子エホアハズが王となり、十七年の間、国を治めていた。

彼は北の王たちが歩んだと同じ道、ヤロブアムの罪、すなわち金の子牛を拝む罪を犯し続け、それを止めなかった。

ただ犯し続けるのではなく、決して止めようとせず、むしろ積極的に罪を犯し続けたので、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がった。

アラムの王が北から南下してくる脅威は、この頃、南ユダ王国に対しても北イスラエル王国に対しても、同じように主からの警告として用いられていた。

主はただ罪に対して怒りを燃やし、イスラエルを敵の攻撃にさらして苦しめておられたのではなかった。

王と民が罪を犯し、それを止めずに勝手な道を突き進むばかりの時、主はアラムの脅威を用いて、主に立ち返り、主の名を呼ぶよう悔い改めを促しておられたのである。

罪を犯し続けるなら、その間は「いつまでも」脅威を与え続け、立ち返るように迫り続けておられたのである。

二、主は願いを聞き入れてくださる

「エホアハズの治世の間、絶えず」アラムの脅威にさらされていたという事実は、それだけエホアハズが主に背を向けて歩んでいたということである。

彼はそれほどに、主の目の前に悪を行っていたのである。

そのようなエホアハズであったが、彼が苦しみの中から主に願った時、主はこれを聞き入れてくださった。

王と民が不信仰のゆえに招いてしまった苦難であったが、主ご自身は民が苦悩するのを見ておられた。

そして王が主を呼んだ時、彼の願いを聞き入れてくださったのである。

主はエホアハズを見捨てることなく、手を差し伸べてくださるのである。

主は一人の救い手を与えてアラムの支配から逃れさせ、民が平穏を取り戻すことができるようにされた。

一時的な解放がもたらされ、平和な暮らしが与えられたわけである。

ところが、そんな幸いを得たにもかかわらず、その幸いに留まることを選び取らず、逆戻りするのをよしとしたのが、このエホアハズの治世であった。

王も民も罪を止めず、偶像を拝み続け、結局アラムによって国力はますます弱められてしまうのであった。

三、主を呼ぶ者へのあわれみ

12章に記されているヨアシュ王と、13章に記されているエホアハズ王の姿は、私たちに何を教えてくれるのだろうか。

単純に比較することはできないが、二人とも主なる神ご自身の大きな支配の下にあったこと、そして主ご自身の恵みと憐れみが十分にこの二人に注がれていた事実を認めることができる。

二人とも、主によって生かされていた。主によって導かれ、見守られていた。

罪を犯した時には、立ち返り、主を呼ぶように待っていてくださるのである。

私たちは、事の善し悪しを余りにも速く決めたがる傾向がある。

そして、善い人に神は報いてくださり、悪い人には裁きが待っていると決めつけている。

主の目の前に悪を行い、罪を犯し続け、それを止めないエホアハズが、主に願うはずがないと思い込んでいるのである。

彼には裁きだけが待っている、と。

しかし、彼は主を呼び、主に願ったので、主はこれを聞き入れられた。

彼の信仰はそれ以上に進むことはかなわなかったが、主ご自身の恵みと憐れみ、そして民を顧みてくださる計り知れない愛は、尽きることなく豊かに注がれていたのである。

誰であれ、どんな人であれ、主の名を呼ぶ者に主は近くいてくださり、苦難の日に助けの手を差し伸べてくださる。

主を呼ぶ者には、人の思いを越えた幸いを与え、平安を与えようと待っていてくださるのである。

詩篇50篇15節にも、その幸いが示されている。

結び

私たちは週の初めの日ごとに礼拝をささげ、主に祈り、賛美をささげ、み言葉から生きる糧をいただいている。

私たちを罪から救ってくださるイエス・キリストを通して神に近づき、神に祈るのであるが、主を呼ぶことのできる幸いを心の底から喜んでいるだろうか。

主に祈って助けていただくことや、主の偉大さを身にしみて味わうことを繰り返しているうちに、次第にその喜びが色あせていたり、祝福や幸いを小さいもの、取るに足りないもののように感じる心が湧いていたりすることはないだろうか。

なければ幸いである。

聖書が教えてくれることは、自分が幸いにあずかっているのは当然と思う高ぶりが、王たちを誤らせたという教訓である。

自分だけが誤るならまだしも、民をも迷わせ、過ちに引き込むのである。

民が主のもとに近づくのを妨げる罪は、王たちが知らずして犯す罪の一つであったが、私たちははたしてどうだろうか。

私たちは決して、自分が正しいから主の恵みにあずかっているわけではない。

主に背いたとしても、主を呼び、主に願うなら、主ご自身の憐れみ深さのゆえに聞き入れてくださる。その幸いにあずかっているのである。

主の憐れみはご自身の民の誰にでも注がれているゆえに、主を呼ぶ幸いが用意されているのである。

教会学校月間にあたり、暗唱聖句をマタイ19章14節とした。

主は、弟子たちがイエスの所に連れて来られた子どもたちを叱ったのに対して、「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちのものです」と言われたのである。

ゆめゆめ子どもたちの幸いを妨げることなく、皆が共に主から受ける幸いを喜ぶ者となりたい。

一人一人砕かれた心で主を呼び、主の助けと導きを心から喜んでこの月を過ごすことが導かれるように。