礼拝説教要旨 2004年5月30日
信仰の自立
列王記第二 12章1~21節

ヨアシュ王の即位、そして祭司エホヤダの導きによる「主の民となる」契約の締結は、南ユダ王国において喜ばしい出来事であった。

真の神、主を礼拝する信仰を取り戻す喜びがあったからである。

このヨアシュ王の治世は四十年に及び、その間、王国は安泰であったと思いたいが、必ずしもそうではなかったことが12章に記されている。

一、エホヤダの導きのもとで

四十年という期間は、一人の王の治世としては長い方である。その点では確かに安泰であった。

しかし、その間に起こっていたことは、後に来る神の裁きを引き寄せるようなことであった。

王国中で信仰の復興は確かになされていた。それはエホヤダの指導によるものであった。

ところが、ヨアシュ自身のものとしての神信仰は、はたしてしっかり身についていたのか、はなはだ疑問が残るのであった。

そのため、民に信仰を勧めたり、また信仰の忠誠を求めたりすることにおいて、曖昧さが残っていたというのである。

「高き所」はカナンの地の偶像の礼拝場所であり、その場所を残しながら、またその場所を使って真の神への礼拝をささげていたということは、常に異教の偶像礼拝と混じり合う危険と隣り合わせだったのである。

もちろん王は、主の宮を尊ぶよう手を打っている。

けれども、一度バアル礼拝によって主の宮さえ損なわれてしまった荒廃を修復するのは、容易ではなかった。

ヨアシュ王の指示も長期にわたって実行に移されず、放置されて過ぎてしまっていたのは、それだけ民の心がばらばらだったということである。

二、主の宮の修復とその後

ヨアシュ王の第二十三年になって、改めて宮の修復命令が出された。

そのための費用徴収の箱が設けられ、今度は修復工事が実行された。

工事のための費用は十分に備えられ、また宮での礼拝の費用も備えられた。

歴代第二24章によると、集まった金は主の宮の器具のためにも用いられている。

修復工事の完了は、主の宮が再び神礼拝の中心となって、王も民も喜ばしい時を迎えるはずであった。

ところがヨアシュにとっては、この主の宮の修復が、主ご自身を仰ぐ信仰としっかり結びついてはいなかった。

そのため、エホヤダの死後、たちまち綻びが生じるのであった。

アラムの王ハザエルの脅威は、ヨアシュに対する神からの警告であった。

主を求めよとの招きは、この時も預言者を通してなされていた。

しかし彼は主を求めるより偶像に頼り、ハザエルに贈り物を与えてその脅威から逃れようとした。

主を捨て、主の宮を捨てるかのように、主の宮と王宮の宝物倉にあるすべての金をハザエルに送ったのである。

主にささげられた物を自分の身の安全のために使ったわけで、これは主に対する明らかな背信である。

彼は自分を守るために主の宮を捨てたのであり、結局、主に捨てられ、家来たちの心も離れてしまい、命を絶たれることになってしまった。

三、他人任せの信仰の危うさ

「ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた間はいつも、主の目にかなうことを行った」との記述は暗示的である。

エホヤダなしにヨアシュは主の目にかなうことを行えなかったということなのか。そうであるなら、事は深刻である。

導き手がいて、また助け手や協力者がいて、道を誤らないというのはよいことである。

しかし、一人では立ち行かないとなるなら、それは悲しいことである。少なくとも、聞き分ける判断力を養われていたいものである。

ヨアシュはエホヤダの死後、主を仰ぐ人々の助言を退けて、偶像に仕える人々の言うことを聞き入れていた。

エホヤダの死を待つかのように、ユダのつかさたちが王に取り入っていたのである。

主から遣わされた預言者たちが王を戒めたが、その戒める者の声に王は耳を貸さなくなっていた。

王の権威を振りかざし、思いのままに振る舞っていたのである。

導く者がいなくなるという大きな不安があったに違いない。

けれども、本当に頼るべき方に頼ること、生ける真の神に頼る確固とした信仰を身に付けることを怠っていたのであろう。

その結果、人を恐れ、人に頼り、偶像を頼りとする罠に陥るしかなかったのである。

結び

ヨアシュ王の姿、そしてその当時の民の姿は、他人任せの信仰は脆いことを私たちに思い知らせてくれる。

指導者の存在、その役割は確かに大きい。

しかし、その指導者がいる間に、一人一人が自分の信仰を確立することが何よりも大切である。

すなわち、私たち一人一人が、教会の交わりの中で信仰の成長を遂げさせていただき、しっかりと主に結びつくことである。

ヨアシュ王は、エホヤダが教えてくれたからとか、エホヤダが命じるからではなく、自ら主の教えに聞き従うことが求められていたのである。

民もまた、王の命令だからではなく、主の教えだから従うという信仰に進むことが必要であった。

まさしく信仰の自立こそが、いつの時代、どこにあっても信仰者の命となるものである。

今朝はペンテコステ礼拝である。

第一世紀の三十年頃のペンテコステの日に、聖霊がキリストの弟子たちの一人一人に降った出来事は、弟子たちの一人一人が、聖霊の働きによって神と自分との関係をしっかりと築くことのできる保証を与えられたことにほかならなかった。

目に見える導き手に頼りたいのが、私たち人間である。

けれども、目に見えない聖霊なる神が一人一人に宿ってくださることによって、その神に頼って一人一人が自立できる道を開いてくださったのである。

今日に至るまで、聖霊はキリストを信じる者の一人一人に降り、宿り、励まし、力づけ、導いてくださっている。

この聖霊に導かれるなら、そして心から従うなら、私たちは必ず主の目にかなって歩めるのである。

聖霊を離れてはまことに危ういとしても、聖霊が宿っていてくださるなら大丈夫である。

この聖霊によって、私たちの信仰は自立させていただけるのである。

何と幸いなことか。何と力強いことか。

ヨハネ14章16~17節、14章26節、16章13節。