「教会設立25周年」を迎えた。1979年5月20日の教会設立、すなわち地区教会設立から満25年と数えてみると、ずいぶん昔のことと思える反面、速かったとも思う。
15周年からのこの10年が速かったのだろうか。
今朝はそのことはさておき、先週に続く列王記第二11章に、まず目を向けることにする。
エフーによるアハブの家の滅亡は、主のことばのとおりとは言え、まことに痛ましいことであった。
北イスラエル王国だけでなく、南ユダ王国のアハズヤの家の者たちの多くも殺されてしまった。
その非常事態の中で、アハズヤの母アタルヤは何を考えたのか、王の一族をことごとく滅ぼして、自分がユダ王国の実権を握るのであった。
彼女の両親はアハブとイゼベルであり、アハブの家の滅亡を受け入れられず、自分の力を誇示することによって抵抗して見せたのかもしれない。
けれども、夫ヨラムの血筋の者をことごとく滅ぼそうとしたその意図というものは想像を越えるもので、そこまで人が冷血になれるとは恐ろしいことである。
神、主はこの悲惨の時、エホシェバを備えておられた。
彼女は、生まれて間もないアハズヤの子ヨアシュを盗み出してかくまい、難を逃れさせた。
そして六年間、主の宮に隠して、七年目にこのヨアシュを王として立たせることに、大切な役割を担うのであった。
この時、主が用いられたのは、主の宮に仕える祭司エホヤダであった。
実はこのエホヤダの妻がエホシェバであり、二人はよくよく心を合わせてこの難局に当たっていた。
激しい殺意や策略が飛び交う時、王の血筋を残すまいとするアタルヤがいて、小さなヨアシュをかくまうのは容易ではなかった。
しかし、「主の宮」という、その時には最も安全な場所にヨアシュを隠すことができた。
祭司エホヤダは細心の注意を払って彼を守り、時の来るのを待つのであった。
ヨアシュが七歳になった時、エホヤダは、カリ人、近衛兵の百人隊長たちを主の宮に集め、契約を結んで誓いを立てさせ、王の子を見せた。
彼は周到に準備し、王に忠誠を誓う者たちを集めていたのである。
そして守りを固めた上でヨアシュを連れ出し、民の前で王冠をかぶらせ、王としての油注ぎを行った。
王につく者たちはいっせいに、「王さま。ばんざい」と叫び声をあげた。その歓声はアタルヤのところに届いた。
このヨアシュ王の戴冠、即位は、民に大きな喜びをもたらしていた。
「一般の人々」、すなわち「国の民」と言われている人々とは、主を信じ、主に従う信仰を持つ人々を指すと言われる。
民の内の多くが時代の変化を感じ取り、大喜びしていたのである。
アハブの家による支配が強く、バアル礼拝者たちによって抑圧されていた人々が、ようやく解放されたかのようにヨアシュにつき、エホヤダにつき従ったのである。
アタルヤが自分の身の危険を覚えた時、時すでに遅く、主の宮から連れ出され、王宮に連れ戻され、そこで命を奪われてしまった。
アハブの家は、これによって全く退けられたのである。
そしてエホヤダは、主と王と民との間で、主の民となるという契約を結び、王と民との間でも契約を結ぶ、という一連の出来事を取りまとめた。
これはヨアシュ王の即位におけるハイライトであった。
しばらくの間、特にヨシャパテの死後の十数年、バアル礼拝の勢いに押され続けていた。
しかしここに、まことの神、主を仰ぐ信仰の復興がもたらされようとする第一歩があった。
契約を結んで思いを新たにした人々はバアルの宮を打ち砕き、エホヤダは主の宮の管理を改めて定め、みな新しい王の統治を喜ぶのであった。
民の喜びの一番の源は何だったのだろうか。王が立てられたことだろうか。
20節では、「アタルヤを殺したから」と言われているが、それが一番の喜びなのだろうか。
確かに王が立てられて秩序が回復していた。
しかし、その秩序の回復という意味では、「主の民となる」という契約を結んだこと、神と人との関係の一番の土台、基礎が再構築されたこと、これこそが何よりも大きなことであった。
それは神の民イスラエルにとって、当たり前のこと、当然のことというのではなく、繰り返し明確に確認されるべき事柄なのである。
主の民でありつつ、主の民となることを常にはっきり確認しながら生きることが、生きる喜びの源となるのである。
私たちはこの世で、多くの人間関係の中に生きている。時にそれがすべてのように振り回されることがある。
けれども、人との関わりに優先するものとして、神との関係があること、関わりがあることを覚えることを忘れてはならない。
主の民、神の民としての自分を見つめ、その次に、周りの人々との関係があることを覚えたい。
教会設立25周年記念礼拝にあたり、私たちは25年前に、この群れは主の民となること、主の教会となることを誓って歩み始めたことを思い出すことができる。
主の民としての自覚が揺らいだり、十分に証しできずにもがいたことも思い出される。
しかし主は、25年間確かに守り導いてくださった。
そのことを心から感謝し、今日もう一度「主の民となる」思いを新たにして、主の民である自覚と喜びを増し加えていただきたい。
主の民とならないままの人間は、風に吹き飛ばされるもみがらのようであると、聖書は言う。
揺れ動くもの、根なし草のような者である。
主の民となることこそ人生を確かにする、と証ししたい。
詩篇1篇1~6節、100篇1~5節。