列王記第二10章は、一つの時代の終わりを告げる章である。
オムリ以来栄えたアハブの家が絶たれることが記されている。それとともに、アハブの家と関わってきた預言者エリヤとエリシャの時代の終わりでもある。
その終わりをもたらすために、主はエフーを立てて用いられるのであったが、彼の人となりについては、評価するのが容易でない出来事が記されている。
エフーは確かに主によって選ばれ、用いられていた。
エリヤの時に主のご計画が明らかにされ、エリシャの時、謀反を起こし、たちまちのうちにヨラムとアハズヤを打ち倒し、イゼベルをも退けて権力の座に着いたのであった。
それらはエフー自身が言うように、主が告げられたとおり、事が成っていた。
けれども、主はエフーのすべてをよしとしておられたのだろうか。
私たちが聖書を読む時の判断の難しさが、ここにあるようである。
エフーはアハブの家を打つために立てられていたが、そのためにはどんな方法を使ってもよかったのだろうか。
権力闘争には勢いが必要である。ほんのわずかのためらいも命取りとなる。また勝手な温情は、主のみ旨を曲げることにもなりかねなかった。
彼はアハブの子どもたち七十人を殺し、見せしめにした。他にもアハブの家に属する者でイズレエルに残っていた者を皆殺しにし、さらにはアハズヤの身内の者をも殺したのである。
その激しい殺りくをエフーは「私の主に対する熱心さ」と言い、聖書は皆殺しや根絶やしの事実を、「主がエリヤにお告げになったことばのとおりであった」と記している。
エフーは主から告げられたとおりのことをしたのであろう。
また彼自身、「私の主に対する熱心さ」と理解して事に当たったのは間違いなかった。
主に対する熱心さは、バアル礼拝を退けるための策略によく表れていた。
盛大な集会を催して、全員を討ち滅ぼしてしまう作戦を見事に成功させ、バアル礼拝者を根絶やしにしたのである。
こうしたことは主の目にかなったことで、よくやり遂げたと主ご自身が認めておられた。
ところが彼は、全き心で主に仕え、主に従っていたわけではなかったというのである。
ヤロブアムの罪から離れなかったからである。
金の子牛に仕えることをやめようとはしなかった。
また、心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に歩もうと心がけなかった。
一方で主の目にかなうことをよくやり遂げていながら、他方で主のみ心に反することを行い続けていたのである。
エフーの生き方において、相矛盾する生き方が同時進行していた。
人はそういう風に生きられるという事実を、私たちは見せられ、突きつけられるのである。
人がどれだけ熱心に主に仕えていると自分で確信していても、また主のことばどおりに行っていると確信していても、そして実際に主のことばのとおりに事が起こっていたとしても、それでもなお人は間違いを犯している可能性がある。
このエフーの姿から、そのことを学ぶことができる。
エフーは、主が確かにアハブの家を裁くために用いられた器であった。
だからといって、彼が実際に採った方法のすべてを、主がよしとされていたとは言えない。
その殺りくの激しさは、自分の思うまま、やりたい放題という一面を否定できないのである。
もし、主に聞きつつ自分の務めを探っていたならば、と考えると、ヤロブアムの罪をやめることが導かれたに違いなかった。
また、主の律法に「殺してはならない」とあることに目が留まったかもしれなかったのである。
生き方において、神の前に慎みをもつこと、また人の命に対して畏敬の念を抱くことは、すべての人にとってとても大切なことである。
主の律法に歩むことを心がけなかったエフーは、そのような心遣いを全くすることなく突き進んでいたのであろう。
「エフーは、心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に歩もうと心がけず」と記されている。
私たちが主の目にかなって生きようとするなら、「主の律法に歩もうと心がける」ことが求められている。
心を尽くしてそう生きようとするか否かである。
どのようにしてか。十戒を思い浮かべるか、それともその要約として主イエスが教えてくださったことばを思い出すかである。
マタイ22章37~40節には、その要約が示されている。
どこにいても、また何をしていても、主の前に主の教えに照らしつつ自己吟味すること、それが「主の律法に歩もうと心がける」ことになる。
詩篇1篇1~6節にも、その歩みが示されている。
祈りをもって始めたことが順調に進む時、感謝してさらに前進しつつも、慎みを忘れず、自己吟味するように導かれたい。
自らの不完全さや欠けを知ってこそ、主の教えを聞き、導きを求め、主が歩ませてくださる道を歩ませていただきたい。
そのような生き方こそが尊いのである。