礼拝説教要旨 2004年5月2日
恵みのゆえに
エペソ 2章1~10節(8節:2004年度主題聖句)

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」

私たちは、2004年度主題聖句にこのみ言葉を掲げることにした。

大切な教えであり、忘れてはならないみ言葉である。福音の中心を示す「恵み」が説かれているからである。

一、恵みとは何か

「恵み」という言葉が福音の中心、本質を示すという点で、だれも異存はない。よく分かっているつもりである。

しかし、「恵みとは何ですか」と問われて、即座に「これこれです」と一言では答えにくいのも事実である。

『明解国語辞典』では、「めぐみ」は「あわれみ、ほどこし」、「恩寵」は「主君、神のめぐみ」と説明されている。

『広辞苑』では、「めぐみ」は「めぐむこと、なさけをかけること、あわれみ、いつくしみ」、「恩寵」は「めぐみ、いつくしみ、恩遇、寵愛、キリスト教で神の人類に対する愛」と説明されている。

ヘブル語の「ヘーン」、「ヘセド」、そしてギリシャ語の「カリス」が「恵み」と訳されている。

「ヘーン」は神が人に示す愛顧を意味する。そして「ヘセド」は「いつくしみ」とも訳される。

「カリス」は一般的には「魅力」や「感じのよさ」を意味する言葉で、「感謝」を意味することもある。

新約聖書では、神が人を慈しんでくださること、憐れみを注いでくださることとして、パウロが特に神の愛と憐れみの注ぎかけを「恵み」と言い表している。

神の救いのみ業そのものが、ただ神の恵みによるということである。

パウロは、神が私たちを愛して救ってくださったこと、それは神の豊かな愛と憐れみによるものだと説く。

そのことを冷静に8節で告げようとしたが、筆を進めるうち、感情がほとばしり出るように、5節のところで「ただ恵みによるのです」と、叫ぶようにして語るのである。

二、かつての悲惨と今の幸い

パウロは、クリスチャンの救いの確かさ、救いのすばらしさを説くにあたって、救いにあずかる以前と以後の大きな違いに目を留めている。

かつての悲惨がどれほどのものだったかを、まず指摘する。

「罪過と罪との中に死んでいた者」と。

外に表れた咎と内なる心の中の悪、行為に表れる罪と心の中に潜む罪など、人は絶えず罪と戦い、これに打ち勝ちたいと願っている。

しかし本当のところは、罪の中に死んでいたという悲惨、これがすべての人の現実なのである。

打ち勝とうともがいていたつもりであるが、悪魔の言いなりになって、身を任せていた状態だったのである。

パウロは、自分も例外でなく、その悲惨の中にいたと告白する。

世の流れに従い、肉の欲の中に生き、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした、と。

その悲惨から救い出されたのは、ただ恵みによる。

それは、死んでいた者をキリストとともによみがえらせ、生かしてくださること、しかも天に迎えてくださることである。

そしてそれは、神がどんなにか愛に富み、慈しみ深いかを、代々にわたって示すためなのである。

かつての悲惨と今の幸いや祝福の対照を通して、神の恵みと憐れみが明らかにされるというのである。

三、救いは神からの賜物

ところで、以前と以後の違いは、周りの人々に果たしてどれくらい明らかになるのだろうか。

かつてと今の違いを一番よく知っているのは、本人のはずである。

私たちクリスチャンにとって、今ある自分を心から喜ぶためには、8節に示された救いの根拠を、私たち自身がよくよく心に留めていることが肝心である。

救われるはずのなかったかつての自分を忘れないこと。そして、今あるのは恵みのゆえ、信仰によってであると、いつも覚えて心から感謝することである。

神は一方的な恵みを注いでくださった。

神の側から、なぜか自由で自発的な好意、まさしく愛顧が私に向けられ、その圧倒的な恵みを信仰によって受け止めて救われたのである。

ところが、その信仰も実は神が備えてくださっていたものであり、従って救いは神からの賜物、プレゼントなのである。

それこそ行いによるのではなく、救いを誇れる人は一人もいない。

ただ、救いにあずかった者が喜びのうちに良い行いに進むように、キリストにあって生かされていることを知るべきなのである。

今、新しいいのちに私は生かされているのである。

結び

ガラテヤのクリスチャンたちの問題は、恵みによる救いで始まっていながら、行いによって救いを完成させようとしたことであった。

コリントのクリスチャンたちは十字架を仰ぎながら、次第に知恵や知識、人間的な誇りから仲間割れしたのであった。

一世紀のどの教会にも、行いに頼り、その行いを誇る過ちがあった。

今日の教会にも、肝心の恵みを忘れる大きな落とし穴があるようである。

教会にいて、本当は平安を得たいにもかかわらず、なぜか気持ちが静まらず、心が安まらないことがある。

何か心に責めを感じるのである。

他の人のことが気になるのか。自分で自分を責めているのか。祈りが足りないのか。奉仕も余りしていないのか。

恵みを見失うと、たちまち心が騒ぐのである。

もし自分で自分を責めているのなら、そんなことは全く必要のないことなのである。

救いはすでに成り、もう救われた。救われてしまっているのである。恵みにより、信仰によって。

日々の生活において罪を犯すことがあっても、もはや罪の中で死んでいる者ではなく、キリストとともに生かされ、天に迎えられた者として生きているのである。

罪を悔い改めて立ち上がり、良い行いへと進むことができるのである。

主イエスは私たちを責めることはなさらない。かえって、心安まるように招いていてくださる。

主イエスは心優しい方であり、主に従う者もまた、みな同じく心優しくされるのである。

自分にとって、恵みのゆえに、信仰によって救われる救いの確かさを知る人は、必ず心優しくされ、救いを喜び、ただ主を誇る者となって生きるに違いない。

私たちは、そのように生かしていただきたい。