「週の初めの日」に私たちが礼拝をささげているこの事実は、キリストの復活、よみがえりの出来事に基づいている。
人々がどんなに否定したとしても、教会は復活を信じ、これを記念して礼拝をささげている。
最初の弟子たちは当初の戸惑いから、やがて確信と喜びに導かれ、復活の証人として福音を全世界へと広めたのである。
しかし、この復活を信じる信仰というものは、いつの時代もとても信じにくいものであった。
なぜ信じにくいのか。その理由は何なのか、その答えを見出すのは困難である。
しかし使徒パウロは、イエスのよみがえりを信じる信仰は、アブラハムが神を信じたその信仰に等しく、神によって義と認めていただく信仰にほかならないと言い切っている。
そこに、ヒントを見出すことができる。
私たちが神を信じて義と認められるのは、まさしく主イエスの十字架と復活を信じて義と認められるのである。
パウロが懸命に説いていることは、神を信じるという時、信じる人間の側に何らかの良いことがあって、その良いことが評価されるということは一切ない、ということであった。
人間には、執拗なまでに自分を認めてほしいという欲求がある。
その執拗さは、信仰にも付きまとう。
何事も自分が到達したところで考え、自分が理解できるところ、何かを成し得たところ、成し得るところで、信仰をも推し量る。
そのため、聖書の教えを学んで実行し、律法の求めを果たすことによって救いを得ようと努力することに熱心となり、信仰によって義とされることが分からなくなるのである。
その分からなさは、復活が信じられないということに相通じる。
信じられるから信じるというのではなく、ただ信じるか否かという、それくらい単純な問題とも言える。
そして、その余りの単純さに、答えを出したくないと抵抗するのかもしれない。
アブラハムは、その信仰のゆえに多くの国民の父とされた。「信仰の父」と言われる。
優れた信仰のゆえにそう言われるという一面があるが、本当のところは、優れているとか優れていないとかの問題とは別の捉え方が必要である。
彼の信仰は、「望みえないときに望みを抱いて信じました」という信仰である。
神ご自身を、「死者を生かし、無いものを有るようにお呼びになる方」と信じたのである。
実現の可能性が分かって信じたのではない。
むしろ、人間的には不可能としか考えられないまま、神のことばを信じ、しかもその約束がいっそう実現不可能となっても信じ続けたのである。
アブラハムにとって、子どもが与えられる、「あなたの子孫はこのようになる」と約束されても、その約束の実現については、全く不可能と絶望するしかない状況で二十年以上が過ぎていた。
自らの無力さを味わい、時には悲しみの底にあって、なお神の約束に希望を見出していたのである。
いのちは神のもの、神がいのちを支配しておられると信じ、神の成さることを待ち続けた。
その信仰が義と認められたのは、イエスのよみがえりを信じる信仰を義としてくださることと、全く相通じることとしてであった。
神を信じきる。ただそれだけなのである。
私たちは、しばしば信仰そのものの強い弱い、大きい小さいを気にしている。
神を信じ、復活を信じる信仰こそが義と認められるのであるが、その信仰を強く保っていたいと願うのである。
「その信仰は弱りませんでした」とか、「信仰がますます強くなって」と言われると、信仰を強くしていただきたいと祈ることになる。もちろん祈ることは大事である。
しかし、望みえないときに望みを抱いて信じること、そして常識では到底信じられない復活を信じることは、信仰の強い弱いとは全く次元が違うことである。
19節は、「その信仰によって弱りませんでした」と訳すことができ、また20節は、口語訳で「かえって信仰によって強められ」と訳されている。
信仰において肝心なことは、神を信じる者を神が強くしてくださることにある。
くじけそうになる時も、信仰によって神を仰ぐ者はくじけることはない、弱ることはない、という事実である。
神の守りのみ手が差し伸べられていると信じるなら、その信仰によって強くされるのである。
私たち人間の側で、確信が揺らぐことはある。
しかし、たとえ私たちが揺らぐことがあっても、神ご自身と神が成さることは決して揺るがない。
その揺るぎなさを信じることが、信仰の鍵である。
復活を信じるのは、神の絶大な力を信じることである。
人間の側には絶望しかないところで、神を仰ぐことである。神の成さることに希望を抱くことである。
ただ神を待つのみであっても、み業を待つところに、神は約束を果たしてくださるのである。
最初の弟子たちは、主の復活を望むことさえできなかった。にもかかわらず、神は約束のとおりに主イエスをよみがえらせ、弟子たちを強く立たせておられる。
神の成さることの確かさが、そこにある。
私たちは何事も自分を基準にして考えている。
神のみ業さえも、自分の基準で推し量っている。
信仰に立っているようでいて、自分の願いや思いを神に押しつけてはいないだろうか。
奉仕にしても、自分に力がある間は、それこそ信仰によって歩んで奉仕していると思っているのである。
しかし、自分では何もできないという状況に追いつめられて、その時、神に望みを見出すか否か。
そのような視点を、復活を信じることに見出しているかどうかが肝心である。
復活信仰の力は、弱さの中、絶望の中にある時こそ大きく、無限に力強く現されるのである。
アブラハムは、無力さを味わい、二十年以上その絶望感の中で神を仰いでいた。
モーセは、八十歳から主に用いられている。
パウロは、人間的な誇りを全く捨てて主に仕えた。
誰もが人生の困難を経験する。苦悩し、思い悩むことがある。
そのような時、イエスの十字架の死と死からのよみがえりを心から信じる者は、その信仰によって弱ることなく、かえって強くされるのである。
「弱いときにこそ強い」と言える、そのような歩みを神が導いてくださる。
信仰による力づけ、保証を与えてくださるのである。
復活を信じる信仰とは、神の無限にして全能の力を信じる信仰にほかならない。
その信仰の力は大きいと心に刻んで、この週も歩ませていただきたい。