先週イースター礼拝をささげ、主イエスのよみがえりを心に留めた。
よみがえりの主にお会いして、弟子たちは信じる者になっていった。彼らは主の復活の証人として世に送り出されていったが、私たちも同じく主の証人として、一週間歩むことができただろうか。
今朝は先週ふれたことと重なるが、主の復活から一週間後の出来事から、もう一度学んでみたい。
「一週間」という時間の流れは、二千年前も今も変わらない。
主のよみがえりを喜んだ弟子たちであったが、週の初めの日に主イエスにお会いし、その後、主と別れた弟子たちは、どのように一週間を過ごしたのか、とても興味深い。
喜びをどのように持続していたのだろうか。それとも日常に戻っていたのだろうか。
恐らく、何が何だかよく分からない、どうしていいのか分からない、戸惑いの日々であったのではないだろうか。
聖書はほとんど何も記していないが、その一端を示すのが24~25節である。
主にお会いしたと言う弟子たちと、その場には居合わせなかったトマスとの間で、激しく議論がなされていた。
主にお会いした、主を見た、と喜びを告げる者たちの方が多かったにもかかわらず、トマスは自分で確かめるまでは、「決して信じません」と強がっていた。
私たち自身も、復活を信じていることを他の人に伝えることの難しさを味わっている。
「そんなこと信じられない」と強く言われると、たじたじとなってしまうことがある。
それと似たように、弟子たちはトマスを説得することはできなかった。
彼らは、どうしたものかと気まずい思いで、その週の日々を過ごしていた。無力さを思い知らされていたのである。
トマスもまた、自分ではどうすることもできなかったのである。
主は弟子たちのこの様子を、どのように見ておられたのだろうか。
すぐにでも姿を現して、「わたしだ」と言ってくださってもよさそうである。しかし、何もなさらず一週間が過ぎた。
そして、ちょうどトマスも一緒にいるその所に、主は現れておられる。
主はトマスに手を見せ、また身体を差し出すようにして語りかけておられる。
「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
主はトマスの思い、考え、願いのすべてを知っておられた。
彼の一週間の葛藤のすべてをご存じの上で、彼に近づいておられたのである。
主イエスにお会いしたトマスは、それこそ迷うことなく、ためらうことなく、「私の主。私の神」と答えている。
彼は心から主を拝した。
彼の喜びは、主は私に現れてくださった、私に近づいて語りかけてくださった、という喜びにほかならなかった。
一週間の間、自分だけという疎外感も味わっていたかもしれず、信じたくても信じられない気持ちから、かえって「決して信じない」と強がっていたのかもしれない。
八日前、その場に居なかったばかりに、と悔やまれもしていたに違いない。
考えても考えても、いや考えれば考えるほど、自分では何もどうすることもできなかったのである。
だからこそ、主が私のため、私一人のために近づいてくださったこと、現れてくださったことが分かって、大喜びしているのである。
復活の主がその姿を現された時、このトマスに限らず、その人一人を導くために近づいておられたという事実は明らかである。
主は「一人のために」ご自分の姿を現して近づき、その人に語りかけてくださるのである。
朝早く墓に着いた女たちの中で、マグダラのマリヤに主は声をかけておられた。
ペテロには弟子たち皆に会う前に会い、エマオ途上の二人の弟子にも、復活の身体をもって姿を現しておられた。
主は一人一人の心の内をご存じの上で、必要に応じ、時にかなって一人一人に近づいておられる。
ペテロには特別の配慮をしておられたと考えられる。主を否み、主を裏切ってしまったという悔いの涙を流したペテロには、彼一人の所で姿を現しておられたのである。
その上で弟子たちの前に現れ、その場に居なかったトマスには、次の機会に彼一人のためというような形で現れてくださったのであった。
その後の教会の歩みにおいても、主は、一人また一人と信じない者を信じる者へと招き、多くの人の前に現れても、やはり一人一人を滅びからいのちへと招き入れ、今日まで働き続けて来られたのである。
使徒パウロは、私に現れてくださった主イエスの恵みを、何よりも喜んでいる。
パウロは、「そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました」と感謝している。
そのような教会の歩みが確かに導かれるのは、主がトマスに語られた時、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」と約束しておられたからである。
今日の私たちは、この約束のゆえに、肉の目で見ずしても、主イエスを信じていのちを得る幸いにあずかる者とされているのである。
私のことを知って近づいてくださる方、私一人のために語りかけてくださる方、それが復活の主イエス・キリストである。
主の日ごとに復活の主を礼拝するため教会に集うことは、単なる習慣とか、決められた集会だからということでは決してない。
復活の主がそこに現れてくださる時、私たちはそこで主イエスにお会いするのだと、心にはっきり覚えることが大事である。
主ご自身が、私たち一人一人に近づいてくださるのである。
たった一人のためにこそ、主はその人を救いに招くため、いのちに導くために現れ、近づいてくださる。その時が、主の日の礼拝である。
すでに主イエスを信じた人にとっては、繰り返し繰り返し主にお会いして力をいただき、主イエスによって生かされ、世に送り出していただく時である。
それゆえにトマスとともに、一人一人、主の前に心から、「私の主。私の神」との告白を新たにすることが求められる。
なお疑問が解けず告白をためらう者のためには、主は必ず別の日を備えて、招きの手を差し伸べてくださる。
トマスの経験は、そのことを私たちに教えてくれる。
主の日ごとの礼拝においてか、また一人一人で祈るたびごとか、必ず主は導いてくださる。
主は私たちを救うため十字架で死なれ、三日目によみがえり、「わたしを信じなさい」と、私たちが生きている限り招き続けてくださるからである。
信じた者は、主の復活の証人として世に送り出されている。
主はその一人一人とともに歩み、その人の生涯を守り導いてくださる。
私たちは感謝をもって、主とともに生きる者とならせていただきたい。