週の初めの日の早朝、香料を携えて墓に着いたマグダラのマリヤたちが聞かされた言葉は、こうであった。
「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレのイエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。」
全く考えもしなかったこと、聞いても信じられない出来事が告げられたのであった。
ところで、代々の教会にとって、また全世界のクリスチャンにとって、何を信じているのか、何を一番大切としているのかと問われるなら、それはキリストの十字架と復活である。
このうちキリストの十字架については、クリスチャンであろうとなかろうと、歴史上の出来事として誰もが認めるのであるが、復活については、これを信じるか信じないか、大いに意見の分かれるところである。
信じやすい人、信じにくい人と分けられるのだろうか。
何事にも素直な人、反対に頑固な人がいる。単純な人、理屈っぽい人、思慮深い人、論理的な人、率直な人、直感的な人、冷静な人、感情的な人など、実にさまざまである。
今日のように科学が発達して知識が増した現代人にとって、すなわち物事を極めて常識的に判断できる人々にとって、死人の復活はとても信じられるものではない。
教会ではよくもそんなことを信じられるものだ、との批判を聞かされる。
けれども、最初の弟子たちは今日の人々と違って単純に信じたのだろうか。余り知識もなく素直だったから信じられたのだろうか。
本当の事情は、決してそのようではなかったのである。
「ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です」と、空になった墓を見せられた女たちは、それはそれは動転してしまった。
「あの方はよみがえられました」という言葉を確かに聞いたとしても、それですぐに喜ぶことなどできなかった。
見たこと、聞いたことを、恐ろしくてだれにも言えないほど震え上がっていたのである。
やがてイエスの言葉を思い出し、そしてマリヤはイエスご自身にお会いして、ようやく大喜びして弟子たちに伝えることができた。
ところが、彼らは女たちの話に取り合わず、決して信じようとはしなかった。
弟子たちも極めて常識的に、復活など有り得ないと考えていたからである。
彼らも私たちと同じように、常識的に考える人たちであり、皆、復活のイエスご自身に会うまでは、疑い続ける人々であった。
空の墓を見ても、それでイエスのよみがえりを信じることなどできなかった。
イエスはよみがえられたとの知らせを仲間から聞かされても、イエスにお会いしたとの証言を聞いても、誰一人として、それで信じる者になることはなかったのである。
弟子たちの一人一人が信じる者に変わっていくのは、よみがえった主イエスが一人一人に順次お姿を現してくださり、「信じる者になりなさい」と招いてくださったからであった。
彼らは皆、よみがえりの主にお会いして、信じる者に変えられていったのである。
まさしく、よみがえりの主が、よみがえりのいのちを弟子たちに与えてくださるかのようであった。
コリント第一15章3節以下、またトマスについてはヨハネ20章24~29節、パウロについては使徒9章3~9節に記されている。
復活の主イエスにお会いすること、これこそがイエスを信じる鍵である。
それでは、今日の私たちはどうしたらよいのだろうか。
私たちは肉の目で見ること、この目でイエスを見ることを求めてしまう。
けれども、よみがえられたイエスにお会いすることは、今日では霊の目をもって見ること、お会いすることにほかならない。
主はそのことを、トマスへの顕現の時に約束しておられた。
使徒パウロも、まさしくそのような経験をしていたのである。
よみがえったイエスは確かに一人一人に現れ、信じない者を信じる者に変え続けて、今日まで教会を導いて来られた。
そして、その変えられた者一人一人を、これまでとは価値観の全く違う者として世に送り出しておられるのである。
世の中の誰も信じられないイエスの復活を信じたということは、生き方が変わることであり、また変わらなければおかしいとも言えることである。
弟子たちがそのように生きたこと、生きられたということは、復活の主イエスが彼らを生かしておられたからである。
代々の教会が迫害をも恐れず歩んだこと、また歩めたことは、よみがえられたイエスが教会を支え、教会によみがえりのいのちを与えておられたからである。
神は、人々が退け、十字架の死に追いやったイエスを死からよみがえらせ、この方こそ主キリストとして立てられた。
この方を信じる人々は、この方に倣い、この方とともに神の絶対的な守りの中で歩ませていただき、生かしていただけるのである。
世界の歴史は、そのような人々の証しに満ちている。
私たちにとって大事なことは、復活の主にお会いして、これまでの生き方が本当に変えられているか、自己吟味、自己点検を迫られていることではないだろうか。
主は聖書を通して私たちに迫り、聖霊の働きをもって「信じる者になりなさい」と招いてくださる。
それとともに、信じた者としてこの世で生きるように、私たちを送り出していてくださるのである。
死者が生き返るかどうか、そんなことが本当にあるのかどうかと、あれこれ議論するのではない。
十字架で死なれたイエスを神がよみがえらせられたとするなら、そして私たちにも現れてくださっているなら、それこそ人間的な考えや常識を覆されるのである。
そのイエスこそキリスト、まことの救い主と信じるかどうか、私たちは問われている。
最初の弟子たちは、信じないわけにいかない、語らずにはいられない、そんな思いで証人となっていた。
イエスを信じる者は、もはや肉のいのちに縛られることなく、復活のいのち、まさしく永遠のいのちに生きる望みが与えられている。
地上のことに縛られ、目先の益や幸いを追うことなく、永遠を見据えて生きる者とさせていただきたい。
罪を赦され、神にあって生かしていただく日々を喜ぶ者として歩ませていただきたい。