主イエスは約束のメシヤ、すなわちキリストとしてこの世に来られ、この地上を歩まれた。
まことのメシヤは、人々の思いとは違って、苦しみを受け、捨てられ、殺される方であり、しかし死からよみがえる方であった。
そのイエスが十字架の死を迎える最後の週を「受難週」という。
イエスはろばの子に乗ってエルサレムの町に入り、その日は人々の大歓迎を受けられた。群衆の多くは、なおイエスに地上の王としてのメシヤの働きを期待し、「ホザナ。ホザナ」と叫んでいた。
受難週の前半、イエスは宮で人々に教えを語ることに専念された。人々に語り、またユダヤ人の指導者たちと論じ合いして過ごされた。
人々の期待が高まる一方、指導者たちの妬みはいっそう増し、けれども人々の期待どおりには振る舞うことをなさらないイエスに、人々は戸惑っていた。
そのような状況の下で、水曜日、イエスと弟子たちはベタニヤの町で休息の一日を過ごされた。
イエスご自身は、これから起こり来ることの一切をご存じで、心を静めて父なる神のみ旨を探っておられたのである。
木曜日となって、過越の食事をする備えを弟子たちがしようとし、主イエスの指示に従って二階の広間に皆が集まることになった。
この時の事情は、イエスご自身が、弟子たちがいろいろ心配を始める以前に、家の主人に話し、すべてを整えておられたということと考えられる。
過越の食事は、モーセによる出エジプトの折、イスラエルが経験した神の救いのみ業を記念して、代々行われてきた過越の祭りの中心である。
神の指示に従い、小羊をほふって、その血により頼んだイスラエル人の家の初子は死を免れ、救いにあずかったことを覚え続けているのである。神の裁きは、小羊の血を門柱と鴨居に塗った家を過ぎ越したのであった。
傷のない小羊を必ずほふり、その小羊を食することを繰り返すことによって、神が成してくださった救いのみ業を覚える。
それは、やがて成し遂げられる神の究極の救いのみ業を民に教えるものとして繰り返されていた。
そして神はご自身の計画の中で、そのような小羊としてメシヤを遣わすことを預言しておられた。
さらに主イエスご自身、ご自分がその小羊であることを弟子たちに告げられたのである。
食事の席でイエスは多くのことを語られた。まさしく最後の晩餐として、遺言のように弟子たちに語って教えられた。
ヨハネ福音書はその教えを多く記すのに対して、マタイ、マルコ、ルカの福音書は、ユダの裏切りと聖餐式の制定に絞るようにして記している。それだけ、後の教会にとって聖餐式が大切であることを伝えようとしたのである。
主イエスご自身は、緊迫した思いで、そして明確な理解のもとに、過越の小羊、ほふられる小羊として、「取りなさい。これはわたしのからだです」とパンを弟子たちに与えられた。
また、「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです」と語って、杯を与えておられた。十字架の死を前にして、あなたがたのためにこそ、わたしは肉を裂き、血を流すことになる、と告げておられたのである。
弟子たちは、イエスが語ることの真意を悟らず、よく分からないまま強がった。ペテロは、「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません」と豪語した。
また他の弟子たちとともに、イエスと一緒に死ぬ覚悟もしているとまで言い張りもした。
しかし、イエスを守るつもりでいながら、ゲッセマネで祈る主とともに目を覚ましていることはできなかった。その上、イエスが捕らえられたとき、皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。
主イエスは、そのような弱さと愚かさの中にある弟子たちのためにこそ、救いを与えるため、十字架につけられ、殺され、身代わりの死をもって救いを与えてくださるのである。
何と驚くべきこと、感謝なことであろうか。
主イエスはゲッセマネで祈られたとき、「ほふられる小羊」の苦しみを述べておられる。
しかし、その苦しみから逃れることを願うのではなく、父なる神のみ心に従うことを求め続けられた。
その祈りを祈り抜いたとき、心に平安を得て立ち上がっておられる。
私たちは、そのようなイエスを信じるように、このお方に聞き従うようにと招かれている。
私たちのために苦しみを受けてくださったお方がいらっしゃると信じられるのは、大いなる幸いであり、大いなる祝福である。ここにこそ救いがあり、たましいの安らぎがあるのである。
見捨てて逃げ出してしまうような者のためにこそ、身代わりの死を遂げてくださる方、それが神の御子キリスト、救い主である。
弟子たちは、三日目によみがえられた主イエスにお会いして、やがてすべてを悟る者へと変えられていった。
今日の私たちは、主イエスの十字架と復活の出来事のどちらをも知って、イエスを信じる信仰に招かれ、導かれている。
この幸いを感謝して、いっそう主を仰ぐ信仰へと進ませていただきたい。