受難週、イースターの季節を迎え、福音書からみ言葉を学ぶ。今年は、4月4日より受難週、4月11日が主イエス復活を記念するイースター礼拝である。
先週は廣橋牧師を通して、五つのパンと二匹の魚による五千人の給食の奇跡から学んだ。
「奇跡」の記事は、今日それを読む私たちに大きな戸惑いを呼び起こす。すでに信じた者には当然のことと思えるとしても、もう一度信じる以前の気持ちになって読み返してみると、果たして信じられるのか。確かに「つまずき」となるものである。
「奇跡」が「つまずき」となるのは、今日の私たちに特有の問題というわけではない。新約聖書の時代の人々にとっても同様であった。
主イエスが奇跡をなされたからといって、人々がいとも易くイエスを信じたわけではなかった。
それでも主イエスは、人々に教えを語るとともに、多くの奇跡のみ業をもって人々に臨み、幸いをもたらしておられたのである。
主が奇跡をなされたのは、ご自分が神であることを人々に示すためであった。すなわち「奇跡」は、神のみ力の現れそのものなのである。
けれども、いたずらに神の力を誇示するのではなく、必ず人に幸いをもたらすためになされていた。
人に益を与え、慰めや励ましを与えていたので、人々は主イエスによって満ち足りる幸いを経験していたのである。
問題は、人々が「イエスこそ神」との心からの信仰に進むか否かであった。
「奇跡」は、「しるし」、「不思議」とも記されている。
イエスの公の生涯はおよそ三年、その前半は人々の心を少しずつ解きほぐすようにして、ご自分を人々の前に提示しておられた。
そのクライマックスが五千人の給食であった。
その後しばらくして、弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々に行き、多くの群衆から離れた所で、主は弟子たちに尋ねられた。
「人々はわたしをだれだと言っていますか。」
人々がどれだけご自分のことを理解したかを、確かめようとされたのである。しかし、本当の目的は別なところにあった。
イエスは、弟子たちが人々の理解を次々に告げるのを遮るようにして、「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と問うておられる。
ずっと歩みを共にして来たあなたがた自身は、だれだと言いますか。人々とは違って身近にいて、今、何と答えますかと、イエスは問うておられたのである。
主イエスにとって、弟子たちこそが正しい理解をし、真心からの信仰に至ってほしいと願うのは当然であった。
イエスの問いに答えて、ペテロは弟子たちを代表するようにして、「あなたは、キリストです」と言った。
その答えは、イエスを旧約聖書の約束するメシヤ、すなわちキリストと信じますとの、信仰告白そのものであった。
旧約聖書では、王、祭司、預言者に油を注いでその職に就かせることがなされていた。
特に、ダビデの子孫としての「油注がれた者」、すなわちメシヤの到来が約束されていたのである。
詩篇18篇50節、89篇19節以下、132篇11~12節、イザヤ9章6~7節、11章1節以下などに、その約束が示されている。
弟子たちは、イエスをその約束のメシヤ、まことの王なる方、救い主と信じますと答えたのである。
主はこの答えをよしとされた。そして、そのメシヤ、すなわちキリストはやがて苦しみを受け、捨てられ、殺され、三日目によみがえると、十字架の死と復活の道を歩むことを弟子たちにはっきりと教え始められた。
しかし、まことの王にして、まことの救い主であるメシヤ、キリストが、苦しみを受け、捨てられ、殺され、よみがえる方であるという姿は、当時の人々にとって全く考えることができないものであった。
人々のメシヤに対する期待は、何よりも国を再興してくれる王、地上の王、力ある指導者としてのメシヤであった。
イエスに対しても、そのようなメシヤなのか、そうではないのか、人々は大いに戸惑っていた。
地上の王としてのメシヤとしてイエスに期待したものの、そのようには行動を起こさないイエスに、半信半疑という人も多くいたのである。
そのような意味では、ペテロの告白も半分は正しいものの、半分はなお当時の人々と同じ間違いを含んでいた。
弟子たちも、苦しみを受けるメシヤを認めることはできず、戸惑いを見せた。
それで、「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と、厳しく叱られたのである。
この間違いについては、今日も注意が必要である。
イエスをキリスト、救い主と信じたとしても、この地上で神に何を期待するのか、そしてどのように神に従おうとするのかが問われている。
神を思いつつ、この世で私たちも自分の保身こそが第一の関心事となりやすいのである。
聖書の約束するメシヤ、キリストは、苦しみを受け、捨てられ、十字架で殺される方、その後によみがえる方なのである。
よみがえりの希望があるとしても、苦しむことや、捨てられ殺されることがあってはならないとするのが人の考えである。
そんな弱さを見せる者を神とは信じられないと、人は退けるのである。
しかし、弱さを知る方、思いやることのできる方こそ、信ずべきお方、私たちがより頼むべき救い主なのである。
コリント第一1章18節以下にも、そのことが示されている。
「イエスをだれと言うか。」
「イエスこそまことの神、王の王にいます方、約束のメシヤ、救い主キリストと心から信じますか。」
この問いかけは、世界中のすべての人に向けられている大切な問いかけである。
人間として一番肝心な心の平安、たましいの救いを得るか否かの分かれ道が、ここにあるからである。
私たちは、何を一番大切としているのか問われているのである。
この地上で力や富によって安心を得ようとする努力は、残念ながら空しいと言わなければならない。
力により頼み、力によって平和を打ち立てようとすればするほど、平和は遠ざかってしまうことを、今の世界情勢は教えてくれている。
十字架でいのちを捨て、身代わりとして死なれ、三日目に墓からよみがえられた主イエスをキリストと信じること。
このお方に倣って歩むこと、生きること。そこに、まことの救い、まことの平和を見出すことが、今こそ求められている。
十字架に示された神の愛を知り、神の赦しを得て生きることが、すべての人にとっての幸いへの道である。
たましいの救いを得て、心に平安を与えられて歩む者としていただきたい。
参照 マルコ8章34~36節。