礼拝説教要旨 2004年3月14日
まことの王の王
列王記第二 9章1~37節(朗読 1~20節)

北イスラエル王国の罪にならって、南ユダ王国もまた激しく主の目の前に悪を行っていた時、主の裁きの時が近づいていた。

南の王アハズヤは、北の王アハブの子ヨラムとともに、アラムの王ハザエルと戦うためラモテ・ギルアデに行った。

しかしヨラムは傷を負って、イズレエルという地に帰っていた。その傷からか、病になり、アハズヤはヨラムを見舞いにその地へ駆けつけていた。

二人の意気消沈した王が、そこにいたのである。

一、主の裁きの時が近づく

アラムとの戦いは、一時的に休戦状態だったのであろう。

その時にエリシャは、若い預言者のともがらの一人を遣わし、エフーに王としての油注ぎをするよう命じたのであった。

エフーはヨラムの家来の一人で、兵たちをまとめる将校の一人であった。彼はすでにエリヤによって、やがて王となることを告げられていた人物であった。

そのことが今や実行に移されるという意味で、エリシャによる働きかけがなされるのである。

戦いの最中の緊迫した時、王が傷を負って戦場を離れた時、民が動揺している時など、いろいろな状況を考えると、その時しかないというほどの機会を捉えて、エリシャは若い者を遣わしている。

エフー自身がどれだけ計画し、準備していたかは定かでない。

しかし、若い預言者の到着と油注ぎ、そして他の家来たちへの公表によって、謀反は一気に成功し、いよいよヨラムとの対決へと向かうのであった。

二、主のことばのとおりに

ヨラムには、エフーの謀反のことは何も伝わらなかったようである。

エフーの軍勢が迫って来るのを見ても、戦況報告に来たというくらいに受け止めていた。

ヨラムは兵を迎えにやって、労をねぎらうように尋ねさせている。その兵が帰って来なかったので二人目を送り、二人目の兵も帰って来ないと分かった時、異変を感じて自ら出て行った。

それでもなお、自分の身に及ぶ事柄を悟ってはいなかった。

ヨラムはエフーと相対して言葉を交わし、エフーの激しい言葉を聞いて、ようやく謀反を知った。

慌てて一緒にいたアハズヤとともに逃げ出したが、エフーが放った矢はヨラムの心臓を射抜いた。

エフーは、主がエリヤを通してアハブに告げていた言葉を思い出していた。

彼は、アハブがナボテの畑を取り上げ、勝手に自分のものとしたその時、その場に居合わせ、エリヤからの主の言葉を聞いていた。

その主の言葉のとおりに行い、さらにアハズヤを追い、イゼベルに迫った。そして、かつて主が告げられたとおり裁きが下されたことを、彼自身が知ることとなった。

三、まことの王の王

一つ一つ、そこで繰り広げられていたことは、目を覆いたくなる惨劇であった。残忍で痛ましいことの連続である。

「主がエフーを用いてユダとイスラエルに裁きを下された」などと、簡単に口にしてはならないほどの悲惨さである。

私たちが知るべきことは、「あなたは殺してはならない」との戒めであり、正しいことのために悪を退け、滅ぼしてもよいと、人が勝手に言い張ることは慎まねばならない、ということである。

私たちが学ぶべきこと、心すべきこと、それは、生きておられるまことの神がおられ、その神こそがまことの王の王、主の主であられることである。

この方が、一切のことを支配しておられる。この世の王たちも含めて、すべての人はまことの神にこそ服し、従い、この方の前に心を低くして生きることを、最高にして最大の関心事とすべきなのである。

エフーは、この後なおも激しくアハブの家への攻撃をしている。バアル礼拝を打ち砕くことにおいて徹底していた。

そのことは良いとしても、肝心なことは、彼自身がまことの王の王である方を真実に恐れることであった。

けれども彼は、ヤロブアムの罪からは離れなかったと記されている。

今日の私たちにとっても、大切なことは、まことの神に真実に従うかどうかである。

知らず知らずのうちに自分を神の座に着けてしまう罪。それは、いつの時代にも、だれでもが陥る罪である。

結び

箴言16章1~5節のみ言葉は、目に見える事柄の一切を支配しておられる神のいますことを明言している。

「人は心に計画を持つ。主はその舌に答を下さる。人は自分の行いがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる。あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。主はすべてのものを、ご自分の目的のために造り、悪者さえもわざわいの日のために造られた。主はすべて心おごる者を忌みきらわれる。確かに、この者は罰を免れない。」

ユダとイスラエルの歴史を振り返る時、このみ言葉のとおり、神のご計画は寸分の狂いなく実現していることを知らされる。

神は語られたこと、約束されたことを果たされるのである。罪に対する裁きは必ず下されていると同時に、従う者への報いは、人の思いをはるかに越えて豊かである。

私たちにとって大切なことは、裁きにおける神の真実さに心震えることではなく、罪の赦しにおける神の真実さに心安らぐことである。

「恵みとまことによって、咎は贖われる。主を恐れることによって、人は悪を離れる」と言われているように、主はご自身の恵みと憐れみの豊かさによって、ご自身に近づく者をしっかりと立たせてくださるのである。

まことの王の王、主の主が今も生きておられることをしっかり心に刻んで、主を恐れて日々歩む者にしていただきたい。

アハズヤはエルサレムで墓に葬られている。それは、ダビデに約束されたともしびが、なお消えていないことを示す証しであった。

南の王国は罪に苦しむが、また神に立ち返る王が起こされ、その後の歴史を刻んでいる。