預言者エリシャの働きは、神が生きておられることを人々に証しし、神を恐れて生きるよう人々を導くことにあった。
その点で彼の働きはめざましく、際立っていた。まさしく「神の人」と人々の目に映っていた。
このエリシャの働きについて、列王記第二8章1節以下は、「こんなこともあった」と記している。
時間的なつながりとしては、4章37節に続くこと、そしてゲハジが病に冒される前のことである。
シュネムの裕福な婦人の一家とは、ずっと親しい関わりが続いていた。エリシャ自身も助けられながら、一家はいつもエリシャを通しての主の導きと守りにあずかっていた。
その地方を飢饉が襲うこと、しかも七年に及ぶことが主によってエリシャに知らされた時、彼はこの婦人一家に、その地方から逃れるようにと告げた。
彼女はエリシャを神の人と認めていたので、それを神のことばと信じ、家族を伴ってペリシテの地に逃れた。
そして七年が過ぎ、自分の家のある地に戻ってきたところ、家も畑も他の人のものとなっていて、一家は途方に暮れるのである。いったい誰が生活の保障をしてくれるのか、ということであった。
家を離れる時、誰かに託して行ったのに違いない。けれども七年の歳月は長かった。返してもらうことができず困り果て、ようやく王に訴え出ることになった。
そしてちょうど同じ頃、なぜか王はゲハジを呼び、「エリシャが行ったすばらしいことを、残らずに聞かせてくれ」と話を聞いていたのである。
エリシャのなした大きなこと、すばらしいことと言えば、それはもう死人を生き返らせたことである。ゲハジが、シュネムの女の息子を生き返らせたことを話していたその時、その話の当人たちが王の前に立つことになった。
王は、死から生き返った本人を目の前にして、心を動かされないわけにいかなかった。王は彼女に尋ねた上で、彼女の訴えどおりにするように命じ、生活の保障までも命じるのであった。
この時の王は誰なのか。アハブの子ヨラムと考えられるが、エリシャが行ったすばらしいことを残らず聞きたいと願ったのは、何か心境の変化があったのだろうか。
列王記第二3章2節で、「彼は主の目の前に悪を行ったが、彼の父母ほどではなかった」と言われている。その一面が表れているのだろうか。
エリシャを決して認めたくない。しかし全く否定することはできず、かえって気になって仕方がなかったのである。
神の前に心をさらけ出すことはしたくないが、実際に起こっていることは認めないわけにいかず、詳しく知りたいとの思いは募るのである。
「すばらしいこと」とは、大きなことを意味する言葉である。
エリシャが行ったすばらしいこととは、単なる人の業ではなく、神の業であることを、王も察していたのである。神ご自身についても、何か知りたいと願っていたのかもしれない。
そうした思いで話を聞いていたその時に、目の前にエリシャを通して幸いにあずかった婦人が現れ、エリシャが生き返らせた子どもを見たのである。
王としてできる限りの最善の裁きを下すことが導かれたのである。
ところが、それ以上、信仰に心が開かれたか否かは何も記されていない。エリシャにすれば、きっと心残りがあったに違いない。そのような出来事である。
そのエリシャが、いっそう苦悩する時があった。彼がダマスコ、アラムの首都に行った時のことである。
何のためにそこに行ったのか、何も記されていない。主が遣わされたのである。ヨナをニネベに遣わされたように。
アラムの王は病気で、治るのかどうかと心を痛めていた。エリシャが来たと知って、王はハザエルを遣わし、「主のみこころを求めてくれ」と頼んだ。
エリシャはこのハザエルに、確かに主のみこころを告げるのである。
しかし、そのみこころとは、王の死とハザエルが次の王となること、さらにはこのハザエルこそがイスラエルに害を加える者であるということまで含まれていた。
エリシャにとって、それは告げたくない内容であり、知りたくもなかったこと、決して起こってほしくないことを告げなければならない時であった。
それこそ心が張り裂けるばかりとなり、ハザエルをじっと見つめ、泣き出してしまったのである。
ハザエルがアラムの王となることについては、エリヤによって主のご計画がすでに明らかにされていた。列王記第一19章15節である。
エリシャは、エリヤから知らされていたことを、今いっそう明らかにされるその場に、主によって立たされていたのである。
主のご計画、主のみこころと言っても、ハザエルも戸惑う中で、悲しく、残忍なことまで告げなければならなかったエリシャは、心穏やかではいられなかったはずである。
主に従い通すことの重さや苦しさを味わっていたのである。
結局、ハザエルは王を殺し、代わって王の座に着いた。
神の人エリシャの生涯において、とてもつらく苦しい経験だったに違いない。
珍しく好意をもって近づいたイスラエルの王であったが、必ずしも心を開いたわけではないという現実があった。
また、遠いはずの人が好意をもって近づいた時に、良い知らせを告げることができず、自分自身も受け入れたくない神のご計画を告げなければならないという現実があった。
そんな現実の中で、エリシャは主に忠実に従い通そうとしていた。預言者の務めを果たしていたのである。
ダマスコへは行きたくない。そのような気持ちではなかったか。また、ハザエルが王になるとは告げたくない、認めたくない、と思っていたのではないだろうか。
しかしエリシャは、主が遣わすところに行き、主が明らかにされたことを信じ、主が語らせようとされたことを告げた。
ここに、人が生きて行く上で、すべての人に当てはまる普遍的な真理がある。
主が命じておられるなら、どんな困難があったとしても、そこに行かねばならないことがあり、留まらねばならないことがある。
また、どうしても受け入れたくない現実があり、それを否定したいとしても、主がそれをよしとしておられるなら、受け入れ、前進すべき時があるのである。
主の約束は、私たちがどこにいても、「わたしは、あなたと共にいる」である。
エリシャは苦悩しつつ、主が共にいてくださる約束に励まされ、またその約束によって大きな力を得ていたのである。
私たちもエリシャに倣い、主の約束を信じて歩み続けたい。
ヨシュア記1章5節、1章9節、マタイ28章20節、ヨハネ16章33節。