神の人エリシャは、常に神を仰ぎ、神に祈る人であった。
そのエリシャの存在は、イスラエルの民にいつも神の守りがあることを教え示すという意味で、大きな励ましと幸いをもたらしていた。
列王記第二6章24節以下にも、またそのような出来事が記されている。
エリシャの時代、アラムとイスラエルの対立は一貫して続いていた。そして、アラムによってサマリヤが包囲され、その上サマリヤ地方が飢饉に見舞われた時、神のなさる不思議が起こった。
飢饉の激しさと敵による包囲により、サマリヤの町は食糧が底をついてしまった。
人々は飢えをしのぐために、それまで決して口にしなかったものまで食べるほどとなり、それらが驚くほどの高値で売られることになっていた。ろばの頭一つが銀八十シェケル、鳩の糞一カブの四分の一が銀五シェケルであった。
「鳩の糞」とは、ゆり科の玉ねぎ状の植物の根とも、何かの草とも言われる。また、文字通り鳩の糞で、塩の代用品、あるいは燃料とも考えられている。
食糧のない悲惨さの実例は、人の肉さえも口にする、しかも幼いわが子を食べてしまったという悲劇に現れていた。
悲しみのどん底から、一人の婦人が王に助けを求めたが、王はどうすることもできなかった。王は半ばやけになって、助けなら主に求めよ、と叫ぶとともに、自分の服を引き裂いて悲しむのであった。
この時、王自身も、余りの苦しさに、幾らか心砕かれて悔いている様子を見せていた。王服の下に荒布を着ていたのである。
そうであったにもかかわらず、神の前に本気で悔いることはせず、いっこうに事態が打開されないことに苛立っていた。
主は助けてくれないではないか。エリシャがいるから、かえって悲惨が増している。彼を殺さねばならない。ついには、エリシャ殺害の命令を下すのであった。
イスラエルの王にとって、成すべきことは、神に対する不信仰を真心から悔い改めることであった。
神は、人生の危機や困難、また災いに直面して、その人が何を学ぶか、何に気づくか、そうしたことを期待しておられるのである。
ところが、この時の王は、直面する悲惨や迫り来る危機に対して、神は何もしてくれないと嘆き、エリシャが生きている限り良いことはない、とばかりに苛立っていたのである。
エリシャを打つために遣わされた使者、すなわち侍従も王と同じように、主に期待しても何も答えてくれないと叫んでいる。
「見よ。これは、主からのわざわいだ。これ以上、何を主に期待しなければならないのか。」
そのような中で、エリシャは告げた。
「主のことばを聞きなさい。主はこう仰せられる。『あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られるようになる。』」
これが、エリシャの告げた主の言葉であった。
使者にとっては、そんな事は有り得ない、という内容である。信じない彼は、エリシャによって、「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない」と宣告された。
神のことばは必ず成る、というのである。
私たちは、どちらを信じるのだろうか。使者で侍従と言われている者の言葉なのか、それともエリシャが告げた主の言葉なのか。
エリシャは、あすの今ごろ、危機は去って、あれほど手に入らなかった食糧が、それこそ大量に安く出回る、と、到底信じられないことを告げていた。その内容は、全く極端過ぎるほどであった。
しかし実際には、アラムの大軍は一晩のうちに、一切を捨てて逃げ出していた。
神がアラムの陣営に働きかけ、全く戦闘なしに退却させてしまわれたのである。だれも信じられない、予期しないことが起こっていた。
この真実が明らかになるのに、町の外にいた四人のらい病人が用いられた。
彼らは、どうせ死ぬのなら、アラムの陣営に逃れてみよう。助かるならもうけものだ、と敵陣に忍び込んだ。すると、なんと、そこにはだれもいなかった。
彼らはそこで思う存分食べたり飲んだり、欲しい物を手に入れた。そして後、ようやく王の家に知らせたのである。
初めはアラムの作戦ではないかと疑ったものの、真相が明らかになった時、イスラエルの王と民たちは、歓喜の中でアラムの陣営をかすめ奪い、奪った食糧をサマリヤの門の前で売ることになった。
主のことばのとおりである。
信じなかった侍従は、食糧に殺到する民に踏みつけられ、町の門のところで死んだ。
「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない」と、エリシャが告げたとおりであった。
これらの出来事を見て、イスラエルの王はどうしたのだろうか。主のことばのとおりに成ったことを認めたのだろうか。
しかし、私たちが注意すべき肝心なことは、やはり私たち自身はどうするかである。
何を見て、何を信じ、そしてどこに立っているか、である。日々の生活において、神の助けや守りを本気で信じているのか、と問われている。
困難に直面して、弱気になっていることはないだろうか。自分の思い通りにならない時、ついつい「しかたがない」とか、「どうしようもない」と後込みしたり、あきらめたりしていることがある。
神に祈りながら、自分で何とかできそうな時は元気を出し、できそうでない時は弱気になってしまう。信仰を口にしながら、その実、自分でできるか否かに頼っているのである。
しかし、そうであってはならない。
エリシャは「主のことばを聞きなさい」と言った。侍従は聞かなかったが、私たちは真心から主のことばを聞く者となりたい。
それには、本気で自分の無力を悟り、成すすべを知らないことを認めて神を呼ぶ、そのような祈りをささげることである。
神は、人が予期しない、いや予期できない解決を与えてくださる方だからである。
私たちの生涯において、この聖書の出来事のような極端な事例は、ほとんどないかも知れない。そのために、祈ることも、主のことばに聞き従うことも、よく実感できないということがある。
けれども聖書は、極端を示すことによって、その事実から学ぶように私たちに語りかけている。
私たちは聖書に聞くことによって、主のことばに聞き従うことを学ぶことができるのである。