預言者エリシャの生涯は、様々な出来事に直面し、一つの事が解決すると、また次の事が起こるという繰り返しであった。
しかし彼は揺るぎなく主を仰ぎ、主に祈って歩み続けていた。彼がそこにいることによって、周りの人々は大きな助けを得、進むべき道が示される。そんな幸いを人々は得ていた。
列王記第二6章1節以下にも、エリシャがまさしく神を仰ぎ、神に祈る人であったことを示す出来事が記されている。
エリヤ、そしてエリシャが預言者の活動を続けていた時、共に労する「預言者のともがら」と言われる一団が各地に存在していた。
彼らはギルガル、ベテル、エリコで共同生活をしながら訓練を受け、神に仕え、また周囲の人々に仕えていた。その集団が大きくなって、施設拡張、住居の増築の必要が生じた時のことであった。
彼らは、まず材木の切り出しから始めて、住居を建てようとヨルダン川の川辺で木を切り倒していた。その作業の最中に、一人が斧の頭を水の中に落として大慌てしたのである。
普段エリシャは、彼らとそのような作業を一緒にすることはなかったようであるが、その日は特に請われて、「では、私も行こう」と作業を共にしていたのである。
大慌ての彼は、悲しげな叫び声を上げていた。裕福ではない預言者たちの集団に自前の斧はなく、他人からの借り物で作業をしていたわけで、代わりの斧を弁償するなど考えられないことであった。
エリシャはこの悲痛な叫びを聞いて、彼に問い返した。そして彼が示す場所に一本の枝を投げ込み、その斧の頭を浮かばせ、彼に拾わせた。
エリシャは、神の人、神に祈る人、神と共に歩む人として、慌てず、騒がず、成すべきことをしている。神がエリシャを、その時のために遣わしておられたかのようである。
危機の時、落ち着いて行動できる人がいるかいないかの差は、とても大きい。まして神に祈り、神の助けを呼ぶ人がいるかいないか。その差は、なお大きいのである。
次の出来事は、アラムとイスラエルが絶えず敵対している状況の下で起こっていた。
イスラエルの王アハブの死後、激しい戦闘はなかったものの、アラム優位のまま小規模な争いを繰り返していた。「略奪隊」と記されているように、イスラエルはアラムの兵士たちの限定攻撃にさらされ、常に緊張を強いられていたのである。
そのような時、エリシャは一貫して、神の守りと助けがイスラエルに及ぶようにと行動していた。
彼はイスラエルの王、おそらくヨラムに進言し、イスラエルに危害が及ばないようにした。そのためアラムの王にとっては、作戦が筒抜けとなっていると、苛立つばかりであった。
イスラエルの王は、神に対して決して忠実ではなかった。不信仰であり、不忠実であり、そして不遜でさえあった。
けれども神は、ご自身の真実さのゆえにエリシャを用い、神の民イスラエルを守ろうとされた。そしてアラムの王に、イスラエルにはまことの神がついておられることを知らせようとなさったのである。
神の人エリシャの存在は、イスラエルにとって大きな力、大きな助けとなっていた。
アラムの王は兵を送り、エリシャを亡き者にしようと、ドタンの町を包囲した。その兵力の前に、しもべは「ああ、ご主人さま。どうしたらいいのでしょう」と、おびえてしまうほどであった。
エリシャは決して恐れなかった。彼は神の守りの確かさを知っていた。
「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と明言したのである。
彼は主に祈って、しもべにも神の守りの確かさを見せてください、見えるようにしてくださいと願った。するとしもべは、エリシャを取り巻いているところに、火の馬と戦車が山に満ちているのを見させられたのであった。
神は、超自然の守りをイスラエルとエリシャに与えておられた。それは通常、人の目には見えなかったが、エリシャはその守りを信じていた。確信して歩んでいたのである。
確かな守りのゆえに、敵を恐れず、折々に神に祈り、神が成してくださる一つ一つの事に依り頼んで前進していたのである。
アラムがさらに目の前に迫って来た時、エリシャは神に祈り、アラム人の目を見えなくさせ、そのまま彼らを首都サマリヤに連れて行った。
そこで目を開かせ、もてなしを受けさせ、その上で国に帰している。危害を加えることなく、客として扱った上で帰らせるという、不思議な出来事であった。
まことの神がついておられる限り、恐れはない。また神ご自身は争いではなく、相和することこそ望んでおられる。そのことを、イスラエルにもアラムにも示していたのである。
その感化がアラムの人々にも及んだので、略奪隊の侵入は止んだのである。
エリシャについて、聖書は繰り返し「神の人」と言う。エリヤも同じように呼ばれている。ほかにも預言者がそう呼ばれ、ダビデやモーセも「神の人」と呼ばれている。
新約聖書では、パウロがテモテに「神の人よ」と呼びかけている。
「神の人」とは、神に仕える人、神に従う人、神を信じ、神のために生きる人など、いろいろな意味が込められた言葉である。神の代理人というような、大きな意味も込められている。
エリシャについて、列王記第二4章以降、「神の人」との表記が目立つのは、神に仕える人として、また神に近い人としてのエリシャの働きが顕著だったからである。
折にふれ神に祈り、危機に動じることなく神と共に歩んでいる彼の姿が、人々の目にしっかり焼き付いたに違いない。
周りの人々がどんなに慌て、恐れ、おびえたとしても、彼は神の守り、主なる神の臨在を信じていた。彼の目は、神の守りの確かさをはっきりと見ていたのである。
詩篇の言葉の通りに、神を信じ、神に祈っていたのである。
「神にあって、私はみことばを、ほめたたえます。私は神に信頼し、何も恐れません。肉なる者が、私に何をなしえましょう。」
「神の人」とは、神に祈る人のことである。祈りをもって、常に神と共に歩む人、生きる人のことである。
そのようなエリシャの存在は、彼の周りにいる人々にとって、どんなにか心強いものであった。
神は、私たちをもそのような「神の人」として、世に送り出していてくださるのではないだろうか。
私たちは神に祈ることを教えられ、祈ることの幸いを知っている。私たちが何かできるとか、力があるからではない。
神に祈ることによって、神が働いてくださるのを待ち望むことができるのである。神を待ち望むことができるなら、それで十分である。神の守りと導きは万全だからである。
どんな時にも神に祈る人、そのような意味での「神の人」としての歩みを、この週も導かれたい。