列王記第二1章以下には、預言者エリヤからエリシャへと、その働きが引き継がれていった頃の様子が記されていた。
北イスラエル王国は、アハブの子アハズヤとヨラムの時代であり、南ユダ王国は、ヨシャパテからヨラム、アハズヤの時代である。近隣の諸国との力関係は、アハブの死後に変化が起こり、モアブの反抗もあり、王たちはなかなか心安まることのない日々を過ごしていた。
そうしたすべての時において、預言者は王と民に向かって、「心を神に向け、神に信頼して争いをやめよ。神にあってまことの平安を得よ」とのメッセージを語り続けていた。
この5章は、そのように緊迫していた情勢の中で、とても不思議なことが起こっていたことを告げている。
私たちは、つい神の恵みや祝福は神の民イスラエルに注がれており、敵対している異邦の民は祝福の外にいると思い込んでしまう。しかし、そうではない。異邦の民も神の豊かな恵みにあずかることができ、祝福にあずかるのである。
その恵みにあずかったのは、アラムの王の将軍ナアマンであった。
アラムはイスラエルの北に位置する国であり、絶えず南下してイスラエルを脅かし続けていた。アハブはアラムとの戦いで命を失っていた。その時のことか、それ以前のことか定かではないが、イスラエルからは捕虜を大勢連れ去っていたのである。ナアマンは、そうした勝利の立役者であった。
ナアマンはアラムで地位も名誉も得ていた。王からは絶大な信頼と尊敬を得て、勇士として立派に生きていた。ところが、病によって人知れず悩みと苦しみを背負い、苦悩する日々を送っていたのである。
※1節にある「らい病」は、この名で知られている病とは全く別のものである。ナアマンは将軍としての仕事に差し障りなく過ごしていたからである。聖書の「らい病」と「ハンセン病」を同一視することのないよう、注意が必要である。
ナアマンが病で苦悩しているのを見て、彼の妻に仕えていたイスラエルの少女が、「サマリヤにいる預言者、あの預言者エリシャのところに行かれたら、きっと治していただけるでしょう」と勧めたのである。
彼女は、女主人によく仕えていたに違いない。主人から信頼を得ていたので、さっそくナアマンにそのことが知らされた。ナアマンもまた、何とか治りたいという願いが強かったのであろう。すぐにでもその預言者のところへ行こうと心を決め、王に願い出た。そしてアラムの王から、イスラエルの王に手紙が届けられた。
※アラムとイスラエルの国交は、比較的平穏な時期であったようである。そして、国と国との交渉の筋を通したのであろう。
実際には、手紙を受け取ったイスラエルの王、おそらくヨラムは恐れた。できもしないことをせよと言われて、慌てふためいたのである。この王の狼狽ぶりを聞いて、エリシャは動いた。神が働かれる時である、と。
「あなたはどうして服を引き裂いたりなさるのですか。彼を私のところによこしてください。そうすれば、イスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」
今こそ、まことの神がおられることを知らせる時である。エリシャは、そうはっきりと自覚していたのである。
家の入口に立ったナアマンに、エリシャは使いをやって言わせた。
「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすればあなたのからだが元どおりになってきよくなります。」
ナアマンは、当然のように怒って去ってしまった。使いをよこして、ヨルダン川で身を洗えとは何事か。本人が出てくるべきではないか。主の名で祈るなり、何かしてもよいのに、と怒り心頭であった。
エリシャの側には、魔術的なことではないことを示すこと、神のことばに聞くことの肝心さを示すこと、ヨルダンに身を沈めることによって心を低くすることを学ばせることなどの意図があったのである。
実際、ナアマンは馬と戦車を率いて来て、エリシャの家の前に立っていた。力を誇示し、権威や威厳を見せようとしていたようである。それゆえに、エリシャの指示は直ちには受け入れられなかったのである。
けれども神はそこに、ナアマンの気持ちを静めるように進言するしもべを備えておられた。
そのしもべは、「預言者の言うとおりにヨルダン川で身を洗ってみてはどうですか」と促したのであった。
ナアマンに問われていたことは、エリシャのことばに聞き従うか否かであった。それは、神のことばに聞き従うか否かであり、あまりにも単純で易しいことを、そのまま聞くか否かであった。
すなわち、心を低くして、恥も外聞も気にせずにそうするかどうかが問われていたのである。まさしく衣を脱ぎ捨てて、裸になって川に下りて行くことが肝心なことであった。人はしばしば、難しいことならやってみよう、高価なことであるなら注ぎ込もうとするものである。
彼は心を決めてヨルダン川に身を浸し、七たび身を洗った。すると、からだは元どおりになって、幼子のからだのようにきよくなった。
彼の心も洗われて幼子のようになり、神の前に全身がさらけ出されていたのである。彼はまことに幸いな経験をしていた。そのようにしてナアマンは、生けるまことの神を心から信じる者となったのである。
彼の喜びは大きかった。感謝を込めて贈り物をしようとした。また祭壇を築いて、主にのみ礼拝をささげようと決心したのである。
ナアマンの姿から今日私たちが学ぶこと、見習うべきことは、彼が信じて従うことにおいて明解であり、ためらわなかったことである。
神のみ業にあずかった時、彼はこの神を信じて歩み出している。
信じて歩み出した後に、心配なこと、気になることをエリシャに告げているが、その心配を理由にして、まことの神に従うのをためらうことはしなかったのである。そしてエリシャからは、「安心して行きなさい」と見送られた。
エリシャのことばには、「心配事は神に委ね、お任せして行きなさい。その時その時、神があなたに知恵と力、そして導きをきっと与えてくださいます」との祈りが込められていたのである。
神を信じ、神に従うのに肝心なのは、心を低くして神のことばに聞き従うことである。幼子のように、ためらいなくみことばに従い、イエス・キリストを救い主と信じる信仰に進む人こそ幸いである。
そして、常に心を低くして信仰の道を歩み続けること。それが、私たちにとって神が備えてくださる幸いである。