ヨハネがヨルダン川で人々に悔い改めを迫り、バプテスマを授けてメシヤ到来に備えさせていたとき、メシヤであるイエスもまた、このヨハネからバプテスマを受けられ、いよいよご自身の働きの始まりを迎えていた。
しかし、マタイ、マルコ、ルカの福音書はみな、イエスの働きが具体的に始まる前に、荒野で悪魔の試み、すなわち誘惑に会われたことを記している。
メシヤを世に送り出す上での神からの訓練が備えられていたという一面と、他方、悪魔はメシヤを失格に追い込むため、あらゆる誘惑の手を尽くしたという一面のある出来事である。
イエスは洗礼、すなわちバプテスマを受けられた後、み霊に導かれて荒野に行かれた。父なる神に祈り、働きのために備えの時を過ごされたのである。
四十日間の断食を終え、空腹を覚えられたそのとき、第一の誘惑に会われた。断食の間中も悪魔の誘惑に会い、戦っておられたのである。
「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。」
悪魔の言葉は、神に祈り、神に従う道を歩もうとするイエスに向かって、それはナンセンスではないか、何の意味があるのか、と神への不信を抱かせようとするものであった。
神の子として使命を果たそうとしているようだが、それならなぜ神の子としての力を使おうとしないのか。神は理不尽ではないか。今、苦しくつらいときに、神の子としての力を使わせないとはどういうことか。悪魔は、神への不信感を抱かせ、それを膨らませようとしたのである。
しかし、イエスは惑わされることなく、聖書の言葉、申命記8章3節をもって答えられた。
「人はパンだけで生きるのではない」と書いてある、と。
空腹が満たされるかどうかより、神に従うこと、みことばへの信頼こそが自分にとって大切である、肝心なのだ、と答えておられた。何があっても、わたしは神を信じきって生きて行く、ということである。
すると悪魔は、第二の誘惑に出た。それは将来に向けての野心を抱かせるものであり、その野心を今すぐにでも手に入れたいとは思わないか、とそそのかすものであった。
メシヤは確かに王の王、主の主なる方である。万物をその足の下に従える方である。そのメシヤの支配が今すぐに来ることを望んでみてはどうか、というのである。
それは当時の人々がメシヤに期待していたことであり、少しでも早くその期待に応えてはどうか、という促しでもあったのである。
この種の誘惑は、今日も後を絶たない。いずれ手にする成功を思い描くこと、夢を膨らませることはよいとしても、いたずらに野心を膨らませて、成功のためには手段を選ばずとなってしまう。そんなこの世の成功者が多いのである。
イエスは、「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい」と書いてある、と答え、この誘惑を退けられた。申命記6章13節の言葉である。
神以外のものに頼って成功することを求めてはならない。もし成功したとしても、その成功がその人自身に滅びをもたらすことを、忘れてはならないのである。
第三の誘惑は、神を信じ、神に従っている信仰そのものを、今ここで確認してはどうかと迫るものであった。神の言葉によって生きようとするイエスに向かって、もっと確かな信仰を得るため、みことばを確認することを提案するのである。
そんなにみことばが頼りなら、確かめることによって、信仰はもっと強固になるのではないですか、と勧めているように聞こえる。約束を具体的に経験することによって、とばかりに。まことにもっともらしく聞こえる。
私の場合なら、勧めに従って飛び降りてしまいそうである。しかし、悪魔はみことばを使いながらも、自分の都合に合わせて神の守りを期待する。そのような使い方をしていることに注意が必要である。
しかしイエスは、この惑わしにも、みことばをもって答えられた。
「あなたの神である主を試みてはならない」と言われている、と。申命記6章16節の言葉である。
イエスは、神ご自身と神の言葉は信ずべきであり、試みることはしないと明言されたのである。これから始まる公の生涯において、苦難や困難が待ち受けているとしても、神の守りを確かめながらではなく、神を信頼し、神が歩ませてくださる道を歩もうとする心が定まっていたのである。
信じていること、それ自体を確かめることは、何か大きな力になりそうと思えても、そうすることは悪魔の罠だったのである。
主イエスが会われた試練、誘惑は、イエスが神の子だからということで会われたものであった。そしてイエスは、神の子としてそれに打ち勝たれた。
けれども、神の子だから勝てたという仕方で勝利されたのではなかった。そうではなく、イエスを救い主と信じて神の子とされる私たちも、同じように勝利できる仕方で勝利しておられたのである。
それは、書かれた聖書の言葉を信じ、その言葉に聞き従うことを通して神に信頼し、神への従順を貫くことによってである。
信じ抜くこと。
従い通すこと。
そうすることは、時に楽な道ではないことを覚えなければならない。先が見えず、困難な道こそが、主の備えておられる道であるという視点が必要となる。楽な道、安易な道、それは誘惑の道、悪魔の惑わしなのかも知れない。
主イエスは生涯変わることなく、十字架への道を歩まれた。多くの誘惑に会われ、それらを退け、乗り越えて歩まれたのである。
そのイエスを仰ぎ見て歩める私たちは幸いである。誘惑に会われたイエスは、私たちを真に思いやってくださるお方である。神の子である方が人となり、私たちが神の子となる道を開いてくださっている。
痛みや苦しみ、悩みや悲しみをご自身も受けられて、なおかつ打ち勝って、私たちを励まし助けてくださるのである。
このイエスから目を離さず、仰ぎ見て歩む者とならせていただきたい。
ヘブル2章18節、4章15節、12章2節。