新しい年の初め、元旦礼拝に続く礼拝である。主のみ声をどのように聞くのか。主は何を語られるのか。思いを新たにさせられる礼拝である。
列王記の学びに戻る前に、なおクリスマスからのつながりの中で、み言葉を開きたい。そのようにして導かれたのが、今朝の箇所である。2001年1月7日にも、「ふさわしい実を結びなさい」という説教題で学んでいるが、もう一度、このみ言葉に聞きたい。
ルカ福音書は、皇帝アウグストの世に幼子イエスがお生まれになったことを記した後、今度は皇帝テベリオの世に、「神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った」と記す。
実は、これからの出来事こそが本題である、というのである。
「神のことばが……ヨハネに下った」とは、この時から、ヨハネの預言者としての働きが始まったことを告げる言葉である。神がヨハネをメシヤの先駆けとして世に送り出されたことが、いよいよ明確になり、本格化したことを告げている。
力あるメシヤはもうすぐに来られる。それに備えて心せよ。
その神からのメッセージが、ヨハネを通して語られるのである。
この出来事がどれほど大きなことであったかは、その時までに神のことばが途絶えて、四百年が流れていたことから明らかである。
アモス書8章11節で告げられた「主のことばを聞くことのききん」は、紀元前597年のエルサレム陥落と、それに続くバビロン捕囚、さらにエズラ、ネヘミヤの時代のエルサレム帰還、すなわち紀元前400年代半ばの後、マラキ書を最後に預言者が遣わされることなく、四百年にわたって神の民イスラエルを襲っていたのである。
それだけに、いよいよメシヤ到来による光が差し込む時代が始まろうとしていたのである。
光が差し込むこの時に、神は人々に迫っておられた。
今こそ人の心の内が明らかにされること、あらわにされることに心して、神の前に立ちなさい。罪が赦されるために悔い改めなさい、と。
多くの人々が、確かに神のことばを求めていた。人間らしく生きたいと願い、真実に求めていた。
それゆえに、ヨハネのメッセージに心動かされ、次々と悔い改めのバプテスマを受け、さらに多くの人々が集まって来ていた。その人々に対して、ヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」と迫っていたのである。
それは、ただバプテスマを受けることで安心することなく、真心から神の前に立ち、メシヤの前に進み出るように、人々を整えるためであった。
ヨハネのところに集まって来る人々は皆、それなりに自分を省みる人々であったに違いない。悔い改めなど考えもせず、安逸をむさぼる人々が、それこそ多くいた時代である。彼らはヨハネのところには、決して来ようとはしないのである。
皇帝テベリオの時代、ローマの繁栄はいっそう確かなものとなっていた。しかしユダヤには総督が、地方には国主、すなわち領主が立てられている状況であった。それは、経済的な安定が広まり固まる一方で、不公平や不平等が深まっている、そういう状況でもあった。
ヨハネは、自分のところに集まって来る人々、世の中の状況に心を痛め、また自分を省みて神の前に進み出ようとしている人々に向かって語りかけていた。
そのような人々にこそ厳しく語り、悔い改めの実を求めていたのである。
もちろん、悔い改めようとはしない人々への挑戦の言葉、断罪の言葉としても語っていた。けれども実際には、集まって来た人々に対して、より明確な、そしてより具体的な悔い改めこそ尊いと迫っていたのである。
群衆には、隣り人への愛の実践を促した。取税人には、直ちに不正をやめるように命じた。そして兵士たちには、いたずらに強権を振るうことをやめ、満ち足りることを学びなさいと教えたのである。
神の前に進み出よう、進み出たい、自分の生き方を正したい――そう思っている人、そう願っている人こそ、一人一人、自分の生き方を正しなさい、と命じられている。
そして一番大事なことは、満ち足りる心を持つこと、自ら足りることを知ることである。その心があるかないかではないか、と言うのである。
11節、13節、14節に、その具体的な教えが記されている。
神を愛し、隣り人を愛する生き方を身につける上で肝心なことは、神によって愛され、十分に養われている自分を、まず知ることである。
その十分な養いを喜び、感謝することによって、隣り人を愛し、喜んで隣り人に仕えることが導かれるのである。
2001年の正月にこの箇所を学んだ時、やはり満ち足りる心について学び、自己点検をさせられた。
三年が経って、果たしてどれだけむさぼりを捨てられたかどうかを問うてみると、私自身、とても心許ない思いがする。
世はますます「むさぼりの時代」に突き進んでいる。先行きの不安など何のその、欲望を満たすことさえできればよい、というあり方が、すさまじいばかりである。
そして私たちはどこかで、他の人のむさぼりに対しては、とても敏感になっている。政治家や役人の不祥事に腹を立て、文句はいくらでも言いたくなる。
けれども、大切なことは、私たち自身が神の前に正直であることである。
みことばは、教会に集う私たちこそが、いっそうつつましく、満ち足りる心を持つようにと語りかけ、迫っている。
神の前に出るとき、本当の意味でよしとされる者であるよう祈りつつ、この年も歩ませていただくこと。それが、私たちの証しの道ではないだろうか。