<今日の要点>
自分を十字架につけて、神の御心に従い、隣人愛のわざを行う。
<はじめに:混迷の時代の十戒の意義> 十戒の第六戒から八戒までまとめて見ます。
殺すな、姦淫するな、盗むな…。
当たり前のことです。
モーセの十戒の第〇戒などと、大上段に構えるまでもなく、当たり前すぎるほど、当たり前のことです。
しかし、毎日のように物騒な事件が報道されているのを見聞きすると、その当たり前のことが、ますます守られなくなっているようにも、思えてきます。
人を殺してはいけない、などというのは、当たり前のことと誰しも思うのですが、逆にまた、当たり前のことというのは、どうして、なぜ、と理由を聞かれると、かえって答えづらいと言うことがあるものです。
あるテレビ討論の番組で、ある若者が「なぜ、人を殺してはいけないのか」と問いかけたところ、同席していた知識人たちはみな、直接、その問に答えられなかった、ということがありました。
いわく、まともな子はそういう疑問を持たないものだ、とか、たとえそういう自由があったとしても、真に自由を知った者は、そんなことをしようと思わない、とか。それぞれ一理ありますが、結局は本人の自覚に訴えるしかないというところでしょうか。
そんな中であるお笑い芸人が、
「四の五の言ってねえで、ダメなものはダメだ!でいいんだよ。
こういうときに神とか宗教でダメだの一言で、問答無用で禁じるのは意味があった」と言っていました。
十戒は、大昔に与えられたものですが、むしろ、価値観が多様化して、何が善で何が悪か、わからなくなっている現代人こそ、この世界を造られた創造主の言葉として、耳を傾ける必要があるのかもしれません。
みなさんは、文字通りにはこれらの戒めを守っていると思いますが、今日もウェストミンスター大教理問答を手掛かりに、これらの戒めを掘り下げて、神が本来意図しておられることを思い巡らしたいと思います。
そして私たちもさらに神の御教えによって歩み、さらに豊かに神が意図している幸いにあずからせて頂きたいと思います。
<@殺してはならない:命を大切にすること。自分のも、隣人のも>
神は、人の命を奪った者には、厳罰を定めました(創世記9:5-6,旧約p. 12)。
人の命は、それほどに尊いということです。
私たちは本能的にそのことを知っているのではないでしょうか。
新しいいのちが生まれると喜び、命が失われると深く悲しみます。
命がかけがえのない尊いものだと知っているからです。
ですから、ウ大教理問答135は、第六戒で求められている義務について、まず「自分と他人の命を保持するため、できる限り注意深く研究し、合法的に努力することである。」
と始まります。
自分のであれ、他人のであれ、人の命は尊いのですから、私たちはこれを保つために、心を砕き、努力するべきと。
あの、イエス様が語られた、よきサマリヤ人のたとえが思い合わされます(ルカ10:30以下、新約p. 134)。
人気のない山道で、強盗に会って瀕死のユダヤ人がいた。
そこに日頃、民族的に対立していた、あるサマリヤ人が通りかかる。
どうするかと思いきや、そのサマリヤ人は、すぐさまその瀕死のユダヤ人を介抱し、馬に載せ、最寄りの宿屋まで運び、自分のお金を宿屋の主人に何日分もたっぷり払って、後は頼むと、言い残して立ち去った。
普通、自分が大怪我をしたときには、惜しいなどとは思わずにお金を使うけれども、どこの誰とも知れない人のために、まるで自分のために使うように惜しげなくお金を使って、その大切な命を助けました。
大教理問答は続きます。
どのように、自分と他人の命を保持するよう努めるのか。
「それは誰のであれ、不正に命を奪うようになる全ての思いと企てとを制御し、すべての感情を押え、…」
悪い思いを放っておく事は罪、それを制御し、押さえることが義務!と肝に銘じておきましょう。
思い、感情は大きくなってからだとコントロールが難しい。
火は小さいうちに消す。
「私たちの負い目をお赦しください。
私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました。」
毎日、こう祈る中で、一つ一つ、そのような思いをまだ芽のうちに摘んでおく。
丹念な祈りの生活が私たちの心を守るうえで有益です。
それから「(不正に命を奪うようになる)全ての機会、誘惑、習慣を避けることにより…」不摂生から体を壊してしまうのも、この第六戒に込められた神の御心に反することで「自分のからだなんだから、自分の好きなようにして何が悪い」というのは、通りませんでした。
年末年始、暴飲暴食は慎み、摂生に努めましょう。
また、「暴力に対する正当防衛」ともあります。
よく誤解される、「右の頬を打たれたら、左の頬を…」は、文脈を読むと、復讐心を戒めているのであって、正当防衛を禁じているのではありません。
自分の命も尊いのです。
自己卑下するのも罪です。
また、ウ大教理問答は肉体だけでなく、心の健康にも多くの項目を割いています。
「神の御手を忍耐して辛抱すること。」
試練の中におかれたとき、絶望して、自暴自棄にならないということでしょうか。
そして「精神の平静、心の喜びにより」箴言(17:22、旧約p. 1080)にも
「陽気な心は健康をよくし、陰気な心は骨を枯らす。」
とあります。
さらに「慈悲深い思い、愛、同情、柔和、温順、親切により」とか「穏和な礼節ある言葉遣い、振舞、忍耐、進んで人と和らぐこと」とあります。
箴言14:20(旧約p.1075)「穏やかな心は、からだのいのち、激しい思いは骨をむしばむ。」
と通じるでしょうか。
骨粗しょう症対策にもなるでしょうか。
怒りを抱えているなら、キリストの十字架により怒りが癒されて、穏やかな心へと変えられますように!ヨハネの手紙第三1:2、新約p. 473
愛する者よ。
あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。

<A姦淫してはならない:きよくあること>
フランシスコ・ザビエルが、初めて山口で伝道した折のこと、路上の腕白小僧どもがザビエルの後からついてきて、「ここに一神・一妻を説く馬鹿坊主がいる。」
とあざ笑ったそうです。
いわゆる異教国日本においては、神は八百万とおり、妻もお妾さんも天下御免という次第。
そのまっただ中で、「神は唯一、妻は一人」というキリスト教の宣教は、まことに愚かしいこと、狂気の沙汰と受け取られたのでしょう、とある本に書いてありました。
神の戒めがなければ、世界中、好き勝手のし放題、そのような状態だったのかもしれません。
神は創造の初めから一夫一婦制を定めておられます。
姦淫の罪は、夫婦のきずなを汚し、破壊するものです。
既婚者に限って言えば第七戒は、自分の配偶者を愛しなさい、結婚の絆を尊びなさい、とも解釈できるでしょう。
結婚の絆は神聖不可侵なものです。
それを汚すことは、神が忌み嫌われます。
カルヴァンは、結婚による以外に男女が一緒になることは、神の呪いなしにはすまされない、と言っていました。
確かに現実に多くの場合、そのような結末になるのではないでしょうか。
また、ウ大教理問答138は、第七戒によって神が意図しておられることを、もっと広く取って、行動においても心においても、純潔を保つこととしています。
そしてそのために、「目や全ての感覚に注意深くあること」を、求められる義務として挙げています。
また「きよい交際を守ること」ともあります。
それこそザビエルではありませんが、いまどき、あざ笑われようとも、純潔を守ることは、神に喜ばれることです。
それはのちに大きな祝福をもたらすでしょう。
反対にその道を踏み外すと、悲しい思いをすることになるでしょう。
中には孤独を癒すために、そのような関係を求めるケースもあると言います。
そこには偽りの親密さがあり、手っ取り早く孤独を癒せると錯覚して。
あるいはまた、受け入れられることを求めて、それによって自分に価値があると実感したくて、そのような関係を持ってしまうケースもあると言います。
どちらのケースも、悲しいことで、心が痛みます。
キリストによって神を知り、本当の親密さ、本当の受容を知ってほしいと願わずにはいられません。
ともかく、性の乱れが、半ば、叫ばれることすらなくなってきた現代、むしろ世をあげて、そちらの方向に進んでいるかのような現代、キリスト者が塩気を保つことの意義は、ますます大きくなっているのではないでしょうか。
第一テサロニケ4:3、新約p. 399
神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。
…
<B盗んではならない:所有権の神聖不可侵>
盗みが悪いということは、誰でも知ってるでしょう。
泥棒でさえ、自分のものが盗まれたら、「何するんだ。この泥棒!」と怒り出すでしょう。
もっとも、「徒然草」の中で兼行法師は、人間は貧乏でどうにも仕方がなくなると、つい盗みをも犯す。
衣食が人並みに得られるのに、それでも悪事を働く人をこそ、本当の盗人というのである、と言っていました。
ビクトル・ユゴーの長編小説「レ・ミゼラブル」の主人公ジャン・バル・ジャンも、能力も意欲もありながら、仕事がなく、空腹に堪えかねて、一片のパンを盗んでしまった、というものでした。
そういうこともあるからか、旧約聖書の律法では、殺人と姦淫は厳罰に処されましたが、盗みはそうではありませんでした。
カルヴァンは、それぞれの所有になっているものは、偶然によってそうなったのではなく、万物の上におられる主なる神の配分によるのだから、それをねたんだり、不法に奪おうとしてはならない、と言っています。
そして自分の持っているもので満足するようにと。
また、ウ大教理問答141、第八戒で求められている義務として、「契約や取り引きを真実に、忠実に、また正義に基づいて行なうこと」とあります。
ズルをしない。
また「自分の能力と他人の必要に応じて無償で与え、また貸すこと」多くを与えられているものは、必要としている人に分け与えるか、少なくとも無償で貸すことが義務と。
「生活を維持するために必要な、または便利な、またそれぞれの状態に適切な事物を獲得したり、維持したりするための慎重な注意と研究」経済的に健全な生活を営んでいくための適切な管理をするということでしょうか。
信仰者は、天を目指す旅人だからと言って、世捨て人のように、それらのことに無頓着なのもよくない。
神から与えられているものを適切に管理する。
それから最後に「自分同様、他人の富と生活状態を獲得、維持、助長するために正しい合法的手段を尽くして励むことである。」
自分のことだけでなく、隣人も、不利益を被ることにならないように、むしろ彼らもまた、益を受けられるように、気を配る。
自分だけでなく、全ての人の益となることを心がけるという、キリスト者の根本的な姿勢が表れているところでしょう。

第八戒で禁じられている罪として、ウ大教理問答142では、盗みだけでなく「…この世の財産を過度に尊び愛すること、それを獲得・保持・使用する場合の、不信仰な取り乱した思い煩いや研究」もあげています。
また「神が私たちに与えられた状態を正当に使用し、慰めを得ることについて自分を欺くこと」ともあります。
これは貯めるだけ貯めて、自分や家族で楽しむためにいっこうに使わないことのようです。
神から与えられている所有物は、我々自身や隣人の益となるように、健全に用いるようにと、いうことを勧められています。。
「 光に歩めよ 」新聖歌 335番
カルヴァンは、第五戒の目的を次のように述べています。
「神が全人類をある意味の一致に結び合わせたのだから、人はぞれぞれ、すべての人が傷を受けないように、責任をもつようになること。」
神は一人の人からすべての人をお造りになりました。
そういう意味で、全人類は一つです。
だから、私たちは一人びとりが、隣人が傷を受けないように、かえって命を保ち、豊かに保つように、ある種の責任を持つことを、神は望んでこの戒めを与えられたというのです。
ほかの二つの戒めもそうです。
神は人類が互いに隣人愛の土台に立ち、互いに害を与えず、むしろ助け合い、いのちが豊かに育まれる社会であるようにと、そのような光景を願っておられるのだと思います。
私たちの心が少しでも、父なる神の願いに沿ったものでありますように。
私たちは、キリストとともに、罪に対して死に、キリストとともに神に対して生きる者とされた者です。
神の御心に従うことを妨げる古い自我・欲を日々、十字架につけるという地味な作業を根気強く行っていきたい。
そして、今や、神に対して生きる者とされ、神とともに生きる者とされたことを思って、聖霊の助けを頂き、聖霊に満たされることを求めつつ、日々、悔い改めと信仰の道を歩ませて頂きたいと思います。
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