<今日の要点>
キリストのゆえに、主の日が慕わしく、喜びの日となるように。
<はじめに:十戒の第四戒> 「安息日」についての定めです。
今日、クリスチャン、ノンクリスチャンを問わず、恩恵にあずかっている日曜日。私も小学生のころは土曜日が一番うれしかったです。
次の日が日曜日。
日曜日のサザエさんがはじまるころには憂鬱になったりして、その、日曜日の元となっている戒めです。
もっとも、旧約時代の「安息日」は、週の七日目(今日の土曜日。正確には金曜日の日没から土曜日の日没まで)でした。
それが、今日、クリスチャンは日曜日を「主の日」として、礼拝するための日としています。
それは、イエス・キリストが週の初めの日(日曜日)の朝に、復活されたことによります。
また、弟子たちは、イエス様が復活された日曜日に、何か特別な思い入れがあったのでしょうか、おそらく自発的に、命じられたわけではなく、日曜日に集まっていたようです。
すると、ちょうどその日を狙ったように、復活されたイエス様が現れて下さったということもありましたそんなこともあってか、クリスチャンの間ではいつしか、日曜日が礼拝のために集まる日とされたようですキリストの復活とともに、新しい時代が始まったことに伴って、「安息日」から「主の日」へ、土曜日から日曜日へ、神の摂理のうちに、導かれたのでしょう。
ウェストミンスター大教理問答116では、週の初めの日(日曜日)が「キリスト教の安息日」であり、新約聖書では「主の日」と呼ばれるとしています実は、旧約の「安息日」と、新約の「主の日」とでは、曜日が違うだけでなく、意義が大きく違うところもあります。
が、共通している部分もありますので、以下、@Aで共通している点を見て、その後、Bで違っている点を見ていきたいと思います。

<@苦役からの解放:休むことによるいのちの回復>
10節に、イスラエルに属するものはみな、息子も娘も、男奴隷、女奴隷も、さらには家畜に至るまで休ませる。
また在留異国人も同じ、とあります。
いっさい差別なし。
イスラエルの地においてはー神の戒めが支配するところでは人であれ家畜であれ、休息を得なければならない。
はなはだ思いやりたっぷりの戒め。
無理にでも休ませる。
休め・・という戒めです。
古代、奴隷は一か月に一日しか、休みがなかったという記録もあるそうですから、大変恵まれた労働条件です。
牛馬のごとく、働かされると言いますが、牛馬でさえ、酷使した肉体を休めることが必要。
ましてや、人間においてをや…。
欲や、あるいは人の期待に応えようとして、あるいは不安にかられて、等々、際限なく、限界を超えてまで頑張ってしまいやすい人間の性を見越した、ありがたい神の戒めです。
主人に命じられていますので、家の主人にとって、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」の実践でもあります。
上に立つ者は、こき使うだけこき使うのでなく、休ませるということにも、意を用いる責務を負うのです。
現代もイスラエルでは、土曜日の安息日が厳格に守られていると言います。
彼らの戒律では、安息日にはすべての電化製品の使用も禁じられるため、スマホも使えないそうです。
それで週1回24時間、SNSやメールから隔絶されるので、毎日100本を超えるメールや電話を受けるというユダヤ人は、「神のおかげで、安息日だけはそれらから解放される。
『つながらない権利』?我々はもう2000年以上前からやっていますよ」と言ったとか。
強制的にデジタル・デトックスができる仕組みは、脳の健康にも有益でしょう。
多くの精神科医も、オンとオフのメリハリをつけることが、メンタルの健康を守る上で、有効だと言っています。
一週間ごとに区切りを付けて、毎週日曜日には仕事のことも、あれやこれやの悩みや心配事も、思い煩いも、ひとまず脇に置いて、すべてを支配したもう、恵み深い父なる神の御前に出て、祈りを捧げ、賛美を捧げ、また聖書を開いて御言葉に耳を傾ける。
この日常から切り離された時間と空間は、魂のリフレッシュという意味でも、有益なのでしょう。
以上、神が第四戒を命じられた意図の一つは、苦役からの解放によるいのちの回復です。
<Aこの日を聖とする:神を礼拝することによるいのちの回復>
この日は、ただ世のわざを休むというだけでなく、「これを聖なる日とせよ」と言われています。
ここの聖とするとは、罪や汚れからの聖とするだけではなく、神に心を向けるために、他の六日から取り分けるということです。
このことを私たちはいまは、通常、礼拝を捧げることによって、行っています。
そもそも、神を礼拝することは、それ自体が最も大切な、人としての本分です。
しかしそれだけでなく、これは、私たち人間にとって、必要なことでもあります。
内村鑑三の注釈。
「安息日は私たちがしばらく労働を休んで、神と交わり、神が私たちを造った目的に自分を合わせる日である。
私たちの船はどこを目指して海に漕ぎ出し、現に今どこを走っているのか。
私たちはしばしば舵を取るのを止め、大空の星を伺って、自分の進路を考えるべきである。
神が天地万物を創造なさった、その大目的に従って航路を取り直すべきである。
これを怠って、ただやみくもに航海を続けても、船は思わぬ港に着いて、人生は全然失敗に帰する。
その実例は数え尽くしがたいほど多くある。
安息日はこのような危険から私たちを救うため、神の与えた恩恵の日である。」
週の初めの礼拝ごとに、人生行路を確かめることのできる幸いです。
また、さまざまなことの中で、自分を見失いがちになるときも、創造者の前に静まって、私たちがどなたに属する者なのか、自分は神にとってどういう存在なのか、また神に対してどのような信頼を持つべきなのか、などなど、神の御前での自分というものを取り戻すときでもあります。
私たちは、自分で思っているよりもはるかに罪深い者であると同時に、私たちが想像もできないほどに、この上なく神に愛されている者です。
この両方、同時に覚えることが大切です。
私たちは、この神の御手の中でこそ、初めて憩うことができるのだと思います。
また毎週、キリストが語られる御言葉によって、少しずつ、魂が取り扱われ、癒され、束縛されていたものから解放されていく、ということもあるのかもしれません。
復活のキリストは、今も聖霊と御言葉によって、私たちの間に働いておられます。
ところで、新キリスト教辞典によると、聖書における「聖」とは、「いのち」と深いかかわりがあるようです。
それで、主が安息日を聖なるものとしたとは、いのちの満ちる時としたということになります。
ここで思い出すのはイエス様が安息日に、病の人を癒されたことです。
律法学者たちは、それを医療行為という労働と取って、いっさい仕事をしてはならないという、安息日の戒めに違反している!と咎めました。
しかし、安息日の趣旨がいのちの満ちることであるなら、イエス様のなさったことはむしろ、安息日本来の意義を全うされたことになります。
「安息日は人間のために設けられたのです。
人間が安息日のために造られたのではありません。
人の子は安息日にも主です。」(マルコ2:27‐28、新約p. 68)
の御言葉とも響き合います。
私たちは、いのちの源である聖なる神と向き合い、礼拝することによって、いのちを回復するようにと、招かれています。
罪は死をもたらしましたが、聖さはいのちを満たします。
<B安息日の本体はキリスト:キリストと固く結びつくこと!>
ところで、新約聖書には、次のような御言葉があります。
コロサイ2:16-17、新約p. 3922:16
こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。
2:17 これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。
コロサイの教会も、土曜日の「安息日」を守らず、日曜日の「主の日」に礼拝していたのでしょう。
それで、「安息日」を守っていないと批判する人たちがいた。
ほかにも、旧約聖書にある律法に従って、あれは食べてはならない、この日は主への祭りとして守らなければならない、など多くの戒めを守ることによって、神に受け入れられると主張する人々(律法主義者)がいたのでしょう。
それに対して、パウロは、(旧約の)「安息日」を含めてそれらの戒めは、来るべきものの影であって、本体はキリストにあると教えました。

説明が多くて申し訳ないのですが、旧約聖書にある律法は、道徳律法と儀式律法と二種類あります。
道徳律法は、「殺してはならない」などいつの時代にも有効な律法です。
儀式律法は、いけにえに関するものと、羊・牛、傷のないものを屠る・・等、祭りや安息日など「日」に関するものがあります。
これらはいづれもキリストを指し示すものです。
たとえば、安息日は七日目ごとですが、七年ごとの安息「年」というのもあり、その年にはすべての土地を休ませ、農作業を休むことになっていました。
さらにその安息年を7回繰り返した次の年のヨベルの年というのがあり、これは負債のために土地を手放した人に、その土地が帰ってくるという年です。
この安息の体系があらわしているものが、苦役からの解放、負債からの解放、そして回復・原状復帰です。
これは霊的に、罪のもたらす苦しみからの解放と、失われていた神との関係の回復―真のいのち、永遠のいのちの回復、ひいては神の国の回復―をあらわし、これらはキリストによって、実現するものです。
なので、旧約の「安息日」も、神は自分たちのために安息を用意して下さるお方だ、苦しんでいる人たちに希望をあたえる、休息をあたえる、神に望みを置き、ひいてはそのような安息を与えるキリストを待ち望ませるものでした。
ちょっと込み入ってしまいましたが、ともかく、そのキリストを指し示すという役割は、本体であるキリストが現れた以上、終わりました。
そういう意味で、旧約の定めである(土曜日の)「安息日」に、もはや縛られることはない。
種々の祭りも、いけにえを捧げる儀式も、すべてキリストが来られたことによって、役割を終えた。
ただ、安息日に関しては、キリストを指し示すという役割とは別に、先に示した@Aの意義は、残っているというのが、ウ大教理問答の立場です。
むしろ、Aに関しては、新約の時代、キリストが十字架と復活によって、救いのわざを完成して下さったので、ますますその意義が増したと言えるでしょう。
すなわち、聖なる神に近付くことによって、いのちが満たされるということが、キリストによって実現したのですから。
罪びとである私たちが、聖い神に近付くために、御子イエス・キリストが十字架にかかって下さいました。
キリストのおかげで、聖なる神が、同時に恵み深く、憐れみ深い私たちの父となられ、私たちを受け入れて下さった。
それで、私たちはその神の御手の中で憩うことができる。
魂の安息、主の安息を得ることができる。
キリストによって、まことのいのちー神とともにあるいのち、永遠のいのちーが回復した。
そしてやがての日には、すべての苦役から完全に解放されて、永遠の安息に入れて頂きます。
その完全な安息を罪びとに与えるために主はご自身のいのちをお捨てになりました。
主ご自身のいのちと引き換えに勝ち取ってくださった安息です。
パウロは、先のコロサイ書の個所の少しあとで、キリストに結びついていなければ、どれほど難行苦行をしても、意味がないと言いました。
あれを食べてはいけない、これこれの祭りを守らなければならない、安息日はいっさい世のことから離れて、聖く守らなければいけない…。
それらをいくらまじめに守っても、キリストに結びついていなければ、意味がない。
心が罪に汚染されたままではどうすることもできない。
新約の主の日に関しても同じです。
一生涯、一度も主の日を欠かさず守ったとしても、キリストに結びついていなければ、救いはありません。
それはそれで立派なことだとは思いますが、それによって神に受け入れられることはできません。
私たちにまことのいのちを与えるのは、キリストであって、主の日を守るという行いによるのではないのです。
キリストあっての主の日。
キリストの十字架あっての魂の安息です。
他の物では決して与えることができない究極の安息です。
「 きよきこの日に 御声聞かせて 」新聖歌 8番
ユダヤでは、安息日を花嫁と呼ぶ習慣があったそうです(ヘブル語で安息日は女性名詞)。
金曜日の夕方、日が落ちる頃、学者たちは安息日の正装をして戸外に出て「花嫁よ、来たれ」と言ったそうです。
神を礼拝する安息日を喜びの日とする儀式があったのでしょう。
私たちはキリストが花婿で、教会が花嫁ですから、花婿なる主にお会いする日、花婿が語って下さる御言葉に耳を傾ける日として、キリストを慕い求めていそいそと集いたいものです。
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