昨年10月から学び続けた「恵みによる救い」シリーズは終了とし、思いを新たにしてみ言葉に耳を傾けてみたい。
しばらくは、いろいろな観点からと考えているが、今朝は、伝道者の書12章に心の耳を傾けることにする。
私自身が幼い時に福音に触れたこと、そして、折々にみ言葉によって、福音の核心を教えられたことなどを振り返りながら・・・と願っている。
1、「伝道者の書(コーヘレス)」は、「エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば」との書き出しに続き、
「空の空。伝道者は言う。
空の空。すべては空。
日の下で、どんなに労苦しても、それが人の何の益になろう」
と、これから一体何を語り出すのか、興味深々の始まりである。
その全体を一言でまとめるのは、ほとんど無理であるが、あえて言うなら、「神がおられることを認めて生きるのか、それとも、神なしで生きるのか、その違いはとても大きなことになる」との教えと理解できる。
もし神なしと言うなら、「空の空。すべては空。・・・」であると。
(※「空:むなしいこと」、「空の空:全くむなしいこと」)いろいろな視点から、人間の営みを描写して、随所で「人は神を恐れなければならない」と語り、それを強要することはせず、読者が自分で心を決めるよう勧めながら、最後の章に行き着く。
結論と言うべき言葉が1節である。
「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。
わざわいの日が来ないうちに。
また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に。」
天と地の創造者、造り主である神を、あなたの若い日にこそ知りなさい。
人の一生には必ず終わりがある。
その終わりの日は、誰にも分け隔てなく訪れる。
そのことを決して忘れないように・・・と。

2、伝道者は、神によって造られた人間が、神に背いて、神なしで生きようとしている事実を認めている。(7:29)
神なしで生きていても、この世で栄えることがあり、神を信じていても、この世で災いから逃れられないことも知っていた。(7:15)
この世で権力者として生きる者も、ごく普通の庶民として生きる者も、本当に幸いな日々を過ごしているのか、実際のところは大差のないことも認めている。(4:1-2)
だからこそか、全ての人に、自分はどのように生きるのかを真剣に考えるように、特に若い人々にこそ、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」と語り掛けている。
若き日に創造者を知る幸いの大きさ、その尊さは測りしれない。
それは人生の土台となる。
その人の生き方の根幹となり、揺れ動かない指針となる。
それは単なる信仰と言うより、その人の世界観、人生観そのものとなる。
この点で、私自身は、自分の信仰に関して、何かの宗教の一つである「キリスト教」を信じていると言うより、もっと普遍的な真理である聖書に従って、自分の生き方の土台、人生観また世界観としての信仰と理解するよう導かれた。
この世界を造られた神がおられ、神によって人間は造られ、神によって生かされている。
(※創世記1章)真の神を信じて、この方に従って生きることこそ、私たち人間の幸いであると。
(※この世では、拠り所を見つけられないために、多くの人が、今だけ、自分だけ、お金だけと、ただ揺れ動いている現実が溢れているかのようである。)
3、伝道者は「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」と勧めた後で、「わざわいの日が来ないうちに、・・・」と警告する。
以下、譬えによって語られているのは、全ての人に必ずや訪れる「老い」の現実である。
「太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう前に。」(2節)
老いの現実を受け入れることには難しさがあり、どんなに備えたとしても避けることができる人はいない。
3節から6節は、老いの現実の描写である。
体力が衰え、足腰も弱り、食欲の減退があり、歯医者に通うようになる。
視力の衰えとともに聴力も変化する。
頭髪の変化にも触れられている。(※アーモンドの花は白色である)

この譬えについて、初めてはっきりと教えられたのは、秩父の小鹿野町の更に奥、群馬県との境になる河原沢で高校生たちとキャンプをした夜、小畑進師の講義であった。
(※40年以上前のこと)ご自身の経験から、高齢の方に福音を語る時の難しさを話された。
教会にどうぞと勧めても、足が不自由で無理。
では読み物をと言うと、目が見えんで・・・と。
それじゃ、お話しますと言うと、耳が聴こえない・・・と、この譬えがピッタリはまると言われた。
私自身も母方の祖父に教会に行くことを勧めた時に、今更教会に行く途中で転んでは、何にもならん・・・と言われたことがあったので、若い日に創造者を知る幸いを実感し、感謝した経験であった。
聖書は、老いの先にあるのは、「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る」と、全ての人に等しい「死」であると言い切る。(7節)
それを「すべては空」とするのか、それとも、意味あることとするのか、それは、私たち一人一人が、この地上をどのように生きるのかにかかっていると、鋭く問いかける。
<結び> 伝道者は、12章を締め括るのに、もう一言。
「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。
神を恐れよ。
神の命令を守れ。
これが人間にとってすべてである。
神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」(13〜14節)
大事なのは、私たちが今生きている事実をどのように捉えているのか、自分で生きているのか、それとも、生かされているのか、そのようなことについて思い巡らせることである。
創造者、造り主である神がおられると知って認め、ひれ伏すのか、そんなことは無関係に生きるのか。
この世には、実にいろいろな宗教があって、人々は必死になって拠り所を探し求めているが、迷っている人々につけ入るあくどい宗教があり、見分けるのは至難である。
私たちは、創世記から始まる聖書に従い、創造者である、生ける真の神を知ることができた。
その神の前に罪ある者であったが、罪に気づき、神の御子の十字架の贖いの御業によって、罪の赦しを与えられる幸いに与った。
私たちは神の子とされ、神の民としての地上の歩みを許されている。
神を恐れ、神の命令を守って、この世で、地に足を着けて歩むこと、天の御国に入る日まで、神を愛し、人を愛し、神に仕え、また人に仕えることが導かれるよう祈る中で、最後に特に覚えたいことがある。
創造者である真の神を信じて従う人々が、いよいよ増し加えられることである。
創造者を覚える幸いを、若い人々にこそ宣べ伝える務めがあると覚えたい。
教会に、今連なっている青少年や子どもたちを覚えて祈ること、彼らの心に信仰が根づくことを祈り、そのために仕えることが導かれるように。
※伝道者(コーヘレス):集会を招集する者、説教者、伝道者
※著者について:「エルサレムでの王、ダビデの子」との書き出しから「ソロモン」と考えられることがあるが、必ずしもそうではない。
※著作年代:バビロン捕囚後のBC300〜100年頃との諸説あり。
「輝く日を仰ぐとき」新聖歌21番
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