礼拝説教要旨(2022.09.18.)
神のおきてとおしえを
(出エジプト記18:13-27) 横田俊樹師 
<今日の要点>
教会にとって最も大切なことは、神の教え・福音が一人びとりに行き渡っていること。

<はじめに>
 創世記から見てきまして、今朝は出エジプト記18章の終わりまできました。
壮大な天地創造から始まった創世記は、12章からはアブラハム、イサク、ヤコブ、そしてヨセフという個人に焦点を当てて、それぞれ、山あり谷あり、喜怒哀楽の人生模様を繰り広げる真っただ中に、それこそどん底にも嵐の中にも、彼らとともにおられて、支え、導き、訓練し、守っておられた主なる神の恵み、憐れみ、ご真実を学びました。
それが出エジプト記に入ると、イスラエルの民全体に対する神のお取り扱いになります。
イスラエルをエジプトの支配から解放して、今度は神の国として整えていく段階へと進みます。
いわば、創世記の個人的な信仰から、その信じる一人びとりがともに神の国を建て上げていく段階へと進むわけです。

一人びとりの、神との個人的な関係がまず、大切ですが、その一人びとりが集まって神の民の共同体を形成し、そこで正義と公正が行われ、人々が互いに愛し合い、仕えあう姿となって結実する。

そこに神の御心が現れ、キリストの似姿が現れる。
それがご自身の民に対する、神の青写真なのでしょう。

そんな大きな流れの中で、今日の個所は、イスラエルがこれから国家として整えられるために必要な統治組織、統治システムの始まりとなります。
ここには今日の教会が、また一人びとりが心するべき大切な原理が記されています。

<あらすじ>
イスラエルの神がエジプトで大いなるみわざをされ、彼らをエジプトの支配から救い出された。
風の便りにそんな噂を聞いたモーセのしゅうとイテロは、ミデヤンの地からはるばるシナイ山にモーセを訪ねて来ました。
久しぶりに老妻チッポラと二人の息子たちと再会して、これまで緊張続きだったモーセの心も、少し、和んだでしょうか。

その後、普段は口が重いモーセから、次から次へと神がなさったみわざを聞いて、イテロの口からは思わず「主の御名はほむべきかな!」と賛美の声が上がりました。
その夜は、老イテロもテンションが上がって、しばらく寝付けなかったかもしれません。

 その翌朝。
イテロは目にした光景に、今度は別の意味で驚きました。
モーセ一人が「さばきの座」に着き、大勢の人々がひっきりなしにやってきては、入れ代わり立ち代わり、モーセの裁定を仰いでいるのです。
このとき、イスラエルは200万人以上と言われます。

所沢市の人口が約34万人ですから、その約6倍。
それを一人でさばく…。
どう考えても、無理です。
モーセもひっきりなしの休みなしですが、待たされる民の方も疲れてしまいます。
一日中待っても順番が回ってこない人もたくさんいたでしょう。

この様子を見てイテロは、しゅうとという立場で、言いやすかったのもあったでしょうか、「なぜこんなことをしているのか」と問うと、モーセは、人々の間に何か問題が起こると、彼らは神の御心を求めて、自分のところに来るので、彼らを神の御心に従って裁定するのです、と説明しました(16節)。

人の集まるところには、とかく争いごとも起こるもの。
一人一人、主義主張が違い、価値観が違い、利害が相反する状況で、それぞれが自分の正義を主張するばかりでは、混乱と争いが絶えません。
平和と秩序を保つには、その社会で共通して受け入れられ、従われる権威が必要です。
彼らはその権威を神に置いていたのでしょう。

そして神のさばきですから、それは誰かの個人的な信念や考えによってではなく、神のおきてとおしえによってなされなければいけません。
どこかの顔役みたいな人が、自分の顔で物事を丸く収めるとか、声の大きい方の言い分に従ってとかでなく、ただ神の言葉によって裁定されなければいけない。

場合によっては、道理のわからない当事者から、逆恨みされるかもしれません。
責任を分け合うと、相手の人に重荷を負わせることにもなります。
根がまじめなモーセは、その重責を誰かと分け合うことには慎重にならざるを得なかったのでしょうか。

 誤解なきよう。
モーセ自身は、司法権を独占して人々を支配ていたいと思っていたのでは、決してありません。
彼が願っていたのは、人々がみんな、神のおきてとおしえを知ってくれることでした。
それでモーセは、ただ当事者間をさばくだけではなく、神のおきてとおしえを教えてもいました。
16節のモーセの言葉「彼らに何か事件があると、私のところに来ます。
私は双方の間をさばいて、神のおきてとおしえを知らせるのです。」
神のおきてと教えを人々が学んで、知ってくれれば、いちいち全部、モーセのところに持ってくる必要はありません。

彼らの中で物事を処理できるようになるでしょうし、さらには彼ら自身が、神の御心である正義と公正、真実を行うようになれば、争いがなくなり、平和と秩序が確立して、幸いな社会となる。

さばきの座は、閑古鳥が鳴いている方がいい。
神のおきてと教えが、人々の間に浸透して、行われるようになったら、それこそ、神の国です。
モーセの願いは、人々の間に神のおきてと教えが行き渡ることなのです。

 しかしその目ざすところはよいけれども、今のやり方を続けていては、モーセも、民もつぶれてしまう。
イテロは、率直に「あなたのしていることは良くありません。」
と言いました。

このままではやがてモーセは燃え尽き、民たちも、問題がなかなか解決されず、交通渋滞を起こして、ストレスがたまる。
イテロは解決策を与えます。
責めているのでなく、愛をもって語ることを示すために、「どうか、神があなたとともにおられるように。」

と神の祝福を祈って、以下、具体的なアドバイスを三点。
@モーセは民の代表として、神の前にとりなす(19節)。
A民の教育―神のおきてとおしえを民に教えることーの責任はモーセが持つ(20節)。
B日常的な問題の処理は、民の中のふさわしい人に任せる。
ただし大きい事件はモーセが取り扱う(21-22節)。
実際に渋滞を起こしているのは、Bの部分ですから、ここを手分けして分担できれば、渋滞は解消し、モーセも民もストレスから解放されるでしょう。

 ただし、どんなに良い制度や組織も、最後のところは実際にそれを行う「人」にかかっています。
特に、さばきの任にあたる人は、誰でもいいというわけにはいきません。
その資格は神を恐れる、力のある人々、不正の利を憎む、誠実な人々と挙げられました(21節)。

能力だけでなく、それ以前に「神を恐れる」という心の姿勢が求められます。
それがあれば、不正の利を憎むこと、誠実さもついてくるでしょう。
そして千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長、と階層組織を作ります。

こういう体制は、イテロの部族の間では、すでに行われていたのかもしれません。
イテロは、このために来たわけではありませんが、イスラエルの国造りのとき、時宜を得たアドバイスをもたらしたのは、ありがたい神の摂理でした。

 イテロは、もし、このアドバイスを聞き入れてもらえたら、きっと、モーセももちこたえ、民も平安のうちに家に帰ることができよう、と勧めました。
23節、新改訳3版は「神があなたに命じられるのですが」と少々押しつけがましい感じに訳していますが、他の邦訳聖書は「神があなたに命じられるのなら」と控えめに訳しています。
このアドバイスが神の御心にかなっているのなら、そしてモーセ自身も、神がそのように命じていると判断したならば、受け入れてくれるようにと。
礼儀という面もあったかもしれませんが、良心的な祭司であるイテロは、神へのおそれというものをわきまえていたのでしょう。

 モーセはイテロのアドバイスをよしと認めて、すべてそのとおりにしました。
と言っても、昨日の今日というわけにはいきません。
準備が必要です。
男だけで60万人の組分け。
」の人選。
そして、それぞれの「」にまず、神のおきてとおしえを教えて、十分に理解してもらうこと。
それを経て、それぞれの長に任じ、実務に着かせたのでしょう。

 ちなみに、このときの神のおきてと教えは、簡易的なものだったと思われます。
十戒をはじめとする膨大な律法は、この後、20章以下で与えられます。
その律法をイスラエルの生活の隅々にまで行き渡らせるための器が、ここで用意されたわけです。
大事なのは中身ですが、器によって、せっかくの中身が生きもすれば死にもすることがあるでしょう。
神の教えを渋滞させてはいけません。
神は、ご自身の教えが、人々に行き渡るための最適なシステムも与えて下さったのです。

「 イエスの愛と悩みを思いて 主と崇めよ 」新聖歌 140番





 新約の時代の神の国、教会においても、大切なのは神の教え=福音・キリストのことばが人々の間に行き渡ることです。
そのために教会においても、上記三点は有効です。

祈りと御言葉に専念する役割の必要(使徒6:2-4、新約pp. 237-238)。
モーセが神の前に出て祈り、また神の教えの責任を負ったように、祈りと御言葉に専念する役割が必要です。
もちろん、今日では万人祭司の原理ですから、とりなしの祈りも福音を宣べ伝えることも、牧師の専売特許ではありません。

みんながすることです。
ただ、実際には仕事や生活のあれやこれやと忙しく、祈りのためにまとまった時間を割くのは、一般の人には物理的に難しいでしょう。
教会には、祈りのために時間をとってこの務めに当たる人が必要ですから、その役割を牧師が担います。

また、教えの純正さを保つために、牧師となる者は、神学校で専門的な訓練を受け、中会の試験を受けて認められる必要があります。
そして福音に混ぜ物をしたり、歪めたり、偽りの教えが入らないように、純粋な福音を守る責任を負います。

そのようにいわば監督責任の所在を明確にした上で、教える働き自体は他の人にも委ねます。
使徒パウロは弟子のテモテ牧師に命じました。
第二テモテ2:3、新約p. 414
多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい

役職のあるなしにかかわらず、福音をよく理解して、教える賜物のある人は、その賜物を用いて兄弟姉妹たちに仕えることで、福音はさらに良く浸透し、根を張り、実を結んで、教会は豊かな祝福を受けるでしょう。
大切なのは、福音が人々の間に浸透することです。

そして目ざすところは、信徒一人びとりが「互いに」福音を土台とした交わりを持つことです。
新約聖書には「互いに」という言葉が50回以上使われています。
以下、一部です。

互いに愛し合い」ローマ12:10
互いの重荷を負い合い」ガラテヤ6:2
互いに慰め合い」第一テサロニケ4:18
互いに励まし合い」第一テサロニケ5:11
互いに勧め合い」ヘブル10:24
互いに罪を言い表し」ヤコブ5:16
互いのために祈り」ヤコブ5:16
互いに仕え合い」第一ペテロ4:10

これは福音・キリストのことばが、信じる人々の中に浸透したことの結実なのでしょう。
福音の種がまかれて、御霊の実がたわわになっている神の畑のイメージです。
旧約の時代と新約の時代の大きな違いの一つは、新約の教会には、聖霊が豊かに与えられていることです。
このアドバンテージは、計り知れないほど大きいです。
聖霊が、御言葉とともに私たちの内に力強く働いて下さることを願いましょう。

繰り返しますが、大切なのは、神の教え・福音が、信じる人々の間に浸透することです。
牧師個人やほかの個人の主義、主張、考えではありません。
世の中の価値観でもありません。
教会に流れているのは、神の教え・福音でなければいけません。
血液が全身を巡って、命が支えられ、活気が出るように、キリストのからだなる教会には、キリストのことばが流れてこそ、生きるのです。

聖書に親しみましょう。
御言葉を心に蓄えましょう。
福音を思い巡らし、心に刻みましょう。
神は私たちを愛して、私たちを罪と滅びから救い、真のいのちを与えるために、この上なく尊い御子を十字架に渡されました。

キリストの計り知れない犠牲、痛み、苦しみ、悲しみのゆえに、私たちは限りない赦し、永遠のいのち、永遠の祝福にあずかりました。
そこまでして私たちにとこしえの祝福を与えたいと願って下さった方、キリストを思い、仰いで、キリストのことばを心に大切に蓄えさせて頂きたいのです。

コロサイ 3:16新約p. 393
キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。