礼拝説教要旨(2022.09.11)
揺るがない救いの約束
(ヨハネ 10:22〜30) 柳吉弥太師 

 昨年10月以来、
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。
それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです
(エペソ2:8-9)
の御言葉に目を留め、「神からの賜物」と言われる「恵みによる救い」について学び続けて来た。

ほとんどのキリスト教会が同じ言葉で救いを理解しながら、肝心なところでは、微妙な理解の違いがあると踏まえながらであった。
また「微妙」と言いながら、実は、大きな「違い」のあることを認めてである。
(※私自身の信仰生活、教会生活を通してのこと)

恵みによる救い」と言いつつ、救いにおける「神の主権」をどのように理解するのか、神が救って下さるのか、人間は、その救いにどのように関わっているのか、教会の歴史において、論争は決着しているとは言えない。
だからこそ、再確認するのはとても大事と思った。
今朝は、一連の学びの最後となる。
中心は、神が私たちに与えて下さる「恵みによる救い」は、「絶対確かで、全く揺るがない」ということである。

1、「恵みによる救い」をより深く理解するため、御言葉に耳を傾け、神学的な用語にも触れ、これまでに、「全的堕落:Total depravity」、「無条件的選び:Undconitional election」、「限定的贖罪:Limited atonement」、そして「不可抗的恵み:Irresistible grace」と覚えた。
これに続くのが「聖徒の堅忍:Perseverance of the saints」という言葉で理解されることである。

英語の頭文字は「TULIP」となり、「カルビン主義の五特質」として、救いの教理の全容が明かになると言われる。
救いに関する神の永遠のご計画を理解するのは思いのほか難しいものの、先回にも触れたように、「五特質」を通して思い巡らすことによって、より深く理解できるのは確かである。

また一つ一つ個別に理解するより、五つが全てに関わっていることを覚えると、より理解が深まる。
けれども、大事なカギは、やはり一番目の「全的堕落」にある。
使徒パウロが指摘するよに、かつては「罪過の中に死んでいたこの私たち」という認識である。(エペソ2:5)

私たち罪ある者が、神への背きの罪のゆえに、滅びに向かうばかりの中から救われるのは、ただ神のあわれみによる。
神の測り知れない恵み、確かな恵みによるのみである。
人間の側からは、神に立ち返ることなど、全く考えることなく、その可能性はゼロであったことを理解するなら、私たちが救われたのは、「恵みのゆえに、信仰によって」と、心から感謝するほかない。
これ以外には考えられないことである。

2、確かに自分で信じることがあり、自分が決断した事実があったとしても、聖霊の働きと導きがあって、神ご自身が、私を選んで下さることが全てに先行していたと認めることである。

神は、「無条件的選び」によって私たちを救いに招き、御子の十字架の血潮を代価として払い、救いを確実に届けて下さった。
限定的贖罪」と「不可抗的恵み」が意味することである。
このように「恵みによる救い」を理解するなら、最早、私たちは、生ける真の神の御手の中にあり、罪の赦しを与えられ、永遠のいのちを与えられたのであって、私たちにとって、救いは揺るがず、救い主イエス・キリストは、いつでも、どこでも、どんな時にも私たちと共におられ、守り、支えて下さっている。

聖徒の堅忍」とは、聖徒である人間の側のことと言うより、神によって、「聖徒は堅忍される」という意味である。
救って下さる神ご自身が、聖徒である私たちを保持して、救いからは決して漏れないように導いて下さっている。
主イエスご自身が語っておられる約束である。
「・・・わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。
彼は決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません
。・・・」(27〜29節)

3、私たち人間の側に、救いにおいて何らかの関わり、また責任があると考えると、必ずのように、信仰の有無、また強弱を問い始めることになる。
祈りにおける熱心や不熱心に、一喜一憂していることはないだろうか。
行き着くのは、神を仰ぐのでなく、周りを見回して他の人と比べること、行いに頼る落とし穴である。

自分で祈れている時には考えもしないこと、「私は本当に救われているのか」とか、「天国にやっと辿り着いても、門が開かれなかったらどうしよう」という心配が、フッと心をよぎるという人がいる。
こうした心配は、これまで学び、また確認してきた救いの理解においては、全く不要である。
十字架で死なれた神の御子イエス・キリストを救い主と信じる私たちは、主イエスの御手の内に抱かれているので、全く安全である。
たとえ私たちの信仰が揺らいだとしても、また揺らぐどころか、救いを見失ったとしても、救って下さる神の御手は揺るがない。
救いの約束は必ず果たされる。

私たちは、聖書に記されている主イエスの約束の言葉を信じたはずである。
神が真実な方であり、神の御子の真実な約束の言葉を聞いて信じて歩み始めた。
これからも神が備え、与えて下さった「恵みによる救い」を感謝し、地上の生涯を、天の御国に入れられる日まで歩み抜くことを、神ご自身が導いて下さるのである。

<結び> それにしても、私たち人間は、神の絶対的な主権を認めることをしない、というより、したくないのかも知れない。
恵みによる救い」を認めながらも、人間の側の責任を問うことをする。
もちろん、救いに与った私たちが、心を込めて神に仕え、また隣り人に仕えることは大事である。

神を愛し、隣り人を愛するのは、主イエスが語られた大切な戒めにある通りである。
私たちが、この地上でどのように生きるのか、どのような日々を歩むのか、心しなければならない。
そのことについて、多くの警告が発せられている。

確かに「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
と言われている。(マタイ7:21)

御国に入れない者がいると言われているが、入れないのは行いに頼る人々であると、はっきり告げられている。
マタイ25章にある羊と山羊の譬えも同様である。
私たちは、ゆめゆめ行いに頼る信仰の落とし穴にはまることのないよう心したい。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。
それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行いによるのではありません。
だれも誇ることのないためです。


「千歳の岩よ」新聖歌229番