礼拝説教要旨(2022.09.25)
わたしの宝と
(出エジプト記 19:1−6) 横田俊樹師 

<今日の要点>
神は御言葉によって、私たちをご自身の宝として造り上げて下さる。御言葉に親しもう。

<はじめに>
 前回の続き、エジプトを出たイスラエルの国造りの場面です。モーセのしゅうとイテロを通して、神はイスラエルに、神のおきてとおしえが人々に行き渡るためのシステムを与えました。千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長を立てて、日常生活に起こる問題は、彼らが神のおきてとおしえに従って裁定するという体制でした。

そしていわば器が与えられて、いよいよ大切な中身が与えられます。神のおきてとおしえとして、正式に神ご自身から十戒と膨大な律法が、次の20章で与えられます。その際、これをあなたがたの法律にしなさい、とただ天からポンと与えるのでなく、神と民との間で結ばれる契約の一部として与えられます(5節)。契約を結ぶということは、厳かな行為です。

それで19章は、神とイスラエルが契約を結ぶための備えの章となります。この契約がどんな祝福をもたらすかを告げ、そして契約を結ぶにあたって、主ご自身がシナイ山に降りてこられるので(18節)、民は身をきよめて備えるよう、求められます。今日はその前半部分を見ていきます。

<あらすじ>
 過越の日、すなわち第一の月の14日夜にエジプトを出て、このとき、第三の月の新月ですから、6週間が過ぎた頃と思われます。イスラエルの民はシナイの荒野、シナイ山のすぐ前に宿営しました。シナイ山は標高2293mのゴツゴツした岩山です。

モーセがその山に登ると、主は彼を呼んで、このようにイスラエルの民に告げよと、語られました。「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。…」(4節)主はまず、これまでイスラエルが体験してきた主の救いのみわざ、また主がともにおられて数々の試練から彼らを守り、このシナイに連れてきたことに、心を留めさせます。

「わたしのもとに連れて来た」とは、もちろんここに至るまでも常に主は彼らとともにおられましたが、これは、このシナイでの特別な神の御臨在の場へと導いたことを指すのでしょう (参考3:12)。返す返すも、人間的には考えられないこと。ただただ主の恵みのみわざでした。

ところで、「あなたがたを鷲の翼に載せ」という表現について。鷲がひなを巣立ちさせるとき、母鷲は巣を揺さぶって、ひなを巣から追い出すそうです。鷲の巣は高い木の上や、断崖絶壁にありますから、巣から放り出されたひなは、翼を一生懸命バタバタさせますが、当然、最初は上手く飛べません。ほとんど一直線に地面に向かって落ちていきます。

あわや、地面に激突?!と思った瞬間、母鷲は落ちていく途中のひなの下に入り、自分の翼の上にひなを受け止め、翼に載せて、再び巣に戻すのです。これを何度か繰り返します。このように飛ぶ訓練をして、ようやく飛べるようになるのだそうです。

ここまでのイスラエルの歩みもそうでした。主が彼らとともにおられ、助けて下さる、全能で恵み深い方であることを知るために、彼らは荒野で、あわや、という状況に追いやられました。エジプト軍に追い詰められ、飲み水、食べ物も尽き、というところに至って、主はそれらの危機から彼らを救い出されました。

これらのことをあなたがたは「見た」と言います。見るということは、百万遍の説教に勝って力があります。新約の使徒の条件も、復活の証人ということでした。イスラエル人からすれば、勘弁して下さいよ、というところでしょうが、信仰の面からすれば、それらの経験は計り知れない価値のあるものでした。

詩篇119:71-72、旧約p.1030
119:71 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。
119:72 あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです


渦中にあっては、なかなかこうは思えないものですが、あとから振り返ったときにでも、こう思えるときが来ますように、と願います。いや、主にあって、必ずそうなのでしょう。

 この4節で主が語っていることは、イスラエルに対して示してきた主の恵み、主のご真実、彼らに対する主の御愛を覚えるように、ということでしょう。すでに彼らは神との恵みの関係に入れられている。だからこそ、彼らはエジプトの支配から救い出され、荒野の試練の中も守られてきた。そのことを土台として、次があります。

「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。」(5節)

イスラエルの民よ。あなたがたが、わたしの−あなたを恵みをもってエジプトから救い出し、ここまで導いた、このわたしの−声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、そのとき、あなたがたはわたしの宝となる…。


主が与える戒めは、無機質な単なるルールではなく、極めて人格的な関係の中で、受け止めるべきものです。幼子が親を信頼しているように、神に信頼を寄せるがゆえに、その言われることに素直に従う。そのような従順をこそ、主は最も望んでおられるのでしょう。サタンがエデンの園で壊したのは、そのような神と人との関係でした。

ところで、神にとっての宝と言って、どういうことをイメージするでしょう。高価な存在、目の中に入れても痛くないほど、大切で、いとおしい存在。もちろんそうです。しかしそれは、これから神が与える言葉を守ったら、ということではなく、たとえば、すでに神は彼らを「わたしの子、わたしの初子」と呼んでいました(4:22)。

彼らの存在そのものは、すでに、神にとって無条件にいとおしく、尊いのです(イザヤ43:4、旧約p. 1194)。
ですからここでは、別の意味で宝となることと思われます。神にとって尊く、価値のあると見られるものは何か。それは御子キリストの似姿ではないでしょうか。

彼らの間に、神の言葉が浸透し、彼らがこれを守り、行うことによって、彼らのうちに御子の似姿が形作られていく。それが、神にとってこの上ない麗しい光を放つ宝となる…ということではないでしょうか。
これまで罪にまみれていた者が、神の言葉という水で洗われ、あるいはその水の中に入れられて、つかって、ゴシゴシ洗っていくうちに、何センチも厚くこびりついていた垢が落ちていき、最後にそこに現れたのは、尊い神の似姿だったというイメージもありでしょうか。元々、人は神の似姿に造られているのですから。

そう考えると、「あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしものだから」というのも、単にイスラエルのことを、あなたはわたしにとって世界で一番の宝物だ、と言っているのではなく、彼らがそのように神の言葉を行って、光を輝かせるとき、周りの国々がその光を見て、彼らも神をあがめるようになる。そして神を求めるようになる、ということを暗示しているように思われます。事実、時代が下ってイエス様の時代には、異邦人の中からも改宗する人々が起こされていました。

その中には、イスラエル人の倫理性の高さに惹かれたという人も多かったと言います。世界は全て神のもの。最初から、すべての民が神の救いの視野に入っているのです。
このことは、次の6節で別な表現で語られています。「あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。…」祭司は神と人との間に立って、神に仕え、人に神について教えます。彼らが神の言葉に従うとき、神に仕えると同時に、周りの民に、神がいかなる方かを示すことになります。

「聖なる国民」とは、神のために、世から区別され、取り分けられた民ということです。彼らに与えられた神の言葉によって、彼らは世からとりわけられるのです。イエス様も、弟子たちのために祈られました

(ヨハネ17:15-17、新約p. 216)。
17:15 彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。
17:16 わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。
17:17 真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。


以上、この時、神が与える契約は、彼らがこの後与えられる十戒、律法を守るなら、神の宝とされるというものでした。しかし繰り返しますが、忘れてはならないのは、彼らはすでに神の恵みを受けて、神の救いに与っていたということです。

すでに恵みの関係に入れられていたということです。神はアブラハム、イサク、ヤコブに与えた契約のゆえに、彼らの子孫であるイスラエルを顧み、エジプトから救い出されました。そのうえで、彼らを御言葉によってきよめ、キリストの似姿を彼らの中に形作って、彼らを神の宝とするという祝福を与えられたのです。

まず神の一方的な恵み、救いがあって、その後に御言葉への従順があるということ。そしてもう一つ。神が与える律法は、ただ「かくあるべし」という戒めだけでなく、罪の赦しの規定もありました。罪ある人間に、完全に神の律法を守ることはできないことは、神はご存じです。

ですから、神は赦しを備えておられる、神のもとには赦しがある、と教えることも、実は律法の大きな目的の一つなのです。それも含めた契約です。それは、実は民をキリストに導くものでもありました。

「 心に主の愛 溢れて歌う 」新聖歌 352番

 私たちはモーセに与えられた契約よりも、はるかにすばらしい新しい契約―福音が与えられています。福音によって、私たちは、神の子とされているという、計り知れない恵みの関係に入れられています。

これがまず土台です。この関係は、いっさい私たちの行いによらず、キリストが成し遂げて下さったことだけにかかっているので、揺るぐことがありません。そして、出エジプトの際には、主は大いなる御力をあらわしましたが、犠牲を払うことはありませんでした。

しかし私たちの救いのためには、神は尊い御子を私たちの罪のために身代わりに十字架に渡されました。それは、全世界の造り主なる神の、私たちに対する、この上ない愛のあかしです。

その神のご愛を知ったときに、私たちは、神の言葉を行いたいと願うのです。このお方の言葉が、悪いものであるはずがありません。いのちを懸けて、私を愛して下さった全知全能の神であられるお方の言葉なのですから。

神の言葉・聖書は、足元を照らすともしびです。生活に適用しないと、宝の持ち腐れです。失敗しても、まったくできなくても、神の子という関係にヒビが入ることはありません。だから安心して、自分のできるところから、御言葉によって生きることを心がければいいのです。

あるいは、御言葉を拠り所として生きるということをしていければいいのです。足元からできる範囲で御言葉によって生きるということを実践していけたら、少しずつ手応えを感じることができ、ますます御言葉を慕うようになるでしょう。聖書に親しみましょう。



 主は御言葉によって、私たちを取り扱われます。エペソ5:26-27、新約p. 380
5:26 (キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたのは、)みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
5:27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

主語はキリストです。キリストが御言葉によって、私たちをきよめて下さる。私たちをご自身のかけがえのない花嫁として、慈しみ、愛情をこめて、励まし、支え、教え、訓練して。私たちはただ、愛する主の御言葉によって生きることを心がけていく中で、キリストが長い時間をかけて、そのようにして下さるのです。

私たちが失敗しても、その関係は決して揺るがないという安心感の中で、御言葉によって生きる。揺るがないだけでなく、失敗して、落ち込んでいる者のために、慰めも備えて下さる主です。

そんなふうに、くすぶる燈心を消すことなく、傷んだ葦を折ることもない主のご配慮があるからこそ、自分のような者も途中でやめずに、ここまで続けることができたのだと思います。

そして最後には、主が私たちを御子の似姿に完成させて下さる。神の御目に麗しい光を放つ宝として完成して下さるという希望を持つことができます。最後に、以前、紹介したティム・ケラーの言葉をもう一度。「神は私たちをありのままで見て下さり、ありのままで愛して下さり、ありのままで受け入れて下さる。しかし、神の恵みによって神は私たちをありのままには捨て置かない。」