主の2022年も8月を迎えた。
毎年8月は、この日本という国にある教会として、かつての歴史の事実を思い返さないままで、主の日の礼拝をささげることはできない時である。
6日、9日を過ぎて、明日15日を特別の思いで迎えることになる。
多くの人が「終戦の日」と考えるようであるが、私たちは一体どのように考えるのか、一人一人が心の内が探られる。
「終戦」なのか、それとも「敗戦」なのかを考えるだけでも、歴史の事実に触れることができる。
それはそれとして、私たちは今朝も、聖書の御言葉に耳を傾け、私たちの信仰の本質である「恵みによる救い」をより深く心に留めたい。
世の中は混沌とし、何を拠り所とするのか、益々不確かな時代へと進んでいる。
そのような時代にあって、より確かな拠り所を得て、堅く立つことができるよう願いつつ。
1、昨年10月に同じ聖書個所を開いた。
そして、次の言葉に目を留めた。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。
それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行いによるのではありません。
だれも誇ることのないためです。」
その後、「神からの賜物」と言われる「恵みによる救い」を再確認しながら学び続けている。

前回の6月、「恵みよる救い」の根本的な理解に拘る理由に触れたが、もう一度触れておきたい。
それは、世界中の、ほぼどの教派のキリスト教会であっても、エペソ2章8節の御言葉を大切にしつつ、その理解や解釈になると、差が生じているのを見過ごすことはできないことである。
それは創世記の天地創造における人間をどのように理解するのか、神のかたちとして造られた人間が、神の言葉に背いて堕落した事実をどう理解するかに差を生み出している。
私たちは「全的堕落」と理解するのに対して、必ずしもそうとは考えない立場があるということである。
「人は生まれながらのままでは、決して自分から神を求めることはしない、いやできない」とは考えずに、むしろ、その人の決断の尊さを認め、人は誰でも自分の救いの道を選ぶことができると。
「キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められる」のは、「新しく生まれる」という聖霊の御業が先行すると私たちが理解するのに対して、神の御業と人間の決断が並行すると考える。
2、そのように救いを理解して、確かに自分で信じることがあり、自分が決断した事実があることを大事にする。
その場合、聖霊の導きがあって、主なる神ご自身が私を選んで下さったことが全てに先行していると、「無条件的選び」を知って感謝することが疎かになる。
人間の側に何らかの良きものがあると考える余地を残すからである。
救いにおける神の絶対的な主権を認めるより、人間の側の納得の行く道筋を尊ぶという問題となる。
パウロが言う、「自分の罪過と罪の中に死んでいた」事実、また「生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」事実を、決して見失ってはならない。(1〜3節)
この視点を見失うと、救いに関する厄介な「予定論」の論争を引き起こすことになる。
主イエスは言われた。
「わたしは、良い牧者です。
良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
・・・わたしは良い牧者です。
わたしはわたしのものを知っています。
また、わたしのものは、わたしを知っています。
・・・わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。」
(ヨハネ10:11〜15)
主イエスは、ただ単に「すべての人のため」にではなく、罪の中に死んでいたご自分の民を確実に救うためにこそ、尊い血潮を流された。
私たちは、このことを「限定的贖罪」であったと理解し、反対する立場の人々は、主イエスの血潮は「すべての人のため」であったとし、人間の側に、救いを選べる道を残している。
3、主イエスの血潮が「すべての人のため」に流されたと理解し、信仰を拒み、救いを拒む人々がいると考えると、神が用意された「救いの恵み」を拒む人々がいると認めることになるのかもしれない。
けれども、やはり神の御子イエス・キリストの十字架の血潮は、神の永遠のご計画によって、救いに選ばれた神ご自身の民のために流されたもので、神の民一人一人のために、救いは漏れなく確実に届けられる事実を覚えることが大事となる。
実際に福音が人々に届けられる時、心を開く人がいると同時に、心を閉ざす人がいる現実をどのように理解するのか、これこそが「恵みによる救い」の核心と言える。
私たちは、全ての人が例外なく、神の前に罪ある存在であること、誰一人として、自分からは神に立ち返ることはできないと認めなければならない。
「全的堕落」の事実である。
福音の招きに対して、自分から心を開くことはできない。
神が恵みの御手を差し伸べて下さる時、その人は新しく生まれる恵みに与り、心を開いて、神の民として歩み始めることができる。
神の測り知れない救いの恵みは、神の民一人一人に確実に注がれ、届けられる。
神は、人を無理矢理ご自身の元に引き寄せられるのではなく、恵みを注がれた一人一人は、恵みを感謝し、自発的に、自由に、喜びをもって神と共に歩む者となる。
この神の恵みこそ、「不可抗的恵み」と言われる確かな恵みである。
私たちが、神の御子イエス・キリストを私の救い主と信じますと、心から信じることができるのは、神の測り知れない確かな恵みが、私たちに注がれたからにほかならないのである。

<結び> これまで、「恵みによる救い」をより深く理解するために御言葉に耳を傾け、神学的な用語にも触れてきた。
「全的堕落:Total depravity」「無条件的選び:Unconditional election」「限定的贖罪:Limited atonement」、そして「不可抗的恵み:Irresistible grace」と続いた。
これらの言葉の英語の綴りの頭文字は、TULIとなる。
もう一つ続くのが「聖徒の堅忍:Perseverance of the saints」という言葉で、頭文字はP。
五文字を続けるとTULIPとなり「カルビン主義の五特質」と言われる、救いの教理の全容が明かとなる。
救いに関する神の永遠のご計画を理解するのは思いのほか難しいが、「五特質」を通して思い巡らすなら、より詳しく、より深く理解できる。
(※五番目については、次回の課題である)大事なカギは、一番目の「全的堕落」にあると思われる。
かつては「罪過の中に死んでいたこの私たち」という認識である。
全ての人が、神への背きの罪のゆえに、滅びに向かうばかりの中から救われるのは、ただ神のあわれみによる。
神の測り知れない恵み、それも確かな恵みによるのみである。
私たち一人一人に、こうした罪の認識と、救いの恵みへの感謝があるかないか、それが私たちの生き方を決める。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。
それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行いによるのではありません。
だれも誇ることのないためです。」
神ご自身は私たち救いに与った者が、神への感謝をもって生きることを願っておられるだけでなく、私たちが心を低くし、決して奢らず、極力慎ましく生きることを願っておられる。
私たちを取り囲むこの世は、人を蹴落とし、嘘や偽りを認めず、ひたすら力を誇ることばかりが目立っている。日本の社会は異常である。
最初に触れた「敗戦」を「終戦」と言い換えるのは、その実例であろう。
そのような社会の中で、惑わされず、また流されず、生ける真の神を畏れ、神の救いの恵みを感謝して、主を証しして生きることを導かれるように。
教会の証しが豊かに用いられるよう心したい。
「罪に満てる世界」新聖歌343番
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