礼拝説教要旨(2022.08.07)
天からのパン
(出エジプト記16:31-36) 横田俊樹師 
<今日の要点>
イエス・キリストこそが、まことのいのちを与える天からのまことのパンである。

<あらすじ>
 荒野でイスラエルの民のために、神が天からパン、すなわちマナを降らせたときのエピドートを前回の30節まで見てきました。
今日の個所は、マナに関する補足という位置づけになります。
まずは31節

イスラエルの家は、それをマナと名づけた。
それはコエンドロの種のようで、白く、その味は蜜を入れたせんべいのようであった。


名前の由来は、15節で、彼らが初めてマナを見たとき、「これは何だろう。」ヘブル語で「マーン・フー」と言ったことから、マナと呼ばれるようになったようです。ちなみに、森永マンナというビスケットは、このマナから来ているとのこと。

森永と言えばエンゼルマークで、創立者の森永太一郎氏はクリスチャンだったそうです。
彼はアメリカでクリスチャン夫婦の家にお世話になったことから信仰を持ち、帰国後、一時は信仰から離れたものの、妻をなくしたことをきっかけに信仰に復帰し、のちに第一線を退いてからは、福音を説いて各地を回ったそうです。
マナの色については、コエンドロの種のようで白かったと言いますが、コエンドロは、今日コリアンダーと呼ばれる香辛料の元になるセリ科の植物で、生食で食べる葉はパクチー、中華料理のシャンツァイのことだそうです。

これは白い小さい花をつけ、直径3ミリほどの白っぽい種を作るそうです(外側には薄茶色い殻がある)。
そして肝心の味は、蜜を入れたせんべい(ウェハース?)のようですから、甘いということ。
白くて甘い。
象徴的な意味を汲み取れば、白はきよさ、甘さは慈しみ深さを表しているのでしょうか
主のきよさと慈しみ深さを表す天からのパン…。

 そして32-34節は、このときでなく、後になってのことと思われます。
マナに関することとして、ここにまとめて記したのでしょう。

32節「モーセは言った。
『【主】の命じられたことはこうです。
「それを一オメルたっぷり、あなたがたの子孫のために保存せよ。
わたしがあなたがたをエジプトの地から連れ出したとき、荒野であなたがたに食べさせたパンを彼らが見ることができるために。」』


モーセは人々に言ったのでしょうか。
こうして読んでみると、主は子孫への信仰教育にとても気を配っておられることを感じます。
以前読んだ、過越の祭り、種を入れないパンの祭りのときも、代々、祭りを行うとともに、その意味を子どもたちにちゃんと教えるように、と命じられていました。
ここでも子孫がマナの実物を見ることができるように、1オメル、一日分たっぷりとって保存せよ、と命じられました。
もちろん、これは何日経っても腐らなかったのでしょう。

 続いてモーセはアロンに言い、アロンはその通りに行いました。
33-34節 モーセはアロンに言った。
『つぼを一つ持って来て、マナを一オメルたっぷりその中に入れ、それを【主】の前に置いて、あなたがたの子孫のために保存しなさい。』【主】がモーセに命じられたとおりである。
そこでアロンはそれを保存するために、あかしの箱の前に置いた。


33節「主の前に」とは、具体的には34節「あかしの箱の前に」ということです。イスラエルは後に、神を礼拝するための幕屋を、神の指示に従って建てます。
幕屋は、入ってすぐ手前の聖所というところと、その奥にある至聖所というところがあって、垂れ幕で仕切られていました。
その至聖所にあったのが、「あかしの箱」で、それは神の御臨在される、最も神聖な場所とされました。
そこにマナの入った壺を置いたというのです。
毎日与えられていると、見慣れて、ありがたみが薄れがちかもしれませんが、こうして至聖所の、しかもあかしの箱の前に置くことで、これが毎日のことではあっても、決して当たり前のことではなく、神からの特別な恵みであることを、覚えさせられるのかもしれません。

 主は、マナの実物を大切に保存して、これを後の人たちが見て、主が荒野でイスラエルのために、超自然的にパンを与えられたことを覚えるようにと、命じられました。
子孫への教育に限らず、私たちも、過去に主がなさって下さった恵みを大切に心の奥にしまい、主からのものとして覚え、折に触れて思い返すのは、大切なことです。

詩篇103:2、旧約p.1008
わがたましいよ。
【主】をほめたたえよ。
主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。


行く手が不透明で、未来に不安を覚えるときは、これまでに主から受けた恵み、守りを数え上げるのも有益なことです。

 このマナは、イスラエル人が約束の地カナンに入るまで、40年間、欠かさず与えられました。
35-36節「イスラエル人は人の住んでいる地に来るまで、四十年間、マナを食べた。
彼らはカナンの地の境に来るまで、マナを食べた。
一オメルは一エパの十分の一である。


200万人以上と言われるイスラエルの民を40年間、それも、生き延びるのに必要なギリギリの量でなく、たっぷりあったことを印象付けるためでしょうか。
最後36節にはその分量を再度、明記します。
一人あたり一日1オメル、約2.2-2.3リットル。
昔のイスラエル人が聞いたら、その量がすぐにイメージで来て、たっぷり感が伝わったのでしょうか。
それが約束の地カナンの境に来るまで、とあります。
ヨシュア記5:12(旧約p.375-6)には

彼らがその地(カナン)の産物を食べた翌日から、マナの降ることはやみ、イスラエル人には、もうマナはなかった。それで、彼らはその年のうちにカナンの地で収穫した物を食べた。

とあります。
主は全能の御力をもって、真実をもって、彼らを養われました。
天からのパンに不作はありませんでした。
主は、彼らをカナンに着く前に飢え死にさせるようなことを、決してなさいませんでした。
彼らは毎日、同じマナを食べてあきあきしたかもしれません。
荒野の旅は困難であり、苦しみがあり、飢えと渇きがありました。
しかし、後から振り返ってみると、必要はすべて満たされていたのです。
私たちに対しても、主は約束の御国に入るまでの間、必ず私たちの地上での必要を満たして下さいます。
天の倉には恵みが尽きることがなく、そして主は真実なお方です。

「主は命を 与えませり 主は血潮を流しませり」新聖歌102番



 この時、イスラエルの民の命を養うために、天からパンを与えた神は、後に、信じるすべての者に永遠のいのちを与えるために、天からのいのちのパンをお与えになりました。
御子イエス・キリストが、そのパンです。
ヨハネ6:48-51、新約p.187
6:48 わたし(イエス・キリスト)はいのちのパンです。

6:49 あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。

6:50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。

6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。
だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。


キリストがパンであるとは、どういう意味でしょう。
普段、食べるおいしいパンを思い浮かべると、ちょっと想像つかないかもしれません。
パン(食べ物)というのは、そもそもどういうものなんだろう、パンの本質は何だろう、と考えてみると、それは命を支えることです。
飢餓になったら、味は二の次で、とにかく命をつなぐために食べ物を食べなければいけません。
そういう意味で、食べ物は命そのものです。
同じように、天からのパンは、私たちにとって、永遠のいのちそのものです。
これを食べないと、永遠のいのちはありません。
これを食べることによって、人は初めて永遠のいのちにあずかるのです。

しかしイエス様というパンを食べるとは、どういうことでしょう。
実はこの後で、イエス様はさらに不思議なことを仰っています。

ヨハネ6:53-58、新約p.187
6:53 イエスは彼らに言われた。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。

6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。
わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

6:55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。

6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。

6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。

6:58 これは天から下って来たパンです。
あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。
このパンを食べる者は永遠に生きます。」


1〜2世紀の時代でしょうか、この辺の御言葉を聞いて、キリスト教徒は食人種だ、と悪口を言う人たちがいたと言います。
確かに、一瞬、眉をひそめたくなる御言葉ではあります。
しかし、もちろん、そんな意味ではありません。

食べる」という行為は大切な行為です。
せっかく目の前に栄養満点の食べ物があっても、眺めているだけでは何にもなりません。
食べるという行為によって、自分の体の外にある食べ物を、体の中に取り込み、消化し、栄養を吸収して、はじめて食べ物が命を支えるものになります。
そのように、キリストの肉を食べる、キリストの血を飲むとは、キリストの十字架の死を、自分のためのものと信じることです。
そのように信じることが、キリストを自分の心に取り込むことになります。
自分の外側にあったキリストを、自分の中に取り込むことになるのです。
そして、キリストの十字架のみわざを思い巡らすことによって消化し、キリストが私たちの、いわば霊の栄養となって、私たちの霊を生かすものとなります。
食べ物を食べると元気が出るように、キリストというパンを消化して吸収すると、霊が元気づけられます。
キリストというパンをよく思い巡らして、反芻して、よく消化すると、霊的な栄養もよく吸収されて、私たちの霊を強め、成長させるものとなるのでしょう。

キリストという天からのパンは、私たち人間の魂の基本的な欲求を満たす霊的栄養がすべて含まれている、魂の完全栄養食です。
それは私たちに、まったき罪の赦しをもたらします。
私たちは自分でも気づかないうちに、良心に責めを感じて、それがいつのまにか、心を重くしていると言います。
キリストの十字架の死は、その良心の重荷からの解放をもたらします。
しかしそれより大切なのは、キリストの十字架の死による罪の赦しは、生ける神との関係を回復することです。
それまでいのちの源である神に対して死んでいたのが、キリストの十字架の死による罪の赦しを受けて、神に対して生きるようになって、神とともに生きる新しいいのちが始まります。
それが永遠のいのちです。

そしてそれは、どんなときにも消えることのない希望を与えます。
希望は、生きていくために必要な心の栄養です。
永遠のいのちにあずかった私たちは、やがて栄光の肉体をもって復活し、永遠の御国で自分の二本の足で大地を踏みしめます。
そして愛するあの人、この人、懐かしい兄弟姉妹たちとともに神の御顔を仰ぎ、またイエス様といっしょのテーブルに着きます。
そこには私たちの心を痛ませる悪や罪やその結果である悲惨は、一つもありません。
そして私たちの魂が最も必要としている基本的な栄養は、神の愛です。
神の真実な愛。
それがキリストの十字架の死を自分のためと信じるときに、自分のものになるのです。

第一ヨハネ4:10、新約p.470
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。
ここに愛があるのです。


キリストを信じて心に取り込み、思い巡らすときに、これらの霊の栄養を吸収して、霊が生き、養われ、強められるのです。
思い巡らすということがないと、消化不良になり、キリストの恵みを十分に吸収することができません。
思い巡らす時間を取りましょう。

この後、聖餐式があります。
聖餐式の主催者はキリストです。
司式者は、キリストのことばを読み、配餐者はキリストの手足としてパンと杯を配ります。
招いておられるのはキリストです。
聖餐式において、キリストは私たちを聖餐のテーブルに招いて、「
わたしはあなたのために十字架にかかりました。
そのわたしの死を、自分のためのものとして受け取りなさい。
そして永遠のいのちを得なさい。

と語りかけておられます。