<今日の要点>
御子イエス・キリストの救いのみわざの尊さを改めて覚える。
<あらすじ>
前回の続き、出エジプト記前半のクライマックスです。
映画「十戒」で最も印象に残る場面です。
目の前は海、左右は高い岩に囲まれた袋小路に宿営していたイスラエルの民。
そこへ当時の最新兵器、戦車部隊とその他の軍勢が迫っていました。
袋のネズミとはこのこと。窮鼠、猫を噛むと言いますが、丸腰でついこの間まで奴隷だったイスラエルの民は、噛む気力もなく、苦しまぎれに神に向かって叫んだかと思えば、恐れに駆られて目の前のモーセに怒号を浴びせる始末。
そんな彼らにモーセは「恐れるな」と励ましました。
前回の13-14節をもう一度。
「それでモーセは民に言った。
『恐れてはいけない。
しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる【主】の救いを見なさい。
あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。
【主】があなたがたのために戦われる。
あなたがたは黙っていなければならない。』」
モーセは、これまで主が天から大きな雹を降らせたり、疫病やイナゴの大群を送ったりと、十回にわたって大いなる御力をもってエジプトを打ったことを、しっかりと覚えていたのでしょう。
人間的に戦力だけを比べたら、勝つ可能性ゼロ。
お話にならない。だが、主が私たちのために戦って下さるなら、話は別。
主は天と地とすべてのものをお造りになった方。
エジプトが最新兵器の戦車をもって大軍で向かってきても、もみ殻のように一息で吹き飛ばしてしまわれる。
主はまた今度も、天から雷鳴を響かせてエジプト軍を打たれるか、何か超自然的な圧倒的な御力をもって、エジプト軍を瞬時に滅ぼしてしまわれるに違いない…。
そう思って、モーセは主に叫んでいたのでしょう。
とはいえ、モーセが叫んでいる間にも、エジプト軍は迫ってきています。
遠くに見えていたエジプト軍が、気が付くともうすぐそこに…。
そこで主はモーセに語られました。
15節「【主】はモーセに仰せられた。
『なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。
イスラエル人に前進するように言え。…』」
待望の主のおことば。
ですが、前進せよと言っても、目の前は海。
これはいったいどういうことか…。
しかし続く主の言葉で、モーセは理解しました。
16-18節「あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真ん中のかわいた地を進み行くようにせよ。
見よ。わたしはエジプト人の心をかたくなにする。
彼らがそのあとから入って来ると、わたしはパロとその全軍勢、戦車と騎兵を通して、わたしの栄光を現そう。
パロとその戦車とその騎兵を通して、わたしが栄光を現すとき、エジプトはわたしが【主】であることを知るのだ。」
なんと目の前の海を分けて、海の真ん中に乾いた道を造り、そこを進み行くのだ、と。
これを聞いてモーセは「なるほど、そうか!」とすぐに納得して、従ったでしょう。
まったく主は時に、予想もできない展開を用意していることがあります。
信じて一歩踏み出して、従うときに、信仰を試されますが、主が用意しておられる栄光を体験する幸いを恵まれるのでしょう。
モーセに指示を与えると、主はすぐに行動に出られます。
まず、すぐそこまで迫っていたエジプト軍を足止めします。
それまでイスラエルの集団の前におられた主、また主の臨在を表す雲が後ろに回って、エジプト軍との間に立ち、真っ暗闇で彼らを覆います。
19-20節「ついでイスラエルの陣営の前を進んでいた神の使い(キリスト)は、移って、彼らのあとを進んだ。
それで、雲の柱は彼らの前から移って、彼らのうしろに立ち、エジプトの陣営とイスラエルの陣営との間に入った。
それは真っ暗な雲であったので、夜を迷い込ませ、一晩中、一方が他方に近づくことはなかった。」
こうしてエジプト軍がモタモタしている間に、モーセは主のことば通り、海の上に手を差し伸ばします。
主への従順には、主のみわざが続きます。
21-22節「そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、【主】は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。
それで水は分かれた。
そこで、イスラエル人は海の真ん中のかわいた地を、進んで行った。
水は彼らのために右と左で壁となった。」

強い東風が一晩中吹いて、水を両側に分けて、おそらく高さ数百メートルか、もしかしたら数キロ、長さは確実に数キロにも及ぶ水の壁としてそそり立たせ、イスラエルのために、これも幅数百mあるいは数キロの広い道を造った。
圧巻です。
映画で印象に残るシーンです。神の偉大な御力です。
と同時に、他方で「かわいた地を進んで行った」とあるのも、神の細やかなご配慮がうかがわれるところです。
道ができたはいいが、ズブズブしたぬかるみでは思うように歩けず、体力は消耗し、向こう側にたどり着けたかどうか。
ちなみに、「東風」とありますが、シナイ半島の東側は、灼熱のアラビア砂漠。
そこから吹いている風はシロッコ風とも呼ばれ、非常に乾燥した熱風で、数時間のうちに気温が15-20度も上がることがあるとのこと。
ために、麦の穂が焼けてききんをもたらすこともありました(創世記41:6,23)。
また大量の砂を運んできます。
それで乾いた道ができたのかもしれません。
もちろんこれがちょうどこの日、一晩中、しかもちょうど道を造るように強烈にその箇所を狙って継続的に吹き続けたのは、神のなさった奇跡だからで、後にも先にもこんな現象はありません。
神のご配慮は、こんなところにまで及んで、ぬかりはありませんでした。
さて、イスラエルが、神が備えた道を進んで行くと、しばらくして、雲の足止めが解かれたか、パロの軍勢も追いかけて、海の中に入っていきました。
23-25節「エジプト人は追いかけて来て、パロの馬も戦車も騎兵も、みな彼らのあとから海の中に入って行った。
朝の見張りのころ、【主】は火と雲の柱のうちからエジプトの陣営を見おろし、エジプトの陣営をかき乱された。
その戦車の車輪をはずして、進むのを困難にされた。
それでエジプト人は言った。
『イスラエル人の前から逃げよう。
【主】が彼らのために、エジプトと戦っておられるのだから。』」
朝の見張りのころは、今の3時から6時くらい。
エジプト軍が海の真ん中くらいまで来た頃でしょうか。
主は、パロが力とし、誇りとしていた戦車の車輪をはずしたと言います。
これは怖かったでしょう。
両側に高くそそり立っている水の壁は、いつまた元に戻るかわからない。一刻も早くそこから出たいのが本音でしょう。
それがよりによってこんなところで、車輪がはずれるとは…。
得体のしれない、目に見えないお方が、自分たちに敵対している。
そう直感したのでしょう。
彼らは、主が彼らのために戦っておられる!と言って我先にと逃げようとしました。しかし時すでに遅し。

26-28節「このとき【主】はモーセに仰せられた。
『あなたの手を海の上に差し伸べ、水がエジプト人と、その戦車、その騎兵の上に返るようにせよ。』
モーセが手を海の上に差し伸べたとき、夜明け前に、海がもとの状態に戻った。
エジプト人は水が迫って来るので逃げたが、【主】はエジプト人を海の真ん中に投げ込まれた。
水はもとに戻り、あとを追って海に入ったパロの全軍勢の戦車と騎兵をおおった。残された者はひとりもいなかった。」
イスラエルを追いかけてきたエジプト軍は、一人残らず飲み込まれ、あとには静かに寄せては返す波の音だけが残りました。
こうしてこの主の大いなる救いのみわざを体験し、目の当りにした民は、主を信じました。
29-31節。
「イスラエル人は海の真ん中のかわいた地を歩き、水は彼らのために、右と左で壁となったのである。
こうして、【主】はその日イスラエルをエジプトの手から救われた。
イスラエルは海辺に死んでいるエジプト人を見た。
イスラエルは【主】がエジプトに行われたこの大いなる御力を見たので、民は【主】を恐れ、【主】とそのしもべモーセを信じた。」
「大いなる御力」の「御力」は、原文は「手」で、「みわざ」と訳す聖書が多いようです。
この主の御力、あるいはみわざを見て、イスラエル人は主とそのしもべモーセを信じました。
実はイスラエル人たちは、以前すでに主を信じていました(4:31)。
そして今、ここでも「信じた」と記されます。
私たちの信仰生活も、最初に信じる決心をした後、ある時、何かを経験して改めて「信じた」ということが、繰り返されることがあります。
木が年輪を重ねて大木となるように、私たちも折に触れて「信じた」という経験を重ねて、揺るがない信仰へと成長しますように、と願わされます。
「十字架にイエス君 われを贖い給う」新聖歌 108番
イスラエルの民はこのとき、「大いなる御力を見たので」主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じたとありました。
確かに、この時のイスラエルに自分を身を置いて想像してみると、もう終わりだ!というところに、神が奇跡的に、まったくありえない救いの道を設けて下さったおかげで、命拾いをし、追いかけて来たエジプト軍は滅びたのですから、心底、主の御力、主のして下さったことを心から喜び、実感したことでしょう。
主の救いのみわざは、ときに奇想天外です。
海を両側に分けて水を壁としてそそり立たせ、海の真ん中に道を造るなど、誰が考え付くでしょう。
また誰がこんなことができるでしょう。
まことに主は大いなるお方、偉大な御力を持ったお方です。
しかし、そこでハッと思うのです。
主は私たちのために、もっともっとはるかに大いなることをされたのではなかったか、と。
確かに、この絶体絶命のピンチから救い出されたイスラエルの民にとって、それは言葉に尽くすことのできない、偉大な救いのみわざでした。
しかし、考えてみれば、天地を造られた神である主にとって、たとえ相手がどれほど強い敵であっても、最新兵器を持つ最強の軍隊であっても、それを全能の御力をもってねじ伏せることは、まったくわけもないことでしょう。

神はかすり傷一つ負うことなく、滅ぼすことがお出来になるでしょう。
しかし私たちを罪と、その結果である死と、永遠の滅びから救い出すためには、力にものを言わせるのではなく、神の御子である主ご自身が血を流さなければならなかったのです。
私たちの罪を身代わりに背負って、十字架上で苦しみを受け、あざけられ、ののしられて、恥を受け、犠牲にならなければならなかったのです。
そんなことを、神の御子が引き受けて下さったのです。
私たちのために。
それによって、信じる私たちの罪は完全に赦され、神に受け入れられたのです。
神に受け入れられたということは、永遠のいのちにあずかって、永遠の祝福の御国を受け継がせて頂くということです。
約束の天の御国を与えられるということです。
もし、御子キリストの十字架のみわざがなければ、私たちは永遠の刑罰、滅びに行く運命だったのです。
聖書によると、それが、神に対する私たちの罪への報いです。
そこから私たちを救い出すために、このときエジプトの軍勢を海に投げ込まれた全能の神の御子ご自身が、自ら進んで、十字架にかけられて、犠牲となられて、私たちをお救い下さったのです。
全宇宙の造り主である方が、このような方法でご自身民を救われるとは、誰が考え付くでしょうか。
そのおかげで、約束の御国へと通じる道が開かれたのでした。
これは、この時、海の真ん中に道を造ったよりも、はるかに偉大なみわざによって開かれた道でした。
そして、この時、パロの軍勢がイスラエルを再び、奴隷にしようと追いかけてきたように、過去の苦い罪の記憶、悔やんでも悔やみきれない失敗が、ある時ふと、心に浮かんで、責めや恥に、いたたまれなくなることがあります。
そんなとき、私が受けるべき責めも恥もすべて、キリストが代わりに受けて下さったのだ、と福音に立ち返るときに、それら私たちを苦しめるものはすべて、忘却の海へと投げ込まれて、跡形もなくなるのです。
主は、それらを葬り去って、二度とその姿を見ることはないと言われます。
ミカ書7:19、旧約p1527。
もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。
過去の罪の責め、恥が、追いかけて来て、もうだめだ、と思ったとき、そこにキリストが間に入って下さって、敵の追撃を断ち切って下さる。
それに何度、救われたことか…。
主は、パロとその誇りとする戦車と軍勢を通して栄光を現す、と繰り返されました(4,17,18節)。
主に対して逆らう、また神の愛する民を滅ぼそうとするサタンのあらゆる力は、主によって打ち砕かれるのです。
詩篇 20:7、旧約p.923
ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。
しかし、私たちは私たちの神、【主】の御名を誇ろう。
私たちは、十字架にかかって下さった主のみを誇りましょう。
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