<今日の要点>
私たちの心に働いて下さる主とともに、主に従う道を歩む。
<あらすじ>
イスラエルを奴隷として虐げるエジプトに対する、主なる神のさばきが続きます。
その第六弾。
三つのわざわいを一サイクルとして、第二サイクルの三番目になります。
各サイクルの三番目は、事前にパロに予告せず、イキナリわざわいを下すという形式が取られます。
ここでもパロに語る言葉はなく、最初からモーセとアロンに、このようにせよ、と命じました。
8-9節「【主】はモーセとアロンに仰せられた。
『あなたがたは、かまどのすすを両手いっぱいに取れ。
モーセはパロの前で、それを天に向けてまき散らせ。
それがエジプト全土にわたって、細かいほこりとなると、エジプト全土の人と獣につき、うみの出る腫物となる。」
腫物と訳されたヘブル語の語源は、熱い、真っ赤になる、燃え上がる、を意味するそうです。
ちょっとしたニキビ、吹き出物とはモノが違うのでしょうか。
11節を見ると、エジプトの呪法師たちが、パロに呼び出されても立つことができなかったというほどですから、そうとうな痛み、かゆみ、あるいは発熱もでしょうか、ダメージを与えるものでしょう。
今度は初めて、人の体に直接、ダメージとなるわざわいとなりました。
四六時中、昼も夜も痛み、かゆみにさいなまれる。
義人ヨブもサタンの悪だくみによって、全身腫物で覆われて、土器のかけらで自分の体を掻いていました(ヨブ2:7-8、旧約p851など)。
ところで、今回は「すす」が用いられました。
前の家畜の疫病は、何も小道具は使わずに、神が直接、疫病を下しましたが。
「パロの前で」やってみせることに意味があるのかもしれません。
パロは、打ち続くわざわいを、たまたま起こった自然現象だ、神のわざなどではない、と何としても神を認めようとしなかったのでしょう。
それで前回の家畜の疫病のとき、神はあらかじめ時を指定して、「明日このことを行う」と告げました。
今回も、これは神とは関係ない、たまたま全国的に腫物が流行っただけだ、と言い張りたいパロの口をふさぐために、パロの目の前で、まちがいなくモーセの手からまかれたすすが腫物になったことを見せたのかもしれません。
ともかく、わずか両手いっぱいのすすが、エジプト全土に広がるというのは、普通ではありえないことですが、モーセとアロンは主の言葉に従います。
10節「それで彼らはかまどのすすを取ってパロの前に立ち、モーセはそれを天に向けてまき散らした。
すると、それは人と獣につき、うみの出る腫物となった。」
あたかも12使徒たちが、イエス様の言葉に従って、5つのパンと2匹の魚を配ったら、男だけで五千人もの群衆を満腹にしたように、わずかなすすが超自然的に増えて、エジプト全土に広がったのでしょう。
主の言葉に従うときに、思ってもいない展開になり、主の栄光が現れるということがあるのでしょう。
往生際の悪いパロは、またもや呪法師たちを呼び寄せて、なんとかしようと思ったようです。
ところが…11節
「呪法師たちは、腫物のためにモーセの前に立つことができなかった。
腫物が呪法師たちとすべてのエジプト人にできたからである。」
当時のエジプトでは、伝染病を司るセクメトなる女神が信奉されていました。
頭がライオンで体は人間、その頭の上に赤い円盤を載せていて、灼熱の太陽を表すとされますが、もしかしたら腫物を表したのかもしれません。
エジプトの風土病だったのでしょうか。
これが伝染病を司り、人間を殺す病の風を吐く女神とされていました。
それで、このセクメトに仕える神官たちは、伝染病を鎮める医師・呪法師とされました。
そこで呪法師の出番となったわけですが、ところが彼ら自身があのすすによって腫物ができ、モーセの前に立つどころの話ではなくなっていたのです。
ここでもエジプトの偶像がさばかれ、その無力、欺きが明らかにされました。
使徒の働きでも、パウロとバルナバの福音宣教の働きを妨げる魔術師エルマが、目が見えなくされた記事があります(使徒13:8-12、新約p253)。
神は、ご自分の働きを阻止しようとする者たちに対して、さばきを行われることがあります。
自戒しておきましょう。
なお、ここにはイスラエル人を区別したという言葉はありませんが、11節に「腫物が呪法師たちとすべてのエジプト人にできた」とありますので、イスラエル人はここでも守られたと思われます。
さて、ある意味、ここまで至れり尽くせりで、パロが主のみわざを認めるように、わかりやすく示されました。
が、それでもパロは、モーセの言うことを聞き入れませんでした。
ただし、ここではこれまでとは違う表現で記されています。
12節「しかし、【主】はパロの心をかたくなにされ、彼はふたりの言うことを聞き入れなかった。
【主】がモーセに言われたとおりである。」
前回の7節では「パロの心は強情で、民を行かせなかった。」
とありました(それ以前も類似した表現)が、ここでは、主がパロの心をかたくなにされたとあります。
前にも触れましたが、両面あるということです。
神がなさったということ、パロ自身が自分でそのようにしたということ、それゆえパロ自身に責任が問われるということ。
人間の頭では理解できませんが、「どちらか」でなく、「どちらも」です。
この世の支配者たちの心も、主の御手の中にあります。
箴言21:1(旧約p1084)
王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。
みこころのままに向きを変えられる。
そして最後のところに「【主】がモーセに言われたとおりである。」
とあります。
パロがかたくなに拒み続けることも想定外のことではなく、主があらかじめモーセに語っていたことでした。
ですから、モーセとしても、ある意味、想定内のこととして臨むことができたでしょう
私たちの手の届かないところ、力の及ばないところも、神の御手が及ばないところは、天にも地にもありません。
それどころか、神は前もってすべての出来事をご存じで、定めてさえおられます。
私たちを、御子を与えるほどに愛しておられる方の御手の中に、すべてが収められていると知ることは、私たちの支えとなるのではないでしょうか。
「心に主の声 聴きつつ歩む 主の歩まれた この道を」新聖歌352番
主がパロの心をかたくなにされたとありました。
実は、私たちが神を信じ、従い、愛するようになるのも、主が私たちの心をそのようにされるからです。
パロの場合の裏返しです。
一方では、私たちは自分で聖書の話を聞き、福音を学び、信じる決心をします。
同時に、それは主が私たちの心をそのようにして下さったということでもあります。両面あるのです。

神が私たちの心に働いて下さるまでは、私たちは神に対しては死んだ状態だと、聖書は教えています。
エペソ書2:1、新約p374
あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、…
死んだ人に向かって、話しかけても応答することはできません。
そのように、神に対して死んでいた状態では、福音を語っても応答できません。
まず神が御霊によって、新しく生まれさせて下さって、初めて神に対して生きた者となり、応答できるようになるのです。
それは完全に神のみわざです。
と同時に、私たちの方ではー新しく生まれたとは気づかずにー自分で福音に耳を傾け、理解し、ある程度納得して、自分の意志で信じる決心をします。
それらも御霊が働いているおかげで、そのような決心に至るのですが、同時に私たち自身の意志でもあります。両面です。
ウェストミンスター信仰告白 第十章「有効召命について」の一節。
「有効召命」とは、神が私たちを、ちゃんと救いに至るように、罪と死の状態からお召しになる、呼び出されるということです。
どのようにお召しになるのか、というと…。
神が命に予定された全ての人間を、そして彼らだけを、神は自ら定めて良しとされる時に、神のみことばと御霊とで、生まれながらに置かれていた罪と死の状態からイエス・キリストによる恩恵と救いへと有効に召命するのを良しとされる。
それは神のことを理解するために、彼らの心を霊的にまた救拯的に(=救いに至るように)照らすことにより、また彼らの石の心(=パロのようなかたくなな心)を取り去って肉の心(やわらかい、素直な心)を与えることにより、彼らの意志を新たにし、その全能の力によって、善に向かって決断させることにより、また彼らをイエス・キリストへと有効に引き寄せることによってである。
しかも、彼らは神の恵みによって自発的にされて最も自由に来るのである。
「理解する」自分の頭で聞いたことを考え、思いめぐらし、理解するのです。
「意志を新たにし」意志がなくなるのではありません。
神に対して生きる者として、自分の意志で神を信じ、信頼し、神の愛に応え、従うことを選び取るのです。
だからこそ、喜びがあるのです。
自分の意思のないところには、喜びもないでしょう。
「その全能の力によって、善に向かって決断させる」悪や闇の世界に背を向ける決断、神の御心である善に向かう決断を私たちがするのは、神の全能の御力によるみわざでありつつ、同時に自分自身です。
そして「イエス・キリストへと有効に引き寄せる」ここが一番肝心なことです。
どれほど善行を積んでも、キリストに結びつかなければ、救いはありません。
キリストを信じ、救い主として受け入れること。
心がキリストと固く結びつくこと。
これも神のみわざでありながら、同時に私たちがキリストを信じ、結びつくことを願うのです。
これは、神のみわざでありつつ、私たちが「神の恵みによって自発的にされて最も自由に来る」ことなのです。
信じるときだけでなく、信じた後の歩みも、神が私たちの心に働きかけ、願いを起こさせ、よいわざを行わせて下さいます。
いわば、神と人との協働作業です。
注意したいのは、神がして下さることだから、私たちは何もしなくいい、と考えるべきではないということです。
ウェストミンスター信仰告白 十六章「よきわざについて」三節より
…彼ら(信仰者)がよきわざ(聖書が命じるよいわざ)をすることができるためには、…彼らのうちに働いて、みこころのままに願いを起こさせ実現に至らせる御霊の実際の作用が必要である。
しかし、御霊の特別な活動がなければ、何の義務も果たす責任がないかのように、ここで怠惰になってしまってはならない。
むしろ彼らは、自分の中にある神の恵みをかき立てるように勤勉でなければならない。

この両面のバランスを心に留めておきたいものです。
もちろん、しないのではなく、できないときもあります。
ただただ神の恵みの中で癒されることが必要な場合もあります。
それは怠惰ではありません。
ここで戒めているのは怠惰です。
自分の中にある神の恵みをかきたてるとは、具体的には聖書を読む、祈りのときを持つ、礼拝を捧げる、賛美する、賛美のCDなどを聴く、諸集会に参加する、良質な信仰書を読む等でしょう。
私たちは、神を愛するように命じられています。
それがもっとも大切な戒めです。
神が他の何よりも、私たちに求めておられることです。
神はそうされるにふさわしいお方です。
しかし、神を愛します、と決心しても、なかなかそうはならない。
神がどれほど自分を愛して下さったかを思いめぐらしても、その時はそういう気になっても、ニワトリではありませんが、三歩歩いたら忘れてしまう。
それでも、それを繰り返すしかないのですが。
そうはわかっていますが、つくづく自分の心はかたくなで、石のように硬くて、重い。
そんな風に感じたことはないでしょうか。
そんな時、ガッカリします。
しかし、神は私の石のような心をもやわらかくすることがお出来になる、と気が付くとホッとします。
神にはお出来になる。自分の岩盤のような心をも、変えることがお出来になる。
それが信じる者の希望であり、よりどころです。
ですので、自分で自分をあきらめず、私たちの内に働いて下さる主とともに、主の御声を聴きつつ、主を愛する道、主に従う道、主の似姿に造り変えられる道を歩ませて頂きたいと思います。
ピリピ2:13-16、新約384
2:13 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ(=志すのは自分です。自分が願うのです)、事を行わせて下さるのです。
2:14 すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。
2:15 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、
2:16 いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。…
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