礼拝説教要旨(2022.02.20)
一頭も死ななかった
(出エジプト記9:1-7) 横田俊樹師 
<今日の要点>
命を喜び、尊ぶ神は、キリストにある究極の命=永遠の命を、信じる者に与えられる。

<あらすじ> 
エジプトに下る第五のわざわい。
イスラエルの民を虐げ、「生まれた男の赤ん坊は、みなナイルに投げ込め」とまで命令を下したエジプトに対するさばきが続きます。
1節「【主】はモーセに仰せられた。
『パロのところに行って、彼に言え。
ヘブル人の神、【主】はこう仰せられます。
「わたしの民を行かせて、彼らをわたしに仕えさせよ。…」

またもや、さばきの前に悔い改めのチャンスを与えます。
苦しくなると、イスラエルの民を行かせるから、自分のために祈れ、と言いながら、喉元過ぎたらで、態度をひるがえし、行かせないパロ。
それも一度ならず二度までも。
それでもなお主は、悔い改めの機会を与えます。
わたしの民を解放せよ、これに従えばよし、しかし、もし従わないなら、、、と。

2?3節「もしあなたが、行かせることを拒み、なおも彼らをとどめておくなら、見よ、【主】の手は、野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に下り、非常に激しい疫病が起こる。。

今度は、エジプト人の家畜を、非常に激しい疫病が襲うというものでした。
草食哺乳類が挙げられていることから、炭疽病ではないか、などとも言われますが、確かなところはわかりません。
いづれにせよ、それは野にいるエジプト中の家畜が死に絶えるというものでした。
家畜のではありますが、命が失われる最初のわざわいです。
これまでは、ナイル川の水が血に変わったり、カエルやブヨ、アブが大量発生したりと、とても困り、不快ではありましたが、それだけでした。
しかし今回は違いました。
さばきの厳しさの度合いが一段、進みました。

 しかし、前回に続いて今回も、イスラエル人の居住区は別でした。
4節「しかし【主】は、イスラエルの家畜とエジプトの家畜とを区別する。
それでイスラエル人の家畜は一頭も死なない。。』」

最初の三つのわざわい、第一サイクルでは、全エジプトにさばきをくだす方として、ご自身を示されましたが、四つ目、第二サイクルに入って以降は、エジプト人とイスラエル人を区別することによって、またさばきの中でご自身の民を救うことによって、救い主としてご自身を示されます。
「イスラエル人の家畜は一頭も死なない。。
と約束される確かな守りが、神の民には与えられます。
詩篇71:7、旧約p974
私は多くの人にとっては奇蹟と思われました。
あなたが、私の力強い避け所だからです。

「デイリーブレッド」というデボーションの配信にあったお話。
バレーでクルクル何回転もするのをピルエットというそうですが、バランスを保つコツは、ある一点を決めて、一回転するたびに、そこに視点を戻すことだそうです。
そうすれば、ピルエットを優雅に決めることができるそうです。
避け所である神は、見つめるべき究極の一点です。
日々の生活の中で神を見つめ、みもとで祈り、聖書の御言葉から神の救いの約束を確信できますように。

さて、主はさらに、これが偶然とかただの自然現象ではないことを明確にするために、時を定めて行われます。
5節「また、【主】は時を定めて、仰せられた。
『あす、【主】はこの国でこのことを行う。』」

今日でなく明日としたのは、パロに猶予を与えたのでしょうか。
またこの言葉を聞いて主を恐れたエジプト人が、あらかじめ自分の家畜を小屋に避難させる余裕を与えたのでしょうか。
主は、さばきのなかにも、あわれみを残されます。
苦難一色のように見える中にも、残されているあわれみに気付くものでありたいものです。

パロは、こう事前に告げられても、またまた意地を張って、首を縦には振らなかったのでしょう。
それで主は、あらかじめ告げた通りに行われました。

6節「【主】は翌日このことをされたので、エジプトの家畜はことごとく死に、イスラエル人の家畜は一頭も死ななかった。。

一日で、エジプトの家畜はことごとく死に絶えたというのです。
一日で、です。
見渡す限り、家畜が倒れて動かなくなっている…。
ところが、不思議なことに、イスラエル人の家畜は、一頭も死ななかった。
一頭も、です。
昨日までと同じように、草をはみ、羊飼いの後をついてくる。
生きている。
まるで見えないバリヤで覆われているかのように、イスラエル居住区には疫病が入り込まなかったのです。
さばきの中の救い。
神はさばきの中にも、ご自身の民のために救いを用意しておられる。
前回見たように、これはイスラエル人に罪がなかったのではなく、主が彼らのために、罪の赦しを用意していたということです。
キリストのゆえに、イスラエル人は罪赦されて神の民とされ、救われたのです。

さて、パロです。
モーセが語った通りに、野にある家畜がことごとく疫病に倒れたのを見て、パロはすぐに、イスラエル人の所がどうなっているのか、確かめました。

7節「パロは使いをやった。
すると、イスラエル人の家畜は一頭も死んでいなかった。
それでも、パロの心は強情で、民を行かせなかった。。

当時、家畜が疫病にかかるのは珍しいことではなかったようですから、これでイスラエル人の家畜も倒れていたら、これは神のわざでも何でもない、とモーセに言ってやりたかったのでしょうか。
しかし、これが神のわざであることは、いやでもパロも認めざるを得ません。
神の言葉通りに、野にいる家畜のみに起こり、エジプト人の家畜とイスラエル人の家畜と明確に区別し、また神が予告した時に発生したのですから。
野原一面に家畜が倒れている光景を、パロは、どんな気持ちで眺めたのか。
心の奥底では、こうなるとわかっていたと思います。
これまですでに、何度も主の言葉通りになっているのを経験していますから。

しかし、パロは、心をかたくなにしました。
やっぱりこうなったか。
俺が間違っていた。
主の言葉に従おう、とはならなかった。
目の前に広がる悲惨な光景を前に、自分の責任を感じることもなく、民に対して申し訳なく思うこともなかった。
意地というのか、プライドというのか。
そういうのが良い方向に働く場合もあるでしょうが、主に対しては素直なのが一番です。
わかっていながら、主に対して高ぶり、自分から滅びに向かって行ったパロを反面教師として、戒めとさせて頂きたいと思います。

第一コリント10:11、新約p331。

これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。

「主は命を与えませり」新聖歌 102番
今回は、人間ではなく家畜のですが、はじめて命が失われました。
言うまでもなく、命は理屈抜きで尊く、いとおしいものです。

神は命を与える方です。
そして命を支え、育む方です。
神は命を慈しみ、喜ばれるお方です。
神は、命を尊いものとして造られました。
神が造られたこの世界は、命が保たれ、養われるように、いかに精妙に仕組みが造られていることでしょう。

当たり前のように酸素を吸い、二酸化炭素を吐き出していますが、それは植物が地表を覆って、二酸化炭素を取り込んで酸素を吐き出す仕組みを神が用意されたからです。
何千年と続く、酸素と二酸化炭素の壮大な循環システムです。
水もそうです。
天から雨が降って、海に注ぎ、蒸発して、雲になり、また降って、という無限に続く循環システム。
神に感謝したことがあるでしょうか?食べ物を摂取して、必要なエネルギーや体を造る材料にしたり、体の調子を整えるというのも、当たり前のようにしていますが、考え抜かれた仕組みがそこにはあります。

口から入れた食べ物を、まず歯で噛み砕き、すりつぶして、唾液と混ぜ合わせ、胃に送り込み、そこで胃酸を混ぜ合わせ、胃袋の中で揉んでドロドロにして、腸で栄養素を吸収できるようにします。
そのとき、塩酸を主成分とする胃酸は酸が強すぎて、そのままだと胃袋も溶かされてしまいます。
が、そうならないように、ちゃんと胃酸とともに胃袋を守るための粘液も分泌して、胃酸が直接胃袋に触れないように粘膜を作っていると言います。
こうして、胃袋自体は消化しないように守りながら、食べ物だけ、消化するように考えて造られている。

小学生の頃、初めてこのことを知って、私は感動しました。
また傷が治る仕組みも、考えてみたらすごいことです。
物は傷をつけたら、放っておいて直るということはありません。
車の傷が、放っておいたらいつの間にか直ってた、なんてうまい話は、残念ながらありません。
こういうことは、挙げればきりがありません。
普段、当たり前のように思っていますが、人も動物も昆虫も、命を維持し、育むために、自然の構造から体の構造から考え抜かれています。
このすべてを設計し、造られたのは、神です。
神がいかにいのちを慈しみ、育み、喜び、尊んでおられるか、うかがわれるでしょう。

紀元前8世紀前半の頃、残虐で知られていたニネベに対して、預言者ヨナは「あと40日したら、ニネベは滅ぼされる」と宣告しました。
しかし、ニネベの人たちが悔い改めたので、神はさばきを思い直されました。
ところが預言者ヨナは、あんな輩を滅ぼさないなんて、ありえないと憤慨しました。
それに対して神は語られました。

ヨナ書4:11、旧約p1517
…わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。
そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。。

家畜も、神は慈しんでおられます。
神は命を喜び、命を与えることを喜びとし、維持するための仕組みを造り、尊んでおられます。
その神が、エジプトの家畜の命を取られたということは、神ご自身にとってもつらいことなのです。
それでも、エジプトに対するさばきは、行われなければなりませんでした。

さばきの厳正さというものを教えられます。
さばくべき立場の人が、つらいから、さばかないと逃げるのは、無責任。
それは被害者を見捨てることにほかなりません。
正義と公正と真実は、常に守られなければならない大切な原則です。

神は、家畜の命も慈しんでいますが、私たち人間の命はそれよりはるかに尊いものとして造られました。
その神から与えられた尊い命は、ただ生きる、生き延びることが目的なのではなく、何のために生きるのか、神から与えられたいのちを、何のために用いて、神にお返しするのか、が大切です。
神が与えたいのちを、私はこのように使わせて頂きましたと、一人ひとり、神の御前で報告するときが定められています。

命は、これを与えて下さった神に感謝して、神を愛し、隣人を愛するように、神に仕え、隣人に仕えるように、用いる。
それが、神の栄光を表し、そして実は、神を喜ぶ道でもあります。

地上の命は、人の命も家畜の命も限りがあります。
神ははじめからそのように造られたのではなく、人が神に罪を犯してから死が入ってきたと聖書は伝えます。
最初の人アダムが堕落して以降の命は、不完全な、限りあるものになってしまったのです。
しかし神は、救いの御手を差し伸べて下さいました。
御子イエス・キリストが、信じるすべての者の罪を身代わりに背負って、さばきを受けて下さったということです。
それがあの十字架です。
キリストがかかって下さった十字架によって、信じる者の罪はすべて取り去られました。
そして、まったく新しい命を与えられました。
それは、単にいつまでも続く永遠のいのちという、時間の長さの問題ではなく、質が違う新しい命です。
神に対して生きる命、神と共に生きる命、神の愛を知って永遠に喜ぶ命です。
キリストを信じて、心に迎え入れるなら、キリストがその人の心に来て下さいます。
その人はキリストのいのちを、すなわち永遠のいのちを自分のうちに持つのです。

第一ヨハネ5:11-12、新約p471
5:11 …神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。

5:12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。

信じるなら、そのキリストの命を自分のうちに持つのです。
そのキリストの命を頂いている者を、大いなる羊飼いは、一人も失われることのないように、世の終わりには、ひとりひとり、栄光のからだをもってよみがえらせます。

ヨハネ6:39-40、新約p186
6:39 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。

6:40 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。
わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。。