礼拝説教要旨(2022.02.13)
新しく生まれる恵み
(ヨハネ 3:1〜21) 柳吉弥太師 
 昨年の10月、エペソ人への手紙2章8〜9節の御言葉を心に留めた。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。
それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行いによるのではありません。
だれも誇ることのないためです。」

そして12月に、ローマ人への手紙3章9〜26節を通して、「キリストを信じて義とされる救いの恵み」を再確認した。
私たちの信仰の本質がそこにあることを覚えた。
今回も、私たちの信仰の理解を一層確かなものとされるよう願って、引き続き、同じ課題に触れたい。
私たちがイエス・キリストの福音に生きているか、知識として理解するだけでなく、「恵みによる救いー神からの賜物ー」を日々喜び、感謝して生きているか、自己吟味することが導かれるよう願っている。

1、ローマ3:10〜12で、「『義人はいない。
ひとりもいない。
悟りのある人はいない。
神を求める人はいない。
すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。
善を行う人はいない。
ひとりもいない。』」

と聖書は明言する。(※パウロによる詩篇の引用)これが最初の人アダムにおいて、神に背いた人間の姿である。
神に背いて罪に堕ちた人間は、自分からは神に立ち返ることはできない。
神の前に義と認められる道を失った者である。
そのような存在である人間のため、神が備えて下さった救いの道、それが「キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められる」道、神の御子、キリストの十字架の身代わりの死である。
私たちは、十字架で身代わりの死を遂げて下さったキリストを信じて義とされ、救いの恵みに与る。

これこそが「恵みによる救い」であって、「神からの賜物」である。
この救いが、どれだけ尊いものか、どれほど幸いなものなのか、それを理解するのに、私たち人間は、はなはだ鈍い。
勘違いしているのかもしれない。
その勘違いを正すために、主イエスはニコデモに話された。
ヨハネ3章1節以下に記されていることである。

「イエスは答えて言われた。
『まことに、まことに、あなたに告げます。
人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』・・・『まことに、まことに、あなたに告げます。
人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。
肉によって生まれた者は肉です。
御霊によって生まれた者は霊です。
・・・あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。・・・』」(3〜8節)

2、この御言葉は、生まれながら罪と滅びの中に死んでいた者が、聖霊によって新たないのちに生きる者とされる、救いの一面である新生の恵みを教えてくれる。
聖霊によって新しいいのちを与えられることがないなら、誰一人として神の国に入ることはできない。
罪がもたらした現実、それはかくも厳粛で、そこに救いの道は全くない、と言われることである。
神学的な用語では、「全的堕落」と言われる。

それは、罪に堕ちた人間は、なお神のかたちを残しているので、堕落し切って腐敗の塊になったわけではないものの、神が求めておられる善を、自ら選び取る能力を失っている状態を指す。
自分から神を呼ぶことはなく、聖霊によって新しいいのちに生まれ変わった時、初めて、神を呼ぶことが可能となる。
それは神が成さる不思議であって、人はただ神をほめたたえ、神に栄光を帰すことになる。
「全的堕落」は「全的無能力」とも言い換えることができる。
人は生まれながらのままでは、神を求めることはしないばかりか、神を求めることはできず、神が求めておられる善を願わず、行えず、理解することもない。
けれども、神によって、新しいいのちに生きる者とされる時、初めて、私たちはキリストのもとへと近づくことができるのである。

3、私自身の信仰の始まりを思い返すと、挫折から始まったと以前話したことがある。
ヨハネ3章1節から暗唱聖句をして、16節まで覚えた人にヨハネ伝分冊をあげますと言われ、毎週もらえず家に帰った記憶がある。
「ここにパリサイ人にて名をニコデモという人あり、ユダヤ人のつかさなり。
夜イエスのもとに来たりて言う・・・」どうしても最後まで覚えられず、最終日におまけしてもらい、16節を暗唱して分冊をもらった。

挫折の事実は心の傷とはならず、御子を信じる者に与えられる「永遠のいのち」をいただいて、今日まで歩ませていただいている・・・と、ただただ、感謝に溢れるばかりである。
これは、自分が信じたことに根拠があるのではなく、神ご自身が、聖霊による新生の恵みを与えて下さり、神が責任を取って下さっていることの故と、心底から思う。
というのは、これまでに何度か、教会を離れても不思議でない、そんな時があった。
大阪から東京への引っ越し、高校進学の時、所沢での牧師の経験においても等々、主なる神の守りなしには、到底乗り越えることはできなかったと、そう思い返すことがある。

<結び> 18歳の時に洗礼に導かれたが、その頃、教えられたことの中で、山上の説教を今も大切に思っている。
主イエスの教えは、単なる道徳的な良い教えなのではなく、生まれ変わった弟子たち、天国市民となった人々、クリスチャンだから行えること、守れること、聖霊の力と助けによって、そのように生きるように求められている教えと教えられた。
生まれながらの人にはできないことであって、生まれ変わった人にはできることを、主イエスは語っておられると。
とても無理と思える教えがあり、それは理想なのでは・・・と、なお戸惑うことがある。
けれども、主は私たちに、道徳的に正しく生きるよう求めておられるのではなく、神の前に出て、心を見ておられる神がおられると知って、謙虚に、また誠実に生きることを望んでおられるというのである。
そうであるので、生かされる限り、慎ましく、主に在る交わりを喜んで歩ませていただきたいと、心から願わされる。
私たちが救われたのは、
恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。
それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です
」と、心から神をほめたたえる信仰が、確かに導かれるなら、何と幸いなことだろうか!

「新聖歌」206番(飼い主わが主よ)