礼拝説教要旨(2022.03.06)
主のことばを恐れた者は
(出エジプト記9:13-35) 横田俊樹師 
<今日の要点>
さばきのときが来る前に救われなさい、と呼びかけている愛の主のことばに応答する。

<あらすじ> 
 イソップ物語に牛とカエルというお話があります。
カエルが大きな牛と張り合おうとして、めいっぱいお腹を膨らませて、ついにお腹がパーン!と破裂…。そもそも張り合うのが間違いでした。


主に対してまるで対等ででもあるかのように意地を張り続けるパロも、これと同じでした。パロに対するさばき。その第七弾。
いよいよ最後の第三サイクルに入ります。
ここは十のしるしの中で最も長く、詳細に記されています。
各サイクルの一番目は、朝、パロの所に行って告げよという形式。
そして例によって、「わたしの民を行かせ、彼らをわたしに仕えさせよ。
と悔い改めのチャンスを与えます(13節)。
ここまではいつも通り。
その後で今回は、やや長めの前置きが述べられます。
内容は、すごんでみせる、というと語弊がありますが、パロに対してご自身の主権、絶対主権を宣言されるのです。

今度は、わたしは、あなたとあなたの家臣とあなたの民とに、わたしのすべての災害を送る。…」(14節)

これまでもパロは、痛い目に会ってきましたが、今度はすべての災害を送ると言われて、どう感じたか。
もちろん、これは文字通りの全部という意味ではなく、強調の表現でしょう。
そしてそれは「わたしのような者は地のどこにもいないことを、あなたに知らせるためである。」
と続けます。
かつて「主とは何者だ。このエジプトの大王たるこのパロ様が、その言うことを聞かなければならないとは。」
と大口をたたいていたパロに、わたしはこういう者だと思い知らせるのです。
主に対して大口をたたくものではありません。
さらに、畳みかけるように言われます。

わたしが今、手を伸ばして、あなたとあなたの民を疫病で打つなら、あなたは地から消し去られる…(15節)。

その気になれば、すぐにでもパロを含めてエジプト人すべてを消し去ることもできる、と。しかし、そうはしない。
パロよ、わたしはあなたを立てておくと仰います。
パロの方は、それこそ牛と張り合うカエルよろしく、めいっぱいがんばって張り合っているつもりでも、それは神の手の平の上で背伸びしているに過ぎない。
神はパロを倒せないのでなく、ご自身の力をパロに示すために、あえて立てておくということなのです。
凄さも凄しと言いますか、創造主なるお方の絶対主権というものを思わされます。
また、ご自身の御名を全地に告げ知らせるため、ともあります(16節)。
誇り高きエジプト人は、自分たちの不名誉になるようなことは、隠しておきたいので、出エジプトの出来事を記録に残しませんでした。

しかし、主がなさったみわざは、回数を重ね、厳しさが増すほど、隠しきれるものではなくなり、それは周辺諸国に伝えられ、そのおかげで後にカナン人の女ラハブが、イスラエルの主の偉大さを知って信仰を持つに至り、家族ともども救われました。
ご自身の御名を全地に告げ知らせるためとは、そのように異邦人からも救われる魂が起こされるためということもありました。

さて、以上の前置きを告げてから、今回下すわざわいをパロに告げます。
わたしがこう言っても、あなたはまだわたしの民に対して高ぶることをやめず、彼らを行かせようとしない。
だから今度は、明日の今ごろ(とまた時を指定して)、エジプトで建国の日以来、今までになかったきわめて激しい雹を降らせると(18節)。
今までは地上だけで起こったことでしたが、今度は天からの災害です。

エジプトは降雨が少なく、普段はカイロ付近ではほとんど降らないようです。
それが、激しい雹。どれくらいのものなのか。
ちなみに、記録が残っている中で世界最大の雹は、1917年6月29日に埼玉県の現熊谷市に降った雹で、直径約30センチ、重さ約3.4kgとのこと。

ところで今回は、エジプト人にも、野にあるすべての所有物を避難させよ、と告げられました(19節)。
当たったら人も獣もみな、死んでしまうような激しい雹だから、すぐに避難させなさいと。
ちなみに、疫病のときは「野にいる家畜」が全滅したので、そのとき小屋にいた家畜は生き残っていたのでしょう。
これに対して、エジプト人の間に二通りの反応がありました。

20-21節「パロの家臣のうちで【主】のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に避難させた。
しかし、【主】のことばを心に留めなかった者は、しもべたちや家畜をそのまま野に残した。」

雹を降らせる日時を予告したのは、主の言葉を恐れる者のしもべ、家畜を避難させる猶予を与えるためでもあったのでしょう。
神は御怒りの中でも、主を恐れる者をお忘れにはなりません。
彼らは翌日、外は激しい雹が降る中、「避難させておいてよかった」と心底、思ったでしょう。
イスラエル人にとっては、敵であるはずのエジプト人にも、前もって避難を呼び掛けてくれたイスラエルの神の憐れみ深さに、心からの感謝を捧げる者もいたでしょう。
もしかしたら、このことがきっかけで、エジプト人の中からも主を信じる者が起こされたのかもしれません。

また彼らは、このあともエジプトに下るわざわいから逃れるために、イスラエル人居住区に移り住んだかもしれません。
のちにエジプトを出たイスラエル人の大集団の中には、エジプト人も混じっていました
(12:38、レビ24:10、旧約p215)。
エジプトを一気に滅ぼさなかったのは、こうして聞く耳を持つ人を幾人かでも救うためでもあったのでしょう。

しかしながら、せっかく神が助けの手を差し伸べておられるのに、心に留めなかった人々もいました。
これまで何度も主のみわざを見て、体験していたのに、です。
雹ぐらいなんだ、と。
よっぽどひどいのが降ってきたら避難させればいい、くらいに思ったのでしょうか。
主は予告通り、行われました。

23-26節「モーセが杖を天に向けて差し伸ばすと、【主】は雷と雹を送り、火が地に向かって走った。
【主】はエジプトの国に雹を降らせた。
雹が降り、雹のただ中を火がひらめき渡った。
建国以来エジプトの国中どこにもそのようなことのなかった、きわめて激しいものであった。
雹はエジプト全土にわたって、人をはじめ獣に至るまで、野にいるすべてのものを打ち、また野の草をみな打った。
野の木もことごとく打ち砕いた。
ただ、イスラエル人が住むゴシェンの地には、雹は降らなかった。」


人も獣も野の草も木も…。
草木はともかく、人と家畜は失わなくて済んだもの。
わかっていたことなのに、避けられたことなのに、主のことばを心に留めなかった者たちは、その結果を刈り取ることとなりました。
なお、ここでも、イスラエル人の居住区ゴシェンの地は区別されました。
さばきにおいて、神の民はキリストのゆえに、滅びを免れることを暗示しています。

さて、パロです。同じことを繰り返します。
痛い目に会っている間だけ、モーセにすがりつきます。

27-28節「そこでパロは使いをやって、モーセとアロンを呼び寄せ、彼らに言った。
『今度は、私は罪を犯した。主は正しいお方だ。
私と私の民は悪者だ。【主】に祈ってくれ。
神の雷と雹は、もうたくさんだ。私はおまえたちを行かせよう。
おまえたちはもう、とどまってはならない。』」


一見、良さそうに見えます。
私は罪を犯した、主は正しい方、自分と民は悪者だと言い、もう、とどまってはならない、とまで言っています。
以前、主が言っておられたように、パロが強制的にイスラエルの民を行かせるという段階まで来たかに見えます。
しかし、モーセは見抜いていました。彼は言いました。
町を出たら、あなたの願い通り、すぐに主に向かって手を伸べ広げ、祈りましょう。
そうすれば今度も主は聞いて下さり、雷も雹もやむでしょう。
それは、この地が主のものであることを、あなたが知るためです。
あなたが口先だけで殊勝なことを言っているのを真に受けたからではありません。
私は、あなたとあなたの家臣が、まだ神である主を恐れていないことを、知っています…(29-30節)。

パロに対してみじんも媚びずに、ズバリと本心を突きます。
そう言われて、改めてパロの言葉を読み直してみると、27節「今度は」というところが引っ掛かります。
今度は?ということは、今まではそうではなかったということ?本当なら、今まで主に逆らい続け、約束を破り続けてきたことを、悪かったと言うべきでしょう。
この言い方は、今度という今度は参った、くらいのものに感じられます。
案の定、雹が止むと、パロと家臣たちはまたも罪を犯し、強情になり、イスラエル人を行かせなかったのでした(34-35節)。

なお31-32節に、主食となる穀物と亜麻の被害が具体的に記されています。
大麦は穂を出し、亜麻はつぼみをつけていたため、全滅でした。
しかし、それより収穫が1か月ほど後の小麦、スペルト小麦はまだ、穂を出していなかったので無事でした。

「主よ与えたまえ 悟りを」新聖歌38番



 今日は、19節に注目したいと思います。
主は前もって、エジプト人にもこれから激しい雹を降らせるから、野にあるものは避難させなさい、と呼びかけました。
主は、憐れみ深いお方です。
今もしばしば、前もって警告を与えて下さることがあります。
その声に気づき、心に留めることができますように。
しばしば祈りのとき、主の御前に静まる中で、最近の出来事や心にかかっていることが浮かんで、ああ、あれはこういうことだったのかな、気を付けないと、、、などと気づかされることがあります。

そのまま気づかずにいたら、大変なことになっていたかもしれないところを、警告を与えられて守られたということがあると思います。
祈りの効用の一つは、主の御前に頭を垂れることで、その時だけでも?少しは?へりくだらされることでしょうか。
そのときに、主の警告に耳を傾けることができるように思われます。
天地の造り主にして、贖い主なる方の御前に出るときを、日々持てますように。

主の警告の中でも、最も重要なのは、さばきについてです。
神は、すべての人々に「世の終わりにはさばきを行うから、今のうちにキリストのうちに避難しなさい」と呼びかけておられます。
主はさばきを行う前に、助かる道を教えて下さっています。
それどころか、助かりなさいと促し、懇願さえしておられるようです。

第二コリント5:20-21、新約p351
5:20こういうわけで、私(パウロ)たちはキリストの使節なのです。
ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。
私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。
神の和解を受け入れなさい。

5:21 神は、罪を知らない方(キリスト)を、私たちの代わりに罪とされました。
それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。


神は、最愛の御子をさえ、十字架に渡されて、私たちのために救いを用意されました。
それほどの犠牲を払ってまで、神は、私たちを滅びから救い出し、永遠のいのちに救い入れようと、強い決意をもっておられます。
神が払われた犠牲の大きさから、本気度がうかがわれます。
神は、手に汗握りながら、信じて救われる魂を待っておられるのだと思います
(第二ペテロ3:9、新約p463)。

またさばきの恐ろしさーそれは人の罪の巨大さのゆえですーが、どれほど苦痛に満ちたものであるかも、うかがわれます。
蚊に刺されるくらいのさばきだったら、神は御子を十字架に渡しはしなかったでしょう

神は、天と地とすべてのものをお造りになった方です。
造った方の責任において、最後にすべてを正しくさばかれます。
この世ではすべての善悪が正しくさばかれることはなかったとしても、神はすべての人を正しくさばかれます。
そのときに罪なしと言える者は、誰一人いません。
それは、私たちが思っているよりもはるかに大きな、想像もできないほどの罪だと、聖書は告げています(マタイ18:27以下、新約p37)。

だからこそ、神は前もって救いを用意して下さったのです。
計り知れない大きな犠牲を払って。

神は今も、呼びかけておられます。
わたしの言葉を信じて、キリストのもとに避難しなさいと。
今の決断が、後の永遠の状態を決めます。
神の言葉を心に留めなかったパロやエジプト人のように、助かる道を教えられていたのに、後になって後悔することのないように。
神は、いろんな機会を通して、語りかけておられます。
特に聖書を通して語られます。

神は、ご自身の御言葉に心をとめ、信じる者を決してお見捨てにならず、一人も忘れることがありません。
むしろ、その一人びとりが、神の限りない愛の対象です。
私たちを愛しておられる方の呼びかけに心を向け、応答しましょう。

ヨハネ3:16、新約p177
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。