礼拝説教要旨(2021.11.7)
モーセとアロンは行って
(出エジプト記4:27-31) 横田俊樹師 
<今日の要点>
神のわざは、一人一人ができることを持ち寄って、チームワークで進められていく。

<あらすじ> 
 出エジプトの前段階が続きます。
ぐずるモーセをようやく立ち上がらせた主は、他方でエジプトにいるモーセの兄アロンをも呼び寄せていました。
口が重く、舌が重いと尻込みするモーセのために、主は、よくしゃべる兄アロンを備えていたのでした。
27節「さて、【主】はアロンに仰せられた。
『荒野に行って、モーセに会え。
』彼は行って、神の山でモーセに会い、口づけした。」
「神の山」はホレブ山のこと。
そのふもとの荒野で、以前、神はモーセに現れ、語られたのでした。
今度は、アロンにも主が「荒野に行って、モーセに会え」と語られました。

小さい頃は、いっしょに遊んだりもしたでしょうが、その後は、モーセは宮殿で生活するようになり、離れ離れ。
さらにモーセがミデヤンに逃亡してからは、会っていなかったでしょうから、ほとんど離れて暮らしていました。
そこへ今になって、突然、「荒野に行って、モーセに会え」とのお言葉。
なぜ、なんのために?戸惑いながらも、やはり何十年ぶりで会えると思うと、懐かしさが込み上げてきたでしょう。

他方、モーセは、再び、ホレブ山のふもとの荒野に行き、神がこれまで語られたことを何度も思い巡らし、これからの展開を考えていたでしょう。
主はアロンが自分に会いに出てきていると言われた。
本当に来るのだろうか。
無事に会えたとしても、自分の言うことを信じてもらえるのだろうか…。
一抹の不安を抱えるモーセ。
そこに、遠くからアロンが姿を現しました!何十年ぶりの再会でしたが、面影は残っていたでしょうか。

感動のご対面。
お互いにこの年まで無事に健康で生きていられたこと、そしてこうして再び、会えるとは思ってもいなかったのが、会うことができたことを喜んだことでしょう。
姉のミリヤムはどうしていますか?と安否を問うと、彼女も元気でいるよ、タンバリンをもって歌って踊れるくらい元気じゃよ(15:20)!と応じたかどうか。
ともかく、このことも、モーセにとって神の言葉の真実さを体験することとなったでしょう。
神の言葉通り、本当にアロンが来たと。
こうして実際に踏み出すことによって、一つ一つ、主の御言葉が真実であることを体験し、深い確信になっていきます。

 ひとしきり、感動の再開の時を過ごしてのち、モーセは改めて、実は…と主が語られたことをすべて、アロンに告げました。
80歳のモーセと83歳のアロン。
老兄弟二人が向き合って、神が、イスラエルの民をあわれんで下さった、約束の地、先祖の地に導いて下さると仰った、パロはスンナリとは行かせないが、これこれこんなしるしをなさると仰った、と話し合う光景。
若い者が、理想に燃えて、熱く語り合うのとは違う光景です。
聞いても、にわかには信じられないような事です。

しかしアロンも、直接神から語られて、モーセに会いに来たのですから、それはそういうことだったのか、と納得しやすかったでしょうか。
ともかく、アロンはモーセの言葉を信じて、二人はイスラエルの民とのところに行きました。
そこでまずは長老たちを集めました。
彼らが、モーセの言うことを信じてくれるかどうか。
モーセがもっとも心配していたところです。

29-30節「それからモーセとアロンは行って、イスラエル人の長老たちをみな集めた。
アロンは、【主】がモーセに告げられたことばをみな告げ、民の目の前でしるしを行った」エジプトの、イスラエル人コミュニティにも、長老たちが選ばれていて、ある程度組織化されていたのでしょう。
そしてここで、打ち合わせ通り、アロンが前に立って、主がモーセに語られたことを、民の長老たちに話しました。
そして、やはりモーセが事前に読んでいた通り、民は話だけでは本当かどうか、わからない、証拠を見せてもらおう、と言ってきたのでしょうか。
彼らは、神があらかじめ語っておられたしるし、モーセの手にある杖を蛇に変えたり、戻したり、手をふところに入れてツァラアトにしたり、戻したり、またナイル川の水を血に変えたり、して見せました。
アロンが、これを見よ、とか仕切りながら、モーセが実際に杖を手にして、しるしを行って見せたのでしょう。
ともかく、これで民は神がモーセに語られたこと、神がモーセとともにおられることを、一応、信じました。

31節「民は信じた。彼らは、【主】がイスラエル人を顧み、その苦しみをご覧になったことを聞いて、ひざまずいて礼拝した。」
モーセは、ひとまず安堵したでしょう。
最初の難関はクリアしました。
主が語った通りでした。

ところで、ここで「民は信じた」とあります。
このときのイスラエルは、苦しい時の神頼みという面もあったかもしれません。
彼らは、ひどく苦しめられていましたから、わらにもすがる思いという面もあったかもしれません。
それでも、神の言葉を信じた、というその一歩は、大きな意味があります。
もちろん、完全に信じたわけではありません。

「信じる」にも、段階があります。
この後見るように、彼らの「信じた」は、すぐにひっくり返って、神とモーセに対する不平、不満、怒りになるような、そんな程度のものです。
ヨハネの福音書にも、弟子たちがイエス様のみわざを見て、「信じた」という言葉が、何度か出て来ます。
一回信じたのに、そのあとでまた信じた、とあるなら、最初の信じたは何だったのか、と最初の頃、不思議に思いましたが、信じるにも段階があるということでした。
信じるとは、ゼロかイチかのデジタル式ではないのです。
考えてみれば、人間同士の信頼関係というのも、そうでしょう。

オール・オア・ナッシングではなくて、徐々に深まっていくものではないでしょうか。
イスラエルの民は、この時、一度は信じ、主を礼拝しましたが、のちに不信の罪を犯してしまいます。
しかし、それでも、この一歩は大きな一歩です。
ゼロとイチの間には、無限の隔たりがあります。
まったく種がまかれていないと所と、一粒でも種がまかれた所では、数年後、大きな違いが現れるでしょう。
赤ちゃんが歩くようになるのもそうです。
最初は、一歩か二歩が精いっぱい。
危なっかしい、ヨチヨチ歩きで、すぐに転びます。

けれども、転びながらでもまだ起き上がって、また歩く、ということを繰り返していくうちに、ちゃんと歩けるようになります。
イキナリ完全に歩ける赤ちゃんはいません。
完全に歩けるまでは、歩かないなんて言ったら、いつまでたっても歩けません。
とにかく歩いてみることが、大切です。
ゼロとイチの間には、大きな違いがあります。
ゼロはいくら足してもゼロですが、イチはそうではありません。
小さな一歩も足していけば、大きな距離となります。
千里の道も一歩から、なのです。
とにもかくにも、彼らは主を信じて、礼拝したのです。
その一歩は大きな、大きな一歩なのです。

以前、「イスラエル人は労役にうめき、わめいた。
彼らの労役の叫びは、神に届いた。」
とありました(2:23)。
そしてついに、先祖アブラハム、イサク、ヤコブに現れたという偉大な、全能の神が、立ち上がって下さる。
このままの苦しい状態がずっと続くのかと思うと、力も失せるばかりでしたが、神が救い出して下さると語られて、彼らの心に希望の灯がともったでしょう。
その希望をしっかりにぎって、神を信頼して従っていくなら、彼らの信じた通りに、彼らはエジプトの奴隷状態から解放され、晴れて自由の身になり、約束の地に入ることができるのです。
神には不可能なことは一つもなく、語った約束は必ず行う真実な方ですから。
信仰による救いの原理は、旧新約を一貫しているのです。

「望みも一つ 業も一つ 一つの御糧 共に受けて ひとりの神を 拝み頼む」(新聖歌 143番)
今日は、モーセにアロンが備えられていたことに心を留めたいと思います。
神のわざ、教会の働きは、個人プレーではなく、チームワークでなされるということです。
アフリカのことわざに「早く行きたければ一人で進め、遠くまで行きたければ、みんなで進め」とあるそうです。
信仰生活は、短距離走ではなく、長距離走です。

神は、モーセを名指しし、モーセとともにおられると仰いました。
それは何にも勝る心強いことでした。
しかし、神がともにおられることによって、モーセが急に弁舌家になるわけではありませんでした。
むしろ、神は「口が重い」まま、モーセを用いられました。
モーセの苦手な所を、アロンが助けるという形が、御心にかなったことだったのです。
神は、私たちが高ぶらないように、また互いに助け合うという美しいハーモニーを奏でさせるために、弱さや欠けを与え、お互いに助け合いつつ、神のわざを進めていくことをよしとされるのかもしれません。

助け合い、協力し合い、互いの重荷を負いあい、そして感謝しあい、祈りあいながら、この地で心を一つにして主に仕える。
時に涙し、苦闘しながらも、主の恵みによってそれらを乗り越え、主がみわざをなさるその真っただ中に身を置き、主がみわざをなされるのを見て、御名をあがめる幸い、喜びにあずかる。
そうして、神が約束しておられる御国に向かってともに進んでいくのです。

モーセにも、長所もあれば欠けもありました。
欠けのない人はいません。
欠けをあげつらったり、モーセみたいに自分の短所にばかり注目して自信喪失に陥るよりも、与えられている長所、得意分野をお互いのために生かしあい、協力し合う方が、神の働きを進める上で良いことですし、精神衛生上も良く、御心にかなったことだと思います。
大勢の民衆の前で語り、説得するということは、モーセにとっては夜も眠れないほど心配で恐れずにはいられないことでも、アロンにとってはむしろ、やりがいを感じ、ワクワクすることでしょう。
無理に短所を克服しようとするよりも(それも必要な場合もありますが、)長所を生かすという原則、方向性を大切にしたいと思います。

第一ペテロ4:10-11(新約p457)
4:10 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。

4:11 語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。
それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。
栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。
アーメン。

すべては、神の栄光のために!です。

また、いわゆる教会の奉仕だけでなく、助けを必要とする兄弟姉妹のために仕えること、重荷を負いあうことも、キリストが望んでおられることです。
ガラテヤ6:2(新約p371)
互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。

兄弟姉妹のために、できることは何かないか、車の運転、買い物、ちょっと必要な時に、30分でも子どもを見てあげるとか、ちょっとした家の修理やパソコンのことに手を貸す等々。
お互いの間で必要な時に、助け合えれば、それはすばらしいことです。
また、教会から遠ざかっている兄弟姉妹に手紙を出すなども、喜ばれることです。

いづれにしても、教会建設は神のわざ。
福音宣教は神のわざです。
ですから、主ご自身が、そのために必要な人材、賜物を与えて、主ご自身が神のわざを進め、成し遂げられます。
神がモーセとともにアロンを備えておられたように、使徒パウロにも、弟子のテモテや何かとパウロを支援してくれたアクラとプリスキラ、パウロが口述するのを筆記したテルテオや、その手紙を届けてくれたテキコ等々、数え上げたらキリがないほど、同労者がいました。

主のわざが進められるために、教会にも、その時その時に足りないところや、必要のあるところに、キリストご自身が必要を備えて下さると信じます。
そして、その神のわざのために、私たちも参加する特権、恵みが与えられています。
一度しかない人生、神のわざのため、福音宣教のため、与えられている賜物を用いることができることは、とても幸いなことです。
主の御目に尊いのは、主に何かしら、お仕えしたい、お役に立ちたいと願うその心です。
事の大小ではありません。
まずは祈ってみましょう。
主のために、私にも何かできることはないでしょうか、と。
主のために何かさせて頂きたいというその願いを、一つ一つは小さなことでも、みなが持ち寄るなら、それは大きな力になります。
その願いを、主は決して置いてけぼりにはしません。
やがての日に、主ご自身から「よい忠実なしもべよ」とお褒めの言葉を頂く、その栄誉に、私自身もあこがれさせられますし、皆さんにも、ぜひ、あずかって頂きたいと、心から願うのです。