<今日の要点>
主が救うと語られたら、どんな敵対者の手からでも、必ず救い出される。
<あらすじ>
すぐ前の4:31をお読みします
「民は信じた。彼らは、【主】がイスラエル人を顧み、その苦しみをご覧になったことを聞いて、ひざまずいて礼拝した。。
モーセが最も恐れていたことは、無事にクリアできました。
自分がイスラエルの民に受け入れられないのではないか、主がこう語られたと言っても、信じてもらえないのではないか、と恐れていたけれども、それは杞憂だった。
今度は40年前とは違う。
機が熟したのか、いや、何よりも主がともにおられる。
主のみわざなのだ。
だからこうして、主の御言葉通りに事が進んでいるのだ。
今度は40年前とは違う。
みなで一致団結して、主に信頼していけば、主がきっとお言葉通り、イスラエルの民をエジプトから解放し、約束の地カナンを継がせて下さるに違いない…。
民が何人集まっていたのか、わかりませんが、イスラエル人の大群衆が一同で主を礼拝している光景に、モーセは心震え、手応えを感じたでしょう。
こうして、大いに奮い立たせられたモーセとアロンは、パロごとき、何するものぞ!の勢いでイザ、出陣。
彼らは、大胆に、神の預言者らしい厳かな口調でパロに言いました。
1節「その後、モーセとアロンはパロのところに行き、そして言った。
『イスラエルの神、【主】がこう仰せられます。
「わたしの民を行かせ、荒野でわたしのために祭りをさせよ。。』」
祭りをするとは、礼拝を捧げることです。
直球ど真ん中、ズバッと主の言葉を投げ込みました。
パロよ、これを聞け!と。
対して、パロはどう来るか。
固唾を飲んで、パロの応答を見守ると2節。
「パロは答えた。
『【主】とはいったい何者か。
私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。
私は【主】を知らない。
イスラエルを行かせはしない。』」
モーセの渾身の一球も、難なく打ち返されてしまいました。
現実は甘くありませんでした。
常識的には、パロの反応は、予想されるものではあります。
かたやエジプトの王。
他方はその国で奴隷として虐げられている民。
斧に対してカマリキが立ち向かうようなものです。
奴隷民の拝んでいる「主」が、我が輩に命令するなど片腹痛いわ。
何様のつもりか。
その「主」とやらは。
鼻で笑って、イスラエル人を行かせるなど、決してしないと、けんもほろろに却下されたのでした。
パロには主を恐れる気持ちは、みじんもありませんでした。
第二次世界大戦の頃、同盟国同士である日本とドイツの軍人が、勇敢さ比べをしたそうです。
ドイツの軍人は言いました。
「私は、神以外の何ものも恐れない。。
対して、日本の軍人は言いました。
「私は、神をも恐れない。。
日本の軍人は勝ったつもりなのでしょうが、ドイツの軍人に笑われたそうです。
ドイツも、ナチス政権でしたから、真に神を恐れていたとは思えないのですが、少なくとも言葉の上では、神をも恐れない者とは、ならず者や悪者のことという文化が根付いていたのでしょうか。
神をも恐れないなどと言えるということは、それだけ神観が低いということです。
石でも木でもイワシの頭までも、何でも神にしてしまう神観だからです。
しかし、真の神は、全宇宙を造った方です。
身の丈五尺のちっぽけな人間が、天地万物を造られた神を相手に、身の程知らずもいいところでした。
エジプトにも神々はワンサカいましたが、パロの神観も似たり寄ったりだったのでしょう。
さて、主など知らぬ、イスラエルの民は行かせぬ、とおそらくムッとした表情で答えたパロに、さっきまでの意気揚々としていたモーセたちは、急に不安になりました。
水を浴びせかけられたように、さっきまでの熱はすっかり冷めて、現実に引き戻されました。
しかし、ここですぐ引き下がるわけにはいきません。
一応、もう一押ししますが、さっきとは違って、今度は懇願する調子になっていました。
3節「すると彼らは言った。
『ヘブル人の神が私たちにお会いくださったのです。
どうか今、私たちに荒野へ三日の道のりの旅をさせ、私たちの神、【主】にいけにえをささげさせてください。
でないと、主は疫病か剣で、私たちを打たれるからです。』」
今度は「荒野へ三日の道のりの旅」とそんなに遠くに行くわけではありませんから、と交渉を試みます。
ちなみにこれは、モーセが妥協したわけではなく、主が最初からこう語りなさいと語っていたことです(3:18)。
ただし、いけにえを捧げに行かないと、主が自分たちを疫病や剣で打たれるというのは、モーセの付け足しかもしれません。
ある人は、直前に、息子に割礼をしていなかったために死にそうになったので、そう思ったのかもしれないと言います。
いづれにせよ、必死でパロの譲歩を引き出そうと、懇願しているのです。
すっかりパロのペースです。
いや、最初から、常識的には勝負にならないのは、わかっていたのです。
ただ主がともにおられるから、道は開けると信じて、飛び込んだのです。
ところが、正面突破を試みるも、あえなく撃沈。
いや、撃沈で済めばまだしも、このことのゆえに、事態は悪い方へと転んでしまったのでした。
パロはモーセの狙いを読みました。
主だの、いけにえを捧げるだのと言っているが、本当の狙いは仕事を休ませようというのだろう。
イスラエル人の人口が増えたので、その力を背景に、待遇改善を要求しようという腹だろう、そんな魂胆は、このパロさまはお見通しだ、そうはいかぬ、奴隷はサッサと苦役に戻れ!とパロの怒りに火をつけてしまったのでした。
そして、こんな、人をなめたようなことを言ってくるイスラエル人どもをつけ上がらせてはならぬ、こんなことを言ったことを後悔させてやろう、と無理な重荷を負わせたのでした。
6節の「監督」はエジプト人、「人夫がしら」はイスラエル人と思われます。
パロは彼らに命じました。
7-9節「『おまえたちはれんがを作るわらを、これまでのようにこの民に与えてはならない。
自分でわらを集めに行かせよ。
そしてこれまで作っていた量のれんがを作らせるのだ。
それを減らしてはならない。
彼らはなまけ者だ。
だから、『私たちの神に、いけにえをささげに行かせてください』と言って叫んでいるのだ。
あの者たちの労役を重くし、その仕事をさせなければならない。
偽りのことばにかかわりを持たせてはいけない。。
当時は、すでにピラミッドやスフィンクスの時代は過ぎていましたが、いつの時代にも権力者というのは、大きな建造物を造るのが好きなのでしょう。
当時もセッセと大きな建物を造っていたようです。
当時のレンガは、材料となる粘土と砂にわらを混ぜていたそうで、注解書によると、わらが腐って発酵し、それによってできる酸が、れんがの強度を上げる化学変化を起こすそうです。
そのわらは、これまでは用意されていて、イスラエル人はれんが作りに専念していましたが、今度はそのわらもイスラエル人に用意させ、それでいて今まで通りの量を造らせろ、ノルマは減らすな、と言うのです。
9節最後の「偽りのことばにかかわりを持たせてはいけない。。
とは、主を礼拝しに荒野に行くよう、神が命じられた、という、モーセの言葉に耳を傾かせるな、ということでしょう。
主が与えた救いの約束を、偽りの言葉と言って信じさせないようにするのは、サタンが常に企んでいることです。
罪の赦し、永遠のいのち、神の御国を受け継ぐこと…。
神の真実の言葉を、サタンは偽りの言葉とあざけって、人々がまともに聞こうとしないように企んでいます。
ここでは、パロは、イスラエル人たちに、そんな暇も体力も気力もなくなるほど、疲れ果てさせろ、ということでしょう。
またモーセのせいで、こんなことになったと思わせて、モーセの言うことに耳を貸さなくさせる狙いもあったでしょうか。
そのパロの狙いはドンピシャで、このあとイスラエル人たちはモーセのせいでこんなことに…と恨むようになります。
こうして、事態はモーセの期待した通りでなく、むしろ、パロの思惑通りに展開していきます。
パロとモーセの対決の第一ラウンドは、勝負にもならない結果に終わったように見えました。
しかしこれもすべて、神のご計画のうちにあったこと。
神はここから大逆転して、完全な勝利をイスラエルにもたらされるのです。
「天にも地にも み歌ぞ聞こゆる 『われらの神こそ 真の神なれ』」(新聖歌 15番)
パロは、主を知らないと言い、イスラエル人を行かせないと言い放ちました。
当時の世界の大国エジプトの王、絶対的な権威を持ったパロが、行かせないと言った以上、もはや人間的にはイスラエルの解放は不可能に見えました。
しかし、神には不可能なことがありません。
神がイスラエルを救うと語られた以上、パロと言えども、神のみわざを妨げることはできません。
先取りになりますが、このあと、パロが主から懲らしめを受けるにつれて、強気な態度が後退していく様子を見ておきましょう。
いくつかの災害を下されたのち、パロはようやく「さあ、この国内でおまえたちの神にいけにえをささげよ。。
と妥協案を出しました(8:25)。
当然、モーセはそれを却下します。
すると今度はパロは、「荒野でおまえたちの神、【主】にいけにえをささげるがよい。
ただ、決して遠くへ行ってはならない。
私のために祈ってくれ。。(8:28)と言いました。
自分のために祈ってくれるように、モーセにお願いしています。
形勢逆転の気配。
しかしその後、モーセが祈って災いが過ぎ去ると、パロは心を翻します。
それでさらに災いが下されて、今度はパロは「壮年の男だけ行って、【主】に仕えよ。
それがおまえたちの求めていることだ。。
と言いました(10:11)。
苦役にあっているのは壮年だから、彼らを休ませればいいだろう、妻や子供たちは人質でしょうか、置いて行けと。モーセは当然、拒否します。
さらに災いが続くと次は、パロは「行け。【主】に仕えよ。
ただおまえたちの羊と牛は、とどめておけ。
幼子はおまえたちといっしょに行ってもよい。。(10:24)と言いました。
しかしモーセは譲りません。
そして最後の決定的な災いを下されて、ようやくパロは「おまえたちの言うとおりに、羊の群れも牛の群れも連れて出て行け。そして私のためにも祝福を祈れ。。(12:32)と全面降伏したのでした。
パロがどんなに拒んでも、主はパロを屈服させ、イスラエルの民を解放させました。
神が救おうと決めたら、誰も何物も、その御心を留めることはできないのです。
神は、今日もご自身の民を、パロならぬ悪魔の支配から圧倒的な御力で救い出されます。
ヘブル書2:14-15(p426)
2:14 そこで、子たち(クリスチャンたち)はみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。
これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、
2:15 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。
アダムの堕落以来、人は死すべきものとなり、一生涯、死の奴隷となる運命に置かれました。
強がって、口では何とでも言えますが、ほとんどの人にとって、死は恐いというのが本音ではないでしょうか。
できれば死にたくない。
人間には生存本能が強くありますから、死を恐れるのは自然なことです。
そして悪魔は、人を死の恐怖につなぎとめて、奴隷状態のままにしておきたいと思っています。
特にクリスチャンたちを、自分の支配から手放したくないと思っています。
しかしそれは無駄な抵抗です。
神は、私たちのために最愛の御子を人として世にお遣わしになり、私たちの罪を身代わりに御子の上に負わせて、十字架上で私たちの罪をすべて処罰されました。
信じる者の罪は、もはや罰を受けるべきものとしては、一つも残っていません。
それで信じる者はすべて、いのちの源である神に受け入れられ、神の子として永遠のいのちにあずかり、天の御国を受け継ぐ者とされたのです。
死の恐怖の奴隷状態から解放されて、天の御国を待ち望む者とされました。
神は、ただ私たちへの限りない愛のゆえに、このことをして下さったのです。
この神こそ、私たちの神。
天地を造られた唯一の真の神です。
誰も神の御手から私たちを奪うことはできません。
ヨハネ10:28-29、新約199
10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。
彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
10:29 わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。
だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。
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