<今日の要点>
神が、私たちを「わたしの子」と呼んで下さった、その神の覚悟のほどを心に刻む。
<あらすじ>
出エジプトの指導者として名指しされながら、恐れて、逃げまわるばかりのモーセも、ついに年貢の納め時。
最後は観念して、荒野から家に戻りました。
さぞかし重い足取りだったことでしょう。
しゅうとのイテロには、まだ本当のことを言わず、エジプトにいる親類に会いに行かせてほしいとお暇を願い出ました。
モーセは、イテロの羊のお世話をしていましたから、身内でその分の仕事を分担し合うなり、あるいは人を雇うなりしなければいけません。
主の御業に行くのだからと、後のことを構わずほっぽり出して行くのでなく、ちゃんとイテロの許可を得て行くのです。
もしかしたら、モーセは、イテロが引き留めてくれることを期待したかもしれませんが、返ってきた返事は、「安心して行きなさい」。
快く送り出してくれたのでした。
さらに、モーセにはもう一つ、恐れていたことがありました。
そもそも、モーセが40年前に、ミデヤンの地に逃れてきたのは、エジプト王パロに命を狙われていたからです。
そのことも当然、気にかかっていたはずです。
それで主は、その心配も取り除かれました。
19節「【主】はミデヤンでモーセに仰せられた。
『エジプトに帰って行け。
あなたのいのちを求めていた者は、みな死んだ。
』」ここでも、一つ一つ、モーセの恐れを取り除いて下さる主でした。
それで、モーセは、妻と2人の息子たちを連れて、エジプトの地へ向かうことができました。
20節の最後に「モーセは手に神の杖を持っていた。」
とあります。
後に神は、この杖をもって、海を分け、岩から水を出します。
杖自体は、種も仕掛けもない、ただの羊飼いの杖です。
ただ、モーセが神の言葉に従うときに、神がその杖をもって、しるしを行われるので、神の杖と呼ばれます。
エジプトに向かう途上、主はモーセに改めて、これから行うべきことを告げられました。
21節「【主】はモーセに仰せられた。
『エジプトに帰って行ったら、わたしがあなたの手に授けた不思議を、ことごとく心に留め、それをパロの前で行え。
しかし、わたしは彼の心をかたくなにする。
彼は民を去らせないであろう。…』
いよいよ、奴隷として虐げられてきたイスラエルの民をエジプトの支配から救い出すべく、パロとの戦いが始まる。
モーセの手によって、神が奇跡の数々を行っても、スンナリ行くとは思わないように、パロは素直には応じない、とあらかじめ、教えられます。
モーセもそのつもりで、その心構えで臨みます。
主の言葉は続きます。
22節「そのとき、あなたはパロに言わなければならない。
【主】はこう仰せられる。
『イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。』」
ここで初めて「イスラエルはわたしの子」という言葉が出て来ます。
しかも初子と言われます。
神にとってかけがえのない、尊い存在、愛する存在ということです。
なぜ、イスラエルはそんなに神にとって、特別に尊い存在なのか?イスラエルって、そんなに信仰深くて、立派だったか?というと、これまで創世記から見てきたように、まったくそんなことはありません。
読んでいて、思わず眉をしかめるようなことも、一度や二度ではありませんでした。
しかし「子である」とは、そういう面があります。
無条件に尊い、愛おしい。
奴隷ならば、何ができるか、どんな役に立つか、と能力によって価値を計ります。
しかし子であるとは、存在自体が尊い。
そのうえで、わが子を訓練します。
神は、パロに向かって、イスラエルをわが子、わが初子と宣言されました。
どんなことをしてでも、どんな犠牲を払ってでも、必ず、イスラエルの民を取り戻すという宣言です。
神の強い意志、決意、覚悟の表明です。
神のパロに対する言葉は続きます。
23節「『そこでわたしはあなたに言う。
わたしの子を行かせて、わたしに仕えさせよ。
もし、あなたが拒んで彼を行かせないなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの初子を殺す。』」
パロが、神にとっての子、初子を取るなら、神もパロの子たち、初子たちを取る、と。
神の本気度が感じられます。
神は、創造主として、すべての人をお造りになり、エジプト人も造られたのですから、エジプトの人々のことも慈しんでいます(ヨナ4:11、旧約p1517参照)。
しかし、その犠牲、痛みを受けてでも、神はイスラエルへの愛を示すことをよしとされました。
イスラエルは、神にとってわが子、わが初子と呼ばれる、特別に尊い存在なのです。
さて、モーセはこの厳粛な神の言葉を聞いて、神ご覚悟のほども感じて、旅を続ける途中のことです。
24節以下、何やら不気味な、恐ろし気な場面になります。
24-26節「さて、途中、一夜を明かす場所でのことだった。
【主】はモーセに会われ、彼を殺そうとされた。
そのとき、(妻の)チッポラは火打石を取って、自分の息子の包皮を切り、それをモーセの両足につけ、そして言った。
『まことにあなたは私にとって血の花婿です。』
そこで、主はモーセを放された。
彼女はそのとき割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。」
ここは注解者泣かせの、よくわからないとされる箇所の一つで、解釈も諸説ありますが、今日は私なりに読み解いてみたいと思います。
まず、主はモーセを殺そうとしたというのは、熱病か何かにかかった、と推測する者もいます。
もちろん、本当に殺そうとしたというよりは、モーセからすると、殺されるかと思ったほどの、命の危険に直面したということでしょう。
で、なぜ、そうしたのか。
それは、モーセをこれからの戦いにふさわしく整えるためではないかと思われます。
問題は、モーセが自分の息子に割礼を施していなかったことでした。
これは最初、彼らの先祖アブラハムに、子々孫々守るべきこととして、神から命じられていました。
それは、彼らが、神との契約を与えられ、彼らが神の民であることを示すしるしでした(創世記17:9-14、旧約p23)。
割礼を施さない者は、神との契約を拒んだのですから、神の民から断ち切られると言われていました。
細かいことになりますが、モーセには息子が2人いて(18:3)、20節「息子たち」とあるので、このとき、2人とも連れていましたが、25節は「息子」と単数形になっています。
もしかしたら、一人目の時は、割礼を施したけれども、2人目のときは、チッポラが強硬に拒んだのかもしれません。
何しろ、生まれて8日目の赤ちゃんの、おちんちんの皮を切り取るのですから、母親としてはつらいでしょう。
もしかしたら、一人目の時に、とても痛がって、激しく泣いて、高熱も出て、もしかしたら命を失いかけたのかもしれません。
そういう何か、見ていられないようなことがあって、2人目のときはモーセに強硬に反対したのかもしれません。
それでこのとき、チッポラはすぐにそのことに思い当って、下の子に割礼を施し、その証拠の品としての皮をモーセの足につけた。
主がモーセを殺そうとしていたので、主に見せるつもりで、モーセの足につけた。
それで、主はそれをご覧になって、よしとされ、モーセを放されたのでしょうか。
そして、チッポラは、かわいいわが子にこんな血を流すような、かわいそうなことをさせるなんて、という気持ちから、モーセのことを「血の花婿」と呼んだのでしょうか。
ちなみに、チッポラと息子たちはこの一件の後、ミデヤンの実家に送り返されたと見る向きもあります(18:2-3参照)。
チッポラが恐れをなして、もうついていけない、と思ったのでしょうか。
これから始まる出エジプトは、神の御業です。
神に敵対するサタンは必死で妨害してくるでしょう。
この戦いの本質は、霊的な戦いです。
モーセが神の言葉に従いきることができるか、どうか。
モーセは身内にスキを抱えた状態では、十分に戦えません。
また、自らの不徹底を悔い改めさせられて、霊的な戦いに臨まなければいけないのです。
「主は命を与えませり 主は血潮を流しませり」(新聖歌 102番)
割礼は、その子が神との契約に入っているしるしとして、生まれて8日目に男の子に施すようにと神が命じたものです。
生まれたばかりの赤ちゃんは、当然、信仰のしの字も知りません。
それでも、イスラエル人の家庭に生まれたら、生まれながらに神との契約の中にあるという恵みまた特権が与えられているのです。
割礼は、現代では幼児洗礼に当たります。
幼児洗礼に反対する人は、本人に信仰がないのに洗礼を授けるのはおかしい、と言いますが、洗礼は、信じていることのしるしではなく、神との契約に入っていることのしるしです。割礼がそうだったように。
そして、両親または片親がクリスチャンである家庭に生まれた子は、生まれながらに契約の中にあるのです。
この原則は、イスラエルの民の時と一貫して変わりません。
使徒2:38-39、新約p230。
2:38 そこでペテロは彼らに答えた。
「悔い改めなさい。
そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。
そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
2:39 なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」
(第一コリント7:14、新約p326も参照)
ここに、聖霊を受ける約束(=神の子とされる約束)は、あなた方の子どもたちにも与えられているとあります。
ゆえに、私たちは、この御言葉に基づいて、右も左もまだわからない赤ちゃんにも、神との契約に入っているしるしとして、幼児洗礼を授けます。
それにしても、割礼は痛々しかったと思います。
しかし、罪ある人間が、聖なる神の子として受け入れられるためには、罪の赦し、罪からのきよめが必要です。
そして罪の赦し、きよめのためには、血が流されなければならないという霊的な大原則があるのです(ヘブル9:22、新約p435)。
つまり、罪ある人間が、神の子どもとして受け入れられるためには、血が流されなければならない。
割礼は、そのことも象徴していたのでしょうか。
新約の時代は、イエス・キリストが信じるすべての人に代わって血を流して下さったので、私たちは血を流す必要がありません。
なんとありがたいことでしょう。
神は、イスラエルの民を「わたしの子、わたしの初子」と呼びました。
人間でも、誰かを自分の子とするとしたら、相当な覚悟が必要です。
神にとっても同じです。
いったん、「わたしの子」と宣言した以上、どんなことがあっても、この子を失わない、手放さない。
自分のいのちに代えても、この子を守るという覚悟です。
そして神は、私たち一人びとりのために、その覚悟をして下さったのです。
それも、昨日や今日の思い付きではありません。
永遠の昔から、そう心を決めて下さったのです。
エペソ1:4-5(新約p373)
1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
1:5 神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
神は、私たちを滅びから救うため、そして御国で永遠に神とともに喜びのうちに生きる永遠のいのちを得させるために、罪ある私たちの身代わりとして、最愛の御子を十字架にかけ、私たちに滅びをもたらす罪からのきよめを与えて下さいました。
それによって、信じる私たちは、滅びを免れ、神の子どもとして、永遠の御国を受け継ぐ特権また恵みを与えられたのです。
神にとって、御子の犠牲は、最もつらく、胸を引き裂かれる激しい苦しみだったと思われます。
割礼は、確かに傷をつけ、血を流す、痛々しいことです。
しかし、神ご自身が、私たちのために払われた犠牲を思うと、割礼も決して過大な要求ではありません。
くれぐれも、自分が払った犠牲は一つも漏らさず、事によっては水増しして覚えているのに、神が払われた犠牲については全く無関心、何も気に留めていなかった…などということが、ありませんようにと願わされます。
最後に第一ヨハネ4:9-10(新約p469)。
4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。
ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。
ここに愛があるのです。
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