<今日の要点>
私たちの主は、羊飼いのように、忍耐深く、恵み深く、なだめたり、すかしたりしながら、御声をかけながら、私たちを導かれる。
<あらすじ>
モーセの召命の場面が続きます。
エジプトで虐げられていたイスラエルの民を救い出し、約束の地へ導こうとされる主。
まずは民の中から指導者としてモーセを名指しましたが、モーセはなかなか、素直に「はい」と応じることができず、主をてこずらせていました。
モーセが、人々があなたの名を聞いてきたら、何と答えましょう、と言えば、主は、彼らに教えるべき御名を教え、でも、私が言うだけでは、彼らは信じないでしょう、と言えば、では、彼らが信じるようにしるしを与えよう、と杖を蛇にしたり、戻したり、モーセの腕をツァラアトにしたり、戻したり、さらにはナイル川の水まで変えてみせよう、と応じて下さる。
神は、モーセとともにいて下さると言って下さっているのに、それでもあれこれ気にかかるモーセに、神は、いちいち相手をして、それなら、こうするから、ああするからと答え、しり込みするモーセを何とか立ち上がらせようとするのでした。
全世界を造られた神ですから、雷鳴の一つも轟かせて、モーセのすぐそばに落として、「つべこべ言わずに、さっさと行け!」と力づくで頭ごなしに命令することも、しようと思えばできたのですが、そうはなさらない。
最大限にモーセの意思を尊重して、彼を励まし、不安を取り除いて、できるだけモーセが納得して、事に当たれるようにと手を尽くされる神なのです。
私たちの神は、人格を尊ばれる神です。人は、機械ではありませんから。
そんな神とモーセのやり取りの続きです。
モーセの次なる心配の種は、自分が訥弁(とつべん:うまく話せないこと)であることでした。
10節「モーセは【主】に申し上げた。
『ああ主よ。
私はことばの人ではありません。
以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。
私は口が重く、舌が重いのです。』」
コミュニケーションが得意でない。
これは確かに、指導者として大きなハンデでしょう。
しかし、不思議なことに、神は必ずしも弁舌巧みな人を用いるわけではないようです。
あの大使徒パウロも「…パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会った場合の彼は弱々しく、その話しぶりは、なっていない。」
(第二コリント10:10、新約p357)と言われました。
中にはアポロのように雄弁な伝道者もいましたが(使徒18:24,28、新約p266)、神は、人の雄弁さによって人心が左右される危うさもご存じでーヒットラーは雄弁でしたーむしろ、その教え自体に力があること、神から出たものであることがあらわれるために、訥弁の人を用いるのかもしれません。
神の道は、人の道とは違うことがしばしばです。
ですから、神はモーセがそれほど雄弁ではないこと、むしろ舌が重く、口が重いことは百もご存じの上で、モーセを召していました。
それどころか、そういう口を与えたのは、このわたしだ、とさえ仰って、モーセの逃げ道をふさぐのです。
11-12節「【主】は彼に仰せられた。
『だれが人に口をつけたのか。
だれが口をきけなくし、耳を聞こえなくし、あるいは、目を開いたり、盲目にしたりするのか。
それはこのわたし、【主】ではないか。
…』」訥弁も、主の召しを逃れる言い訳には、なりませんでした。
ところで、ここで主なる神は、ハッキリと、人に口をつけるのも、口をきけなくするのも、それはこのわたし、主だ、と仰っています。
耳を聞こえなくするのも、目を開いたり、盲目にしたりするのも、それはこのわたし、主だと。
これらのことは、偶然ではなく、主がなさったことだと言うのです。
このことを、どう受け止めるでしょうか。
何でそんなことを!と神に文句を言いたくなるでしょうか。
確かに、当事者でなければ、わからないつらさ、言葉にできない苦しさがあるのだと思います。
しかし、むしろ、いっさいは神の御手によることと、認めることに救いがある場合があるようです。
あるクリスチャンの方が、自分の子が、どこかの機能が正常に働かない状態で生まれたことで、自分を責めていたそうです。
どうして?という思いが湧き起こり、苦しい日々を送っていました。
それがある日、この子は、神様が与えたんだ、とわかったとき、そのことを受け入れられて、心が軽くなったそうです。
神が与えたと言われて、そんな神なんか!と怒る人もいれば、そうか、神がお与えになったんだ、と前向きになれる人と、二通りの反応があります。
その違いは、どこから来るのか、と考えてみると、それは、根底に神への信頼があるかどうか、だと思います。
根底に神への信頼があれば、その神が与えたのだから、とポジティブに受け止めることができる。
希望を持つことができる。
自分を責める思いから解放される。
そして、苦労がなくなるわけではないけれども、良い実を結ぶことができる。
私たちがどういう神を信じているのか、人の神観は、実は私たちの人生のすべてに、すべてに対するものの見方に、影響を与えているのです。
では、どうしたら、神への信頼を持つことができるか。
それは、神の御子イエス・キリストの十字架と復活の御業に深く思いを巡らすことによってです。
神の、私たちに対する真実と愛は、そこに微塵も疑う余地を残さないほど、ハッキリと証しされました。
この神が払われた犠牲を正当に評価したなら、天にも地にも、この神の愛と真実を疑わせるものは、一つもありません。
地上の生涯には、試練となるものがあります。
その中で私たちを支えるのは、このキリストにあらわされた神の愛と真実の確信です。
このことを私たちの信仰生活の土台として、前に進んでいきましょう。
さて、モーセの、私は口下手ですから、という言い訳にも、神は、その口をつけたのはこのわたしだと応じ、さらに私自身があなたのその口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう、と仰いました。
モーセは、何を言っても、神が一つ一つ、その不安にこたえられて、言い訳が尽きました。
しかしそれでも、恐れは消えないのです。
13節「すると申し上げた。
『ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください。』」
理屈抜きに、ただ怖いということもあります。
それは心の深い所にある痛みによるものでしょう。
モーセも40年前の経験で、すっかり自信喪失に陥っていたのでしょうか。
一度は、少し前向きな気持ちになったけれども、具体的にいろいろ考えるうちに不安になり、とてもできる気がしない。
ああ、主よ、誰かほかの人を、と最後は懇願するしかなくなったモーセでした。
すると、です。
ここに来て、ついに主の怒りがモーセに向かって燃え上がったのです。
14節「すると、【主】の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう仰せられた。…」
自分の過去の痛手にばかり心を奪われ、神がともにおられるということに心を向けようとしないモーセに、さしもの忍耐深い主も、いい加減にしなさい、と怒りました。
わたしがこれだけ、あなたの不安を取り除くために何でも応えているのに、なぜ、自分の殻に閉じこもるばかりで、わたしにより頼もうとしないのか…。
愛し、尽くしてきたからこその、怒りでした。
と同時に、これはモーセを、その過去の呪縛から解放するために、怒って見せたという面があったのではないか、とも思います。
私たちは、時に怒られることが、必要ではないでしょうか(ゼカリヤ1:15、旧約p1548)。
しかし、主は怒ったからと言って、モーセを打ったわけではありません。
むしろ、その後に語られている内容は、モーセを励ますものでした。
あなたのスポークスマンとして、弁の立つアロン、モーセの兄アロンを用意してある、彼はすでにエジプトを出て、あなたに会いに来ている、彼はあなたに会えば心から喜ぶから、と。
神はすでに手を打っておられたのでした。
そして15節以下、神がモーセに語り、モーセがそれをアロンに語れば、アロンがそれを民に語るということです。
そして伝言ゲームにありがちなように、途中で間違いが入り込まないように、神がモーセの口にも、アロンの口にもともにあって、語るべき言葉を守ってくれるというのです。
また17節では、例の杖をもってしるしを行うようにと、モーセに命じました。
あくまでも、アロンはスポークスマンで、神はモーセとともにおられ、ゆえに権威はモーセにある。
そのことをあかしするのが、杖によって行われるしるしでした。
アロンが兄でしたが、神に仕える役割は、神ご自身がお決めになります。
「わが魂は歌わん 力の限り 『君に守られて今日まで来ぬ』と」(新聖歌 340番)
旧約聖書の最初の5つの書は、モーセが書いたものとされ、「モーセ五書」と言われます。
とすると、モーセは、自分でこんないつまでもグズグズと情けない自分の姿を書き残したことになります。
なぜか。
それは出エジプトの御業は、まぎれもなく神の御業であることを証しするためではないかと思います。
自分がやりたくて、やる気満々で立ち上がったというのでなく、自分はと言えば、嫌で嫌で逃げ回って、最後は言い訳も尽きて、どうか、他の人に…、と懇願するありさまだった。
すっかり自信喪失し、トラウマをかかえて、臆病で意気地なしになってしまっていた。
そんなモーセを、神が忍耐深く励まし、助け、そして怒って見せて、それこそ、なだめたり、すかしたりして、手間暇かけて、立ち上がらせて下さった。
まさしくイザヤが、主について預言した通り「いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす」主です(イザヤ42:3旧約、p1192)。
過去を振り返って、こう書き記しながら、モーセはしみじみと、神の恵み深さ、ご忍耐を思い、感謝にあふれたことでしょう。
すべては、恵み深い神のおかげ、神の御業。
この聖書を読むあなたたちも、この神を見上げて、この恵み深く、忍耐に富み給う神により頼むように、というメッセージを、後の子孫に伝えたかったのでしょうか。
私事になりますが、11節の御言葉は、私にとって特別に思い入れのある御言葉です。
20代前半の頃、私は自分が神の働きに導かれているのか、召しを考えていました。
母教会の牧師は、「牧師の務めは説教だ」と言っていました。
私は、聖書を読むのは好きで、一生を聖書と取り組むことにかけてもよいと思っていましたが、他方で、自分の声、話し方にコンプレックスがあり、特に子どもの頃から人前で話して嫌な経験をしたことが何度かあったため、それが結構深いトラウマになって、人前で話すことに恐れを感じていました。
親は、青森に帰って学校の教師になればいいのに、と思っていたようですが、私は人前で話すことがイヤで、教職課程も取らなかったほどでした。
それで、考えれば考えるほど、人前で話すことのプレッシャーが重くのしかかり、自分には無理だと思いかけていました。
そんな中で、聖書を読んでいたある日、この個所に来て、11節の御言葉にガーンと殴られたような衝撃を受けました。
「私は口が重く、舌が重いのです。」
というモーセの言葉は、まったく自分のことだと思いましたが、主はモーセに「だれが人に口をつけたのか」と仰り、モーセへの召しは変わらなかったのです。
結局、その後、神学校に進み、牧師になりました。
しかし、このことは、牧師になってからも、何度もぶりかえしました。
そしてそのことでひどく落ち込んでいたある日、長老教会の大会会議があり、その開会礼拝のときです。
四日市の堀越暢治師が、電車が遅れたか何かで、少し遅れて来ました。
たまたま私の隣が空いていたので、そこに座りました。
そして聖書を開くと、どういうわけか、イキナリこの個所を指さして、私の方によこしたのです。この時もまた、ガーンと来ました。
牧師を辞めようかと思うほど、思い詰めていましたが、これは効きました。
神様、わかりました、と降参しました。
ちなみに、今では、気にならなくなりましたので、ご心配なく。
もちろん、モーセとは比べるべくもありませんが、この箇所を読むと、頑なに主の召しを拒み続けるモーセと、それに対して愛想を尽かさず、忍耐をもってモーセの相手をし、励まし続けて、モーセを立ち上がらせて下さった神のお姿に、ああ、自分もこうだった、そして神は自分のようなちっぽけなものにさえ、いちいち手を差し伸べて、そのたびに励まし、支えて下さっていたのだなあ、と胸を打たれるのです。
そしてそのことに限らず、あの時も、この時も、とそのような神の恵み深さの連続だったと思われます。
生涯の終わりが近づいたときには、もっと羊飼いなる主が、自分のような者をも忍耐深く、世話を焼いて、導いて下さったんだなあ、としみじみと思うのだろうな、と思わされます。
そしてそんな、恵み深い主に守られ、導かれ、励まされる人生を感謝したいと思うのです。
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