<今日の要点>
私たちが神の御言葉に従うときに、その従順を通して、神が御業を行われる。
<あらすじ>
80歳のモーセにある日、ホレブ山のふもとで神が現れ、エジプトで苦しめられているイスラエル人をこれから救い出し、先祖アブラハム、イサク、ヤコブに約束していたカナンの地を与えよう、ついてはモーセよ、あなたが指導者として彼らを導くのだ…と語られました。
あまりの大役・重責に、一度は尻込みしたものの、主から励ましの言葉を頂き、モーセは少し気持ちが前向きになりました。
そして、彼らに紹介するべきご自身の御名を教え、さらにこれからなすべきこと、またパロがそう簡単には行かせないけれども、最後にはエジプト人に好意を持たせるので、これまでの労働に対する報酬をちゃんと得てエジプト出ることができる、と励ましの言葉を告げられました。
しかしモーセは慎重というのか、心配性というのか。
あるいは40年前のことがトラウマになっていたのか。
彼は、エジプト王パロを恐れるよりも、同胞イスラエル人が自分を受け入れてくれるかどうかが不安で仕方なかったようです。
エジプトを離れて40年、突然、自分のような者が出て行って、私たちの先祖アブラハム、イサク、ヤコブの神が現れ、私たちをエジプトから約束の地へ連れ出して下さるとお告げになった、と言っても、彼らがはい、そうですか、と信じてくれるとは思えませんでした。
1節「モーセは答えて申し上げた。
『ですが、彼らは私を信ぜず、また私の声に耳を傾けないでしょう。
「【主】はあなたに現れなかった」と言うでしょうから。
』」普通に考えたら、彼らがモーセをすぐに信じないというのは、不信仰ではなく、当然のことです。
パロに背を向けてエジプトを出るということは、彼らも命がけです。
そもそも、信じるということは、そんな簡単な、安っぽいことではありません。
ここの「信ぜず」と否定形ですが、元の「信ずる」という語は、9節までに5回使われていて、この個所で鍵となる語です
(1,5,8[2回],9)。
この語は、単なる事実の承認というより、人格的な関係において築かれた信頼という意味と言われます。
聖書は、信仰の大切さを強調しますが、無警戒に誰でも彼でも信じるようにと言っているわけではありません。
詐欺師やカルトの教祖など信じてしまったら、人生を台無しにされます。
異端の教えを信じてしまったら、永遠のいのちを失います。
しかしまた逆に、何もかも、誰も彼も、信じることができず、すべてを疑っていたら、生きていくのが苦しくなるでしょう。
信じるにふさわしい相手を信じることことが大切です。
またそういう存在が、人間には必要です。
聖書は、この世界を造られた神こそは、真実なお方、私たちが全身全霊をかけて信頼するにふさわしいお方と告げています。
ローマ 3:4(新約p292)
…たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。
神は、私たちに、それこそ全身全霊をかけて真実を示して下さいました。
御子イエス・キリストの十字架の御業がそれです。
そして、このお方を信じるときに、人生の土台が据えられ、より頼むべき拠り所が与えられ、人生の目的、世界歴史のゴール、そして希望が与えられます。
この神を人格的に信頼する経験をすればするほど、さらに信頼が増し、神を知る喜びが増し加わります。
そしてこのお方に信頼する者は、決して失望させられることがありません
(新約ローマ9:33,p305、10:11,p305など)。
そのように、誰を信じるか、というのはとても大切なことですから、人々がモーセをそう簡単に信じるとは思えない。
神が本当にお前に現れたというのなら、証拠を見せろ、と迫られるだろう、とモーセは心配しました。
常識的に考えればそれは当然ですが、よく見てみると、神は先に3:18で、「彼ら(イスラエルの長老たち)はあなたの声に聞き従おう。」
と仰っていました。
神が保証しておられたのです。
それなのに、神の言葉を信じられなかったのは、厳密にいえば不信仰と言うことになるでしょう。
やはり40年前のトラウマがそうさせたのでしょうか。
確かにそういうことがあると、過去の傷ついた場面が心に浮かび、再起することがためらわれるものです。
ですから、主なる神も、そこはモーセを責めることなく、それなら…と人々が信じることができるように3つのしるしを与えて下さいました。
私たちがお仕えする神は、なんと、同情心に富んだお方でしょうか。
最初のしるしは、2-5節。
主はモーセに「あなたの手にあるそれは何か。」
と尋ねました。
もちろん、神が知らないからでなく、モーセに注目させるためです。
羊を連れて荒野の奥に来ていたのですから、これは羊飼いの杖でしょう。
よく絵に出て来るような、先っぽがハテナマークに曲がっている、何の変哲もない杖。
主が「それを地に投げよ」と命じて、モーセがその通りにすると、なんとその杖が蛇になったと言います。
ある人は、エジプトで蛇と言うと、青大将とかでなくコブラだろうと推測します。猛毒です。モーセは反射的に飛びのきました。
ところが、主が再びモーセに「手を伸ばして、その尾をつかめ」と言ったので、その通りにすると、それはモーセの手の中で元の杖になりました。
普通は、蛇、それもコブラなどつかみたくありませんが、もしつかむとしたら、尾ではなく頭の付け根あたりを後ろからつかみます。
尾をつかんだら、簡単に噛まれてしまいます。
しかし主は、尾をつかめとつかむ場所まで指定しました。
これは勇気、信仰がいります。
しかしモーセは主の言われる通りにしました。
もし、頭の方が噛まれにくいからと勝手に判断して頭をつかんだりしたら、逆に噛まれてしまったかもしれません。
主の指示が明確なときには、恐れずに主の語られた通りに従うことが、最善でありかつ最も安全なことです。
蛇は古代エジプトで礼拝の対象だったので、蛇はエジプトの象徴でした。
ですから、モーセが、信仰をもって神が命じた通りに行いさえしたら、神はエジプト王パロをこのように、彼の手によって、意のままになさる、ということを示されたのかもしれません。
主はこの最初のしるしを与えた後、これは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、【主】がモーセに現れたことを、彼らが信じるためであると語られました。
モーセがすごい力があるというのでなく、あくまでも神ご自身がモーセとともにおられ、神がモーセを遣わしたことを示すためのしるしです。
大切なのは、モーセの背後に神がおられることを知り、彼らが神への信仰を持ち、そして従うことです。
それから2番目のしるし。
今度は主はモーセに、あなたの手をふところに入れよ、と命じました。
その通りにすると、モーセの手はツァラアト(重い感染性の皮膚病)に冒され、雪のようになったと言います。
今度は自分の体の一部が、恐ろしい病気になったのですから、背筋がザワザワッとしたでしょうか。
このまま戻らなかったら、大変です。
しかし、主がもう一度、手をふところに入れよ、と言われたので、その通りにすると、今度はまた元通り、健康な手になりました。
歴史家ヨセフスによると、エジプト人はイスラエル人をさげすんで、そのような皮膚病の名前で呼んだそうです。
とすると、これはエジプトの屈辱、さげすみを表わすのでしょうか。
あるいは病に冒された状態をエジプトでイスラエル人が受けている苦しみと取る人もいます。
いづれにせよ、モーセが主の命じた通りに行うときに、主がイスラエルの民を救われるということです。
言うまでもなく、モーセ自身に皮膚病にする力も、癒す力もありませんし、ましてやイスラエル人をエジプトから救い出す力などありません。
モーセが神に従うときに、神が、彼の従順を通して、救いの御業を行われるのです。
そしてこの2つ目のしるしを与えた後、神は「たとい彼らがあなたを信ぜず、また初めのしるしの声に聞き従わなくても、後のしるしの声は信じるであろう。」
と言って、モーセを不安を取り除こうとされました。
私たちの神は、励まして下さる神です。
しかしそれでも不安そうなモーセのために、神は9節で「もしも彼らがこの二つのしるしをも信ぜず、あなたの声にも聞き従わないなら、ナイルから水を汲んで、それをかわいた土に注がなければならない。
あなたがナイルから汲んだその水は、かわいた土の上で血となる。」
と三つ目のしるしまで約束して下さいました。
なんと忍耐深く、モーセを立たせようとして下さる神であられることでしょう。
エジプト人にとって、豊かな収穫をもたらすナイル川はいのちの源として神聖視されていました。
そのナイル川の水が、血になるというのは死を連想させる不吉なものです。
それは、エジプトの神々に対する裁きでもあったのでしょう。
これも、モーセ自身にはそんな力はありませんが、モーセが神の言葉に従うときに、神が裁きを行うのです。
「歩めよ信仰により 歩め歩め疑わで」(新聖歌 282番)
最初のしるしは、モーセの手にあった羊飼い用の杖が用いられました。
のちに、この杖によって、神はさまざまな不思議を行なわれます。
それで20節では「神の杖」と呼ばれます。
しかし、これはこの杖が特別だったわけではありません。
モーセに神通力があったわけでもありません。
ただモーセが、神の御言葉に従ったことによって、神が御力を現されたのです。
歩くときに使う杖でも、鉛筆でも、釣り竿でも、何でもいいのです。
神には、何も必要なものはありません。
ただ神は、私たちの従順によって、私たちがすでに持っているもので、ご自分の栄光を現わされるのです。
サムソンが手にしたろばのあごの骨は、当たるを幸い、イスラエル人を虐げていたペリシテ人を千人倒しました(士師記15:15以下、旧約p444)。
ダビデの手にあった石ころは、彼が羊飼いとして使い慣れていた投石器を使って巨人ゴリアテを倒し、イスラエルを救いました(第一サムエル記17:48-50、旧約p497)。
また、イエス様が最初に行われた奇跡は、カナというところで行われた婚宴の席でした。
途中でぶどう酒がなくなったため、世話役の人は焦りましたが、イエス様が係の人に、水がめに水を満たすようにと言われて、彼らが、何でこんなことを、と思ったかもしれませんが、ともかくその通りにすると、それは最上のワインになりました(ヨハネ2:1以下、新約p175)。
私たちが神に、キリストに従うときに、神が栄光をあらわされるのです。
ある牧師があるとき、有名な伝道者たちの説教を目の当たりにして、最初はただ感動していましたが、やがて自分には何も賜物がないとに気づいて、唖然としたそうです。
高校時代は野球部の主将をして、他の部員に打ち方を教えたり、態度の悪い部員のお尻をバットで叩いたりしてガンガン引っ張って、県大会で優勝もしましたが、それは牧師をするのに役に立ちません。
まさか態度が悪いからと言って、信徒のお尻をバットでたたくわけにいきません。
それで、主よ、自分には本当に何もありません、ただ自分自身をお捧げしますから、好きなように使って下さい、と祈りました。
そしたら、その後のことです。
説教の中で「太宰が…、」「芥川が…、」と言うとパッと顔を上げる若者が結構いることに気づきました。
当時の大学生はよく本を読んでいたようです。
実は、その牧師は高校時代、授業中に隠れて小説ばかり読んでいたので、文学についてはかなり詳しかったのです。
それで、これは大学生伝道に使えるな、と思って文学のことを話すようにしたら、やがてKGKという大学生伝道団体に呼ばれて集会に用いられるようになり、大いに実を結ぶことができたそうです。
「クリスチャンの人生は、がんばって成果をあげる人生ではなくて、喜んで神様にささげる人生です。
喜んで神様に捧げた後には、良い実がなるものです。」
これはネット上で見つけた言葉ですが、その通りのあかしでした。
後に、イスラエルがミデヤン人に虐げられていた時、神はギデオンに現れ、「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。
わたしがあなたを遣わすのではないか。」
と言いました(士師記6:14、旧約p424)。
神は、ご自身の御業のために、何か特別なことを私たちにせよと命じるのでなく、すでにもっているもの、手の中にあるものを用いられます。
大切なのは主への従順です。
主の御声に従うときに、モーセとともに主がおられたように、私たちとも主がともにおられて、主ご自身が御業を行われます。
主が皆さんに語っておられること、示しておられることはないでしょうか。
もし主が明らかに示していることがあったら、信じて、信頼して、従いましょう。
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