「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。
それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行いによるのではありません。
だれも誇ることのないためです。」(8〜9節)
この御言葉は、私たちの信仰の本質、また真髄を的確に言い表すものの一つである。
ところが、その大切さが分かっていながら、解釈というか、受け止め方というか、その意味するところを取り違えている事実に、驚きを覚えることがある。
同じように「恵みにより、信仰によって救われる」と言いつつ、私たち人間の側の努力や取り組みをより重視して、その成果に何らかの評価を見出したりする。
なぜそのようなことになるのか、その問題意識をもって、今朝の御言葉に耳を傾けてみたい。
今後の奉仕の機会にも、同じ課題に触れたいと思う。
1、使徒パウロは、諸教会に書き送ったほとんど全ての手紙において、十字架で死なれたイエスが、その死からよみがえられたことの大事さを説いている。
十字架で死なれたイエスは、死からよみがえられた。
この方こそ救い主と信ずべき方、キリストである。
この方以外に救いはないと、声を大にして福音を宣べ伝えた。
ローマ、コリント、ガラテヤなどのいずれ手紙も、イエスをキリストと信じた人々に向かって、その信仰から逸れることのない
よう、時に涙して書き送っている。
このエペソ書も、聖徒たちが確かな信仰に立ち続けるよう励ましている。
そうするために、聖徒たちが受ける恵みの栄光がどれほどのものか、本来受けることのできない栄誉であるか等々、救いの確かさをほめたたえつつ書き綴っている。
2章の冒頭で、「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって・・・」と語って、読者たちがかつては罪の中に沈んでいたことを思い出させている。
それだけでなく、「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」と、神に対する背きの罪は全ての人に及んでいる事実を認めている。
全ての人が「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」で、「罪過の中に死んでいた」、そのような者たちである。
この人間理解があって、その罪の中からの救いがいかなるものなのかが明になる。
この視点をパウロは重視している。
2、「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。・・・」(4〜7節)
最初の人アダムにおいて神に背いた罪は、全人類を罪過の中に閉じ込め、全ての人が罪のゆえに、そこから抜け出すことのできない状態に止め置かれたのである。
そこからの救いは、あわれみ豊かな神の、大きな愛のゆえであって、ただただ恵みによる。
死んでいた者がよみがえるのは、外からの力による以外に、道筋はない。
続く8〜9節は、そこまでの言葉をまとめるものである。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。
それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行いによるのではありません。
だれも誇ることのないためです。」
神はご自身の御旨のままに、恵みを注いで、信じる者を救いに導かれる。
人は信仰をもって応えているとしても、その信仰は神が聖霊を通して生み出して下さるのであって、「それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」と言われる通りである。
パウロは「行いによるのではありません。
だれも誇ることのないためです」と言う。
そう言わしめるのは、私たち人間が思い違いをするからであろう。
生まれながらの人間が、罪のゆえに救いに対しては無力であると、なかなか認めない。
堕落したとしても、良きものをなお持ち合わせているので、神の招きに応答し得ると考えるからである。
3、こうした考え方は、聖書が説く教え、また主イエスの語られた教えを道徳的な教えとして捉えることによると思われる。
実際に律法学者やパリサイ人たちが陥ったことである。
彼らは、神に義とされるために、外面的な行いに励むことになり、割礼のあるなしに拘ってしまった。
律法を守ろうとして、神が人の心の中をご覧になるのを軽んじた。
パウロは自分自身が律法に忠実であろうとして、一番肝心なことを忘れていたことを、よみがえった主イエスに会うことによって気づかされた。
十字架で身代わりの死を遂げて下さったイエスこそ、信ずべきお方、この方こそキリストと信じることができた。
その自分を通して、救いは、実に恵みにより、信仰によって与えられるものと、心から感謝するほかなかった。
(※テモテ第一1:12-17)
そして、良い行いは、信じた者に必ずついて来るものと確信した。
「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。
神は、私たちを良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」(10節)
もし行いによって救いがなるとしたら、必ずのように、人は自分を誇るに違いない。
救いを与えて下さる神を仰ぎ見るより、キョロキョロと周りを見回し、人々と自分を見比べるであろう。
そして、人より自分が優れていると安心し、自分が劣っていると気づくと焦り、妬んだり、怒りさえ燃え上がらせるかもしれない。
魂の救いは、ただ恵みによるもの、神からの賜物と知って感謝する、その信仰こそ、私たちが決して見失ってはならないものである。
(ルカ18:9-14)
<結び> 私たち人間は、神のかたちとして造られている。
そのことについて、もともと「愛を本質的な特質とする神のかたちとしてつくられている人」と清水武夫師が「プレスビテリアン20」の巻頭言で語って下さっている。
また「心に愛の律法を記されている自由で人格的な主体として造られています」と。
その人間が、神に背いて堕落したため、自由で人格的な主体として考えることも、行うことにも、罪のために歪んだものとなってしまった。
にも拘らず、神はご自身の愛と恵みを私たちに注いで、キリストの十字架の身代わりの死をもって贖い、罪を赦し、神との交わりを回復して下さった。
清水師は、神の子として新しいいのちに生きる「私たちのうちに、真の神のかたちとしての人格的な主体性と、愛の律法に沿って働く真の良心が回復されています」と言葉を続けておられる。
私たちは、神の恵みによって、罪の中、滅びの内より救い出された者として、神を愛し、また隣り人を愛して生きるように、御霊の助けと導きが与えられている。
救いの恵みをしっかりと心に刻んで、この地上にあって、信仰の生涯を歩み抜くことができますように! この週もまた、一日一日、感謝をもって過ごさせていただけるよう、祈りつつ歩めますように!!
※招詞:ローマ3:21〜26
|