礼拝説教要旨(202110.3)
「わたしはある」という神
(出エジプト記3:13-22) 横田俊樹師 
<今日の要点>
神が本当に現実におられるということを、本当に肝に銘じる。
明確に認識する。

<あらすじ> 
 先祖アブラハム、イサク、ヤコブの神が、エジプトで虐げられている同胞イスラエル人をあわれみ、ついに救い出して、約束の地カナンへと導いて下さる。
そう神が語るのを聞いて感無量のモーセに、突然、「あなたがパロの元へ行って直談判せよ」と指さされて、モーセは息も止まらんばかりに驚きました。
しかし、恐れをなして、しり込みするモーセに、神は、わたしがあなたとともにいる、わたしがあなたを遣わすのではないか、エジプトを出た暁には、イスラエルの民がこの山でわたしを礼拝するのだ、と励まして下さいました。
有無を言わせず一方的に命令するのでなく、モーセの不安や恐れを取り去り、励まして下さる神。
私たちの神はなんと、忍耐深く、慈しみ深いお方でしょうか。

その神の、やさしくも心強いお言葉を聞いて、モーセの気持ちも前向きになり、「今、私はイスラエル人のところに行きます。」
と言うことができました。
そして神に質問します。
彼らの所に行って、「あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされた」と言ったら、彼らは、「その名は何か」と聞いてくる。
そのとき、何と答えたらよいのでしょうか、と。

エジプトには、ラーだのオシリスだとイシスだのといった名の神々がいました。
そして名前には、それなりに意味があるもので、名前によってどんな神か、知る手掛かりになる。
それでイスラエル人は、我々の先祖の神とは、いったい何という名か、と尋ねるのでしょう。
それに対して神が教えたのは、不思議な名でした。
14節で「わたしは、『わたしはある』という者である。」
と。
「わたしはある」という名前。
ここは英語ではI am that(who) I am.となっています。
I amという名前です。
ここの解釈は諸説ありますが、私は単純に「わたしはいる、存在している」と取るのがいいように思います。後で詳しく見ます。

先に進みます。
神はさらにモーセに15節「あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたの所に遣わされた。」
と言うよう命じました。
ここで新改訳で太字の「主」となっていることに触れておきます。
これはヘブル語ではYHWHという4つの子音字で、これが神の御名であることから神聖四文字と呼ばれます。

この4文字は、先の「わたしはある」の元の言葉から来ていると思われます。
ヘブル語は、基本的には子音字だけで記録したので、この4つの子音字をどう発音するかは、聞いて覚えるしかありませんでした。
ところが、イスラエル人は、この神聖な名を口にすることは「神の御名をみだりに唱えてはならない」という第三戒に反すると考えたため、聖書を読んでいてこの4文字の所に来ると、発音しなかったのです。
それが長い間続いているうちに、元々この4文字をどう発音するのか、わからなくなってしまったのです。

のちには、そうならないように、聖書に母音を表す記号をつけるようになったのですが、この4文字はわからないままで、学者たちはヤーヴェだとかエホバだとか、推測しますが、本当のところはわかりません。
いつの頃からか、イスラエル人は、この4文字をヘブル語で主・主人をあらわす「アドナイ」と読むようになりました。
それでこの4文字のところは、新改訳では太字の「主」としているのです。
ちょっと長い説明になりましたが、これが永遠に神の名であると宣言しました。
以後、イスラエル人は、この御名を大事に守っています。

そして神は、モーセにこれからなすべきことを具体的に教えます。
まず長老たちを集めて、これまでモーセに語られてきた神の救いのことを彼らにも伝えること。
ビジョンを共有することです。
モーセ一人で全イスラエルの民を治めるなど、できることではありません。
すでに民を治めて、賜物があり、経験や知恵もある長老たちと心を一つにして、一つのビジョンを共有して、神の御業にあたります。
神の御業には、一致が不可欠です。
モーセに語られた神のビジョンを聞いて、長老たちは、聞き従うのです。
その一点で、彼らは一致します。
そうでなければ、誰が出エジプトなど、可能と考えるでしょう。

そして主はモーセに、「長老たちといっしょにパロの所に行き、ヘブル人の神、主が私たちにお会いになりました。
どうか、荒野に三日の旅をさせて、私たちの神、主にいけにえを捧げさせてください、と言え」と命じました。
イスラエル人をエジプトから解放すると言って、パロを無視して勝手に出て来るという方法を神はとられませんでした。
しようと思えば、神にはそれもできましたが、しかし、立てられている権威を無視する形ではなく、パロに許可を得て、エジプトを出るという形を取るのです。
秩序は、絶対ではありませんが、意味のないものでもなく、神は秩序を重んじます。
しかし、パロがそんな、モーセの言うことを、きいてくれるかなあ、と誰しも思います。
その通りです。
19節「しかし、エジプトの王は強いられなければ、あなたがたを行かせないのを、わたしはよく知っている。」
神はパロが許可を出さないことを百もご存知でした。
ではなぜ、パロのところに行け、とモーセに命じるのか。

それは20節「わたしはこの手を伸ばし、エジプトのただ中で行うあらゆる不思議で、エジプトを打とう。こうしたあとで、彼はあなたがたを去らせよう。」
不思議、奇跡。
普通ではあり得ないことを、神が行うためです(9:16)。
聖書ではしばしば、奇跡は神の臨在のしるしとされました。
それによって、神がイスラエルとともにおられることが、あかしされました。
神はそれを「エジプトのただ中で行う」ことがお出来になります。
世界は神の栄光を表すための舞台です。
こういう視点を持つことも、人間中心に凝り固まって逆に苦しくなっている現代人には、有益です。

神がともにおられるからと言って、また神の御心だからと言って、イスラエル人の出エジプトは、そう簡単には行きません。
この後見るように、パロは頑なにイスラエルを行かせることを拒みます。
それも一回や二回ではありません。
お前は馬鹿か、と言いたくなるほど、頑なに拒み続けます。
最初はモーセも、どうしてですか、主よ!話が違うじゃないですか!と訴えます。
しかし、それは、神に力がないからではなく、むしろ、神がそのようにしておられるのです。
それは上記の御言葉にある通り、神の力が現れるためです。

ダビデが息子アブシャロムに王位を奪われ、都落ちする途中、サウルの親戚のシムイという男が、ダビデを逆恨みして、石を投げつけ、呪いの言葉を吐きました。
腕に覚えのある家来が、あいつの首をはねさせて下さいとダビデに言いましたが、ダビデは「彼が私を呪うのは、主が彼に『ダビデを呪え』と言われたからだ。」
と言って、思いとどまらせました。
そして「主が私の心をご覧になり、主は、今日の彼の呪いに代えて、私に幸せを報いてくださるだろう」と言ったのでした。
ダビデは汚点を残さずに済みました。

極めつけは、イエス様です。
ユダがご自分を裏切ることも、民衆が「十字架につけろ」とシュプレッヒコールをあげることも、その背後に父なる神の御心を見ておられました。
それで御父に信頼して、その御心に従われました。
そのイエス様の信頼にこたえて、御父は、三日目に栄光のうちにイエス様を復活させ、すべてにまさって高く上げられました。

神は、エジプト人が好意を持つようにもなさいますが(21節)、いつもいつも私たちにとって都合のいいようにしてくれるとは、限りません。
神の御心は、私たちの思いとは異なるのです。
天が地よりも高いように、神の御思いは、私たちの思いをはるかに超えています。
天国ならぬこの世にあっては、自分にとって好ましくない態度をとる人もいるでしょう。
いないということはないと思います。
しかしそれも、神の御手の内にあるということです。
もちろん、その人が悪を行うなら、それはその人自身の責任であり、罰を受けなければなりません。
しかし同時に、これを許しているのも、神なのだから、神には何かお考えがあるはず、と御心に思いを巡らしてみるのも有益です。
それは、私たちを短絡的な怒りから守ってくれます。

また、私に忍耐を訓練しておられるのか、もっと祈れということか、あるいは神が御業を行われるためか、あるいはこの先、思ってもみない展開を用意しておられるのか。
神の御心はケース・バイ・ケース。
十把一絡げではありません。
神の御心を悟るためには、聖書に親しむことが最上です。

 そして彼らがエジプトを出るときには、今まで奴隷として働いてきた正当な報酬として、金や銀の飾り、着物などをもって出るようにとも語られました。
「エジプトからはぎ取らなければならない」とありますが、21節では、エジプト人がイスラエル人に好意を持つようにするとありますから、力づくで奪い取るのではありません。
ここで得た金銀は、のちに幕屋を作るときに必要な材料でもありました。
神のなさることに抜かりはありません。

「昼も夜も 臨在あり 依り頼む われらに」(新聖歌 316番)
さて「わたしはある」という神の名について。
日本では出席を取るとき、名前を呼ばれたら「はい」と答えますが、アメリカではYesとは答えません。
I amです。
「います!」という意味です。
神は、「わたしはいる」という名でご自身を表しました。
これは、私はすごみを感じると言いますか、ズシンと腹に響く、重いものを感じます。
「わたしはある」ということは、暗に、他の神々は、実際には存在しないと言っているのです。
他の神々はいない。
が、わたしはいる、と。
荘厳な神殿、意匠を凝らした像。
エジプトの祭司たちによって仰々しく、うやうやしく執り行われる儀式。
中身がないものほど、それをごまかすために飾り立てるものです。
人間が考え出した神々は、空想の産物でしかない。
絵に描いた餅のように、以下にもおいしそうに描くことはできるけれども、実際には食べることはできない。
しかし、天地を造られた真の神、万物を存在せしめている神は、実際におられるのです。
現実に生きておられるのです。
神は「わたしはいる」と一言で、他のすべての偶像を切って捨てました。

「わたしはいる」と語られる神。
普段、人は軽々しく「神」という言葉を乱用しますが、それは本当には神がおられることを信じていないからではないか、と思います。
神は、肉の目には見えないので、いい気になって、まるで神が存在しないかのようにふるまっている。
神の存在を薄めようとしている。
それがまさしく罪です。
すべてを存在せしめている神をなきものにしようとする神への反逆・偽り・冒涜の大罪です。
近現代の哲学・思想では、人類は「神は死んだ」とか、神の存在はどうでもいいこととか、盛んに神をなきものにしようとしてきましたが、しかし、そんな人間のむなしい反逆にもかかわらず、神は「わたしはいる」と語り続けておられます。
この声を消すことは、誰にもできません。
世の終わりのときに、神はご自身を現されて、すべてを明らかにされます。

しかしまた、キリストを信じる者にとっては、「わたしはいる」という名は、この上なく心強いものです。
神は、御子キリストを世に送って下さり、十字架上の御子の言語に絶する苦しみを通して、私たちの罪をすべて処分して下さったので、私たちはこの神とともにいることができます。
この私たちを愛してやまない、慈しみ深い神が、私たちの生活のすべての場面で「わたしはいる」と語っておられます。
私たちが、悪に傾きそうなとき、「わたしはいる」という神の御名を思い出すなら、それは私たちを悪から遠ざけてくれます。
また、試練のとき、絶体絶命の場所に追い詰められても、そこにも「わたしはいる」という神の名を呼ぶとき、本当に、事実、神がおられる、という霊的現実を思い出して、心を強くされます。

試練の真っただ中でも、「わたしはいる」と語りかけている神が、「私に祈りなさい。
私に信頼しなさい。
どうして私に祈らないのか。
救いにならないものに救いを求めるのか。」
と招いているのです。
「わたしはいる」という神の名は、つまるところ「わたしは、あなたとともにいる」ということ。
臨在の主、インマヌエルなるイエス・キリストを表しているのではないか、と思われるのです。

 今週も「わたしはいる」という神に遣わされて、それぞれの職場、学校、あるいは家庭に行きます。
私たちが遣わされるところ、どこでも、神は「わたしはいる」と語りかけています。
そして、パロのような頑固な者であれ、好意を持ってくれるエジプト人であれ、すべては私たちを愛してやまない神の御手のうちにあることを忘れないようにしましょう。