<今日の要点>
自分の力を頼みとせず、私たちとともにおられる主に心から信頼して生きる。
<あらすじ>
放牧していた羊を連れて、いつもは行かない荒野の奥まで行ったモーセ。
そこで彼は、燃える柴の中から語られる主に出会いました。
神は「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」
と自己紹介されました。
両親から伝え聞いていた天地創造の神、そして自分たちの先祖アブラハム、イサク、ヤコブと特別な契約を結ばれた神。
彼らを慈しみ、一人一人の人生をくすしい御業によって守り、導かれた神。
そして彼らの子孫であるイスラエル人にカナンの地を与えるとお約束下さった神。
今までは伝え聞いてきただけの神が、今、目の前にお現れになった。
一体、どんなお言葉を語られるのか…。
ひれ伏して、次の言葉を待つモーセ。
今日はその続きです。
7節「【主】は仰せられた。
『わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。
わたしは彼らの痛みを知っている。』」
神は、イスラエル人のことを「わたしの民」と呼んで下さいました。
わたしのもの、わたしの所有と。
これ自体、全てに勝る祝福です。福音です。
そして神は、わたしの民の悩みを確かに見た、エジプト人に虐げられている彼らの叫びを聞いたと仰り、そして彼らの痛みを知っていると仰いました。
モーセは神のありがたいお言葉に、目もうるんだでしょう。
神は、ご自身の民の痛みをご存じです。
私たちはときに、神は私の痛みなんか、ご存じないと感じてしまうかもしれません。
しかし、決してそんなことはありません。
あの苦しかったとき、毎日がしんどかったとき、本当にきつかったとき、、、。
そのすべてを神はご存じでした。
ともに心を痛めておられました。
御子を下さるほどに愛するご自分の民のことを、神がお忘れになることなど、天地がひっくり返ってもありません。
イザヤ49:15-16(旧約p1208)
49:15 「女が自分の乳飲み子を忘れようか。
自分の胎の子をあわれまないだろうか。
たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。
49:16 見よ。
わたしは手のひらにあなたを刻んだ。
…
手のひらに刻んだというのです。
イエス様の手のひらのことでしょうか。
十字架に釘で打ちつけられたイエス様の手のひら…神はそれを忘れようはずがありません。
神は私たちの経験している痛みをご存じで、私たちが涙する時には、ともに涙され、私たちが気づいていないところでも、必要な助けを与え、支えておられます。
そしてやがて、定めのときが来て、神の国が到来したら、そこではすべての痛みが消え去り、完全な慰めを受けます。
そして、神はイスラエル人を苦しみから救い出すためだけでなく、彼らにカナンの地を受け継がせるために来たと言われました。
8節「乳と蜜の流れる地」は、牧草が豊かにあり、農作物も豊富に収穫できる肥沃な地であること、そして神ご自身がそれらの産業を溢れるばかりに祝福して下さることを表します。
カナン人、ヘテ人云々は、カナンの先住民です。
前回言いましたように、彼らは自分の欲のために、わが子を焼き殺して偶像に捧げることさえしていたので、そこまで良心を失い、人の道を外していた彼らに対する裁きということでもありました。
ともかく、主は、イスラエルの民を苦しみから救うためだけでなく、彼らに約束の地を与えるために来られました。
同じように、主は、直面している苦しみから私たちを救い出すためだけでなく、永遠の祝福の御国を継がせるために世に来て下さり、十字架にかかられました。
神の一番の願いは、神が永遠の昔から用意しておられる、とっておきの御国を、私たちに継がせることです。
このゴールを常に視界に据えましょう。
さて、神は9節で再度、今こそ、イスラエル人の叫びは、わたしに届いた、エジプト人の虐げを見たと繰り返します。
二度も繰り返されるとは、神の熱いお心が感じられる。
ありがたや、ありがたや…。
感極まって、涙にむせびかけたそのときです。
次の10節の言葉を聞いたときには、モーセは耳を疑ったでしょう。
10節「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。
わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」
心臓が止まるかと思いました。
主がすべてやって下さると思ってたら、突然、モーセに向かって指さして、「今、行け。
わたしはあなたをパロのもとに遣わす」と言われたのです。
私に、あのパロのもとに行けと?エジプトからパロから逃げてきたこの私に?私にあのイスラエルの民をエジプトから連れ出せと?指導者ヅラするなと、同胞から拒まれたこの私に?思わずモーセの口から戸惑いの言葉が漏れます。
11節「…『私はいったい何者なのでしょう。
パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。』」
昔の若いとき、王宮にいて多少は力があったときならまだしも、今やエジプトから遠く離れたミデヤンの片田舎で、ひっそりと羊を飼う身となって40年。
今や80歳。白羽の矢を立てるなら、もっと若い人に、、、と言いたくなるでしょう。
いや、そもそも、一度は、すべてを捨ててイスラエルを救おうとしたのに、拒絶されたことがトラウマになっていたかもしれません。
自分は、その器ではなかったのだ。
うぬぼれだったのだ、もう出過ぎたことはすまい、と。
しかしそんなモーセに神は語られます。
12節「神は仰せられた。
『わたしはあなたとともにいる。
これがあなたのためのしるしである。
わたしがあなたを遣わすのだ。
あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。』」
ここはちょっとわかりにくいかと思いますが、新共同訳は次のように訳しています。
「神は言われた。
『わたしは必ずあなたと共にいる。
このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。
あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。』」
つまり、神がともにおられるということが、神がモーセを遣わすしるしだということです。
神はこのあと、モーセの手によってさまざまな奇跡、力あるわざをなさいます。
それによって、人々は、ああ、確かに神はモーセとともにおられる、神がモーセを遣わされたのだ、と納得します。
何よりモーセ自身が、本当に神は自分のような者を遣されたのだろうか、と揺れ動くとき、神がともにおられるという客観的な事実によって励まされるでしょう。
モーセが伝え聞いた話では、神がアブラハム、イサク、ヤコブそれにヨセフとともにいた、そして神がともにおられたとき、彼らは無敵だった。
そのように神は自分とも、ともにいて下さる。
そして神ご自身が、自分を遣わされる。
神に人選ミスはないはず。
それに、神ご自身が責任をもつということ。
これほど、心強いことがあろうか。
そして将来、イスラエルの民は、この山で神を礼拝するようになるという、その将来のビジョンが示されたことも、モーセを駆り立てたでしょう。
モーセのまぶたには、エジプトを逃れたイスラエルの民が、ここで神を礼拝している光景が浮かんだでしょうか。
何とすばらしい光景か。
その光景にモーセの心は躍り、気持ちも前向きになったようです。
希望は、私たちに力を与えます。
次の13節でモーセは「私はイスラエル人の所に行きます」と答えていました。
「昼も夜も 臨在あり 依り頼む われらに」(新聖歌 316番)
男だけで60万人もいるイスラエル人をエジプトから救い出し、道中を守り、カナンの地まで連れていく。
そんな難事業の指導者を次の二人の内から選ぶとしたら、どちらでしょうか。
一方は、年齢40歳、エジプトの王宮にいる王子、その気になれば軍隊の一つも動かせるし、パロに何か働きかけることもできるかもしれない。
そして同胞を救うためにすべてを捨ててでも立ち上がるという熱い思いがある。
他方は年齢80歳、羊飼い、エジプトから逃亡して、遠く離れた地にひっそりと住んでいる。
今は同胞を救うために立ち上がるなど、考えてもいない。
少しでも可能性がある方を選ぶとすれば、10人が10人とも前者を選ぶのではないでしょうか。
それが常識的な判断です。
しかし神の見方は違いました。
神にとって、人間の能力、力、権威のあるなしなど、全く問題になりません。
力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、神にとっては変わりありません(第二歴代誌14:11、旧約p754)。
神が求めておられるのは、全面的に神により頼む信仰です。
40歳のモーセにも信仰はありましたが、なまじっか力があるばかりに、自分の力に頼る思いは、どうしても抜けきれなかったのではないかと思います。
その点、今のモーセは、この務めを果たすには、どう考えても不可能。
何から何まで、全面的に主により頼むしかありません。
それこそが、出エジプトという神のわざに用いられるに必要なことでした。
自信満々だった使徒たちが、自分の弱さを思い知らされ、打ち砕かれて後に、聖霊が彼らに臨み、主の御心に仕えることができたように、自分の無力、弱さを知った人こそ、全面的に主により頼まされる。
それこそ、主が求めておられることではないかと思います。
チャック・スミスという牧師は言います。
「しばしば、神が何かをするように呼ばれると、自分の才能や能力を推し量って、『私にはできない』と言います。
神が召されたら、どうやってやるのかを探り、自分の能力や才能を当てはめ、頑張って成し遂げようとします。
これは間違いです。
神の召命は御力の付与です。
神が呼ばれたら、私は恐れません。」
主のために何かをしたいと思いが与えられたら、それは主から来たものかもしれません。
ともにいて下さる主に全面的に信頼して、一歩、踏み出しましょう。
また、何かをするときだけ、神の臨在が必要というわけではありません。
私たちが試練にあったとき、そこにも神がともにおられることを知る必要があります。
時々、引用させて頂く福島第一聖書バプテスト教会、東日本大震災のときに、原発のまん前にあった教会のお話です。
今年、フランスの通信社が、震災の10年後、どうなったか、現状を世界に発信したいということで取材に来ました。
取材が終わって、後日、その通信社の方から手紙をもらったそうで、その一部を紹介していました。
「この度は弊社の取材にご協力頂き、本当にありがとうございました。
記録にも記憶にも残る取材でした。
10年という年月が、被災された皆さんにとって、どれだけ残酷な日々になりうるか、という話をいろいろな取材で耳にしました。
その中で、そちらの教会でお会いした人たちの穏やかなことが、とても印象的でした。
信じるものがあるというのは、こういうことなのか、と感じずにはいられませんでした。」
どれだけ苦しみを通ったか、どれだけ耐えてきたかを怒りとともにアピールするのでなく、また、あなたは震災を知らないくせに、とピリピリした雰囲気でもなく、穏やかな表情だったというのです。
また、他の人からも、「被災地を何か所も取材したが、だいたい恨み、つらみがないってことはない。だけど、何かここは違う空間のように感じました。」
と言われたそうです。
震災があって、家も畑も何もかも失って、一年くらい東京の奥多摩のキャンプ場に来ることができましたが、子どもたちは、東京の学校で、いじめられるんじゃないかと心配しながら転校して、大人たちも、ご近所から「福島に帰れ!」と言われるんじゃないかとビクビクして来たと思います。
しかし実際には、恐れていたことからすべて守られ、すべての必要が満たされ、ついには福島に戻って落ち着くところが与えられて、今は立派な会堂で礼拝を捧げることができるようになって…、とすべてが導かれました。
そんなふうに、すべてを失っても、神が味方でいて下さることを体験して、そこの兄弟姉妹たちは、そのような穏やかさが内からにじみ出ていたのでしょうか。
福島の教会の人たちほどではなくても、違う形で、私たちも自分の無力さ、弱さを覚えるところがあるかもしれません。
使徒パウロでさえ、弱さを与えられていて、これを取り除いて下さいと三度も主に願ったと言います。
しかし主は、彼からその弱さを取り除かれず、次のように語られました。
第二コリント12:9(新約p360)
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。
というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。
ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
私たちに与えられている弱さは、そこにおいてこそ、キリストがともにおられることが現れるため。
臨在のキリストの力があらわれるためです。
神が私たちの味方、守り手であられることが、現れるためです。
臨在の神、インマヌエルの主を改めて心に留めましょう。
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