<今日の要点>
私たちとともにいて下さる慈しみ深い主は、同時に聖なる方であることを知る。
<あらすじ>
モーセがミデヤン人の祭司レウエルのもとに身を寄せ、その娘チッポラと結婚してから40年の月日が流れました。
二人の息子を与えられ(18:3)、羊飼いとして平穏な生活を恵まれたいたでしょう。
モーセも80歳になっていましたが、まだまだ壮健で、自分よりもっと年老いたしゅうとイテロの羊の面倒もみていたようです。
1節「イテロ」(「豊富」「卓越」の意)は「レウエル」の別名。
ある日、モーセは放牧しているイテロの群れを連れて、荒野の奥の方まで入りました。
新改訳3版「西側」は意訳で、新改訳2017も含め他の邦訳はすべて「奥」と訳しています。
この日は、いつもは行かない荒野の奥まで行ったのでしょう。
そして神の山ホレブのふもとにやってきました。
ホレブはシナイ山のこと。
当時から「神の山」と呼ばれていたのか、それとものちにモーセが神から十戒を授かる場所なので、後からそう呼ばれるようになったのか。
今日、シナイ山がどの山かについては、諸説ありますが、一般にはシナイ半島南部に位置するジェベル・ムーサ(標高約2300メートル、アラビヤ語で「モーセの山」の意。
)とされます。
するとそこで突然、主の使いがモーセに現れました。
それは柴の中の火の炎の中であったと言います。
しかし最初からモーセがそのことに気づいていたのではありません。
最初はただ、柴が燃えているのを見ただけです。
あちらでは乾燥した灌木が、自然発火することが時々あるそうですから、それは珍しいことではない。
ところが、よく見てみると、火は燃えていたのに、芝は燃え尽きずにいつまでも燃えていたというのです。
それが珍しい光景でした。
そして80歳になっても探求心を失っていなかったのでしょう。
モーセは、なぜ芝が燃え尽きないのか、疑問に思って、近くに行って見てみることにしました。
するとそのときです。
モーセが近づいて来るのをご覧になって、主は「モーセ、モーセ」と柴の中から呼びかけました。
2節で「主の使い」と記されていたのが、4節では「主」また「神」となっています。
ここに現れたのが、単なる御使いではなく、主なる神ご自身、受肉以前の御子キリストだったのでした。
「モーセ、モーセ」と2回繰り返しているのは、親しみが込められているように感じられます。
モーセがさほど驚いた様子もなく「はい、ここにおります」と答えた所を見ると、もしかしたら、神に呼ばれているとは気づかず、誰かどこかいる人から呼ばれたと思ったのかもしれません。
しかし、次の言葉でモーセは身の引き締まる思いがしたでしょう。
5節「神は仰せられた。
『ここに近づいてはいけない。
あなたの足のくつを脱げ。
あなたの立っている場所は、聖なる地である。』」
ここの「近付く」という語は、礼拝において神の前に出ること、神託を求めることなどの意味で使われることが多いそうです。
また聖所に入るときに靴を脱ぐのは、古代東方の習慣だったので、ミデヤンの祭司イテロを義父に持つモーセには、ここが神の御前だとすぐにピンときただろう、とする注解書もあります。誤解なきよう。
神が聖なる方だから、来るな、あっち行け!と言っているのではありません。
12節で神は「わたしはあなたとともにいる」と仰っています。
ただ、神がおられることを知らず、ズカズカと土足で聖なる場所に入り込むようなことをしないように、と注意を促しておられるのです。
しかし突然、こんなことを言われても、それがどの神か、まだわかりません。
やたらな自称「神」にひれ伏すわけにはいきません。
そこでしばらく、これはどうしたものか、戸惑うモーセに、主は続けて語られました。
「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」
こう聞いて、すぐさまモーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠したのでした。
アブラハム、イサク、ヤコブの神ということは、まさしくモーセが自分の両親から伝え聞いてきた、唯一の、正真正銘の天地を創造した神、そして先祖たちと特別な契約を結んだ神。
そしてイスラエル人をエジプトから連れ出して、約束の地を継がせて下さる神です。
そこでモーセは神を見ることを恐れて、顔を隠しました。
モーセは、神から召しを受けるに際して、神の聖なることを覚えさせられる必要がありました。
のちに、モーセの後継者ヨシュアも、いよいよ約束の地カナンを攻め取る直前、主の使いが現れたとき、「あなたの足のはきものを脱げ。
あなたの立っている場所は聖なるところである。」
と言われました(ヨシュア記5:13-15、旧約p376)。
こういう神の聖さに触れる経験も貴重です。
それは私たちを厳粛な思いにしてくれるでしょう。
私たちの礼拝、またデボーションが、そのような神の臨在して下さる聖なる時となりますように。
「聖なる 聖なる 聖なる主よ」(新聖歌 137番)
神はここで初めてご自身を聖なる方として現わされました。
これまで創世記では、神は、アブラハム、イサク、ヤコブ、それにヨセフにも、ご自身を聖なる方としては現わされず、ただ彼らに祝福の約束を与え、どんなときにも、彼らとともにいる方として現れされました。
彼らが苦しみに会うとき、彼ら自身の罪ゆえに招いた困難の中でさえ、「わたしはあなたを見捨てない。
あなたとともにおり、あなたを助け出す」と言われました。
神は、どんなときにも、ご自身の民を見捨てず、ともにいて下さる。
これは、すべての土台となる、最も大切で、中心的なメッセージです。
この土台を据えて、次に進みます。
その、私たちとともにいて下さる神が、聖なる方であることを学ぶ段階です。
「聖」という語は、創世記には1回出たきりですが(2:3)、出エジプト記になると一気に75の節に出てきます。
次のレビ記に至っては108の節に出てきます。
これでもか、というほど、神の聖さを教えられます。
私たちは、私たちを愛し、慈しみ深く、決して見捨てない私たちの神が、聖なる方であることを学ぶ必要があるのです。
「聖」と訳されたヘブル語は、語源的に2つの意味があると言われます。
一つは「輝き」。
太陽がまぶしくて直視できないように、神の聖さは肉なる者は見ることすらできません。
太陽にはそれでも黒点がありますが、神にはまったく暗い部分がありません。
神の聖さは、完全です。
預言者イザヤが、神の御座を見たときの光景がイザヤ書にあります。
そこではセラフィムという聖なる御使いたちですら、目がつぶれないようにか、二つの翼で顔を覆いながら「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。
その栄光は全地に満つ。」
と叫んでいました(イザヤ 6:1-3、旧約p1134。
黙示録4:8、新約p481も) 。
私たちとともにおられる神は、聖なる方です。
しかし、このように言うと、そんな聖い方とは一緒にいれないと思われるかもしれません。
無理もありません。
正直に自分の心を顧みるならば、憎しみ、怒り、ねたみ、赦さない思い、貪欲、わがまま…その他汚れた思いがいくらでも湧いて来て、自分でも嫌になるかもしれません。
しかし、だからこそ、キリストなのです。
キリストの聖い血潮で、私たちは覆われているので、大丈夫なのです。
そのためにキリストは十字架にかかられたのです。
私たちの汚れを、ご自身の聖い血潮で覆って神に受け入れられるものとするために、キリストは十字架にかかられました。
実は、出エジプト記、レビ記には、神の聖さを徹底的に教えると同時に、人間の汚れを覆い、洗い流すためのいけにえや儀式の定めも、与えられています。
それらの定めは、キリストを表わすものです。
神は、私たちがどれほど汚れているか、百もご存じです。
聖い神が、私たちとともにいて下さるのは、ただキリストのゆえです。
また私たちの方でも、キリストの血潮で良心を洗われ、きよめて頂いて、神とともにいることができます。
キリストのゆえに、聖なる神は同時に慈しみ深い父として、私たちとともにいて下さいます。
そのために、十字架の苦しみを受けて下さったキリストを心から慕い、愛しましょう。
キリストが苦しみを受けて下さらなければ、聖なる神の御前に私たちは出ることができなかったのです。
いっしょにいることはできなかったのです。
キリストを思い、慕い、愛しましょう。
キリストを愛するにつれて、私たちもキリストに似た者に、聖く造り変えられていきます。
人は愛する対象に似てくるものです。
また信じる者のうちには聖なる霊、聖霊が与えられています。
聖書の御言葉と、うちに住まわれる聖霊によって、主が私たちを聖め、ご自身の似姿へと造り変えて下さいます。
それは主のみわざです。
主を愛し、主に似た者として私たちの心が聖められることを追い求めましょう。
それから「聖」の語源的な意味のもう一つは、「分離」「隔絶」です。
神は、万物の創造者として、すべての被造物から分離して、万物のはるか上に隔絶しておられる方です。
主の祈りの「御名があがめられますように」は新改訳2017では「御名が聖とされますように」と訳されています。
神の御名が、万物のはるか上に隔絶して高く掲げられるように、と。
また、神がそのように世から分離した、超越した方なので、この神に属するものも、世から取り分けられ、区別されたものとして、「聖」とされます。
たとえば、十戒の第四戒は、安息日を覚えて、これを聖とせよ。
これは他の日は働いたり、娯楽のために用いて、ただこの日は神のために、他の日から取り分けておくということです。
それでこの日を「聖日」とも呼びます。「聖所」もそうです。
旧約の時代、神を礼拝する場所として、世から取り分けられた場所でした。
聖所に限らず、神が出会って下さるところは、聖なる場所です。
今日の箇所も、荒野でしたが、神が出会われるところなので、聖なる地となりました。
その場所そのものが特別な、聖なる場所なわけではありません。
神がその場を離れたら、そこはただの荒野です。
ただ神がそこに来られたので、そこは聖なる地となったのです。
ですから、今日、神を礼拝する場所は、会堂だけでなく、自宅の部屋でも台所でも、そこは聖なる空間です。
そのつもりで礼拝しましょう。
こうして、「聖日」にしても「聖所」にしても、神を礼拝するために、他のときとは一線を画すということは、必要ではないでしょうか。
週の初めごとに、他の日とは一線を画して、聖なる方の御前に出ることは、背筋を伸ばさせられると言いますか、いろんな意味で私たちを守り、支えるものです。
「聖書」もそうです。
世の中には、他にも有益な本、必要な本もたくさんありますが、聖書は、真の神を知るために、ほかの全ての本から区別される特別な本です。
いわゆるキリスト教書店で売っている信仰書とも違います。
信仰書は、励まされたり、真理を教えられたり有益ですが、何が正しいか、真理か、判断するための基準ではありません。
神が教えておられることに関して、基準となるのは、唯一聖書だけです。
聖書において、神はご自身を啓示しておられます。
聖書の御言葉を通して、神を知り、神の定めを知り、神に出会うのです。
ですから、靴を脱いで読めとは言いませんが、他の書物とは、一線を画した特別な本、それこそ聖なる書という意識は明確に持つべきです。
そして最後に、聖書には「聖徒」という言葉が出てきます。
神を信じる者、今日ではクリスチャンのことです。
キリストを信じた私たちも、世から神の者として取り分けられたものです。
洗礼はそのことの目に見えるしるしです。
神の言葉を受け入れた人は、みな、世から取り分けられ、神のものとされたという意味で「聖徒」です。
ヨハネ17:14-17(新約p216)。
イエス様が、弟子たちのことについて、父なる神に祈っている言葉です。
17:14 わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。
しかし、世は彼らを憎みました。
わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。
…
17:16 わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。
17:17 真理によって彼らを聖め別ってください。
あなたのみことばは真理です。
なんだか、この世のあり方、考え方、価値観、風潮などに、何となくなじめない、違和感、疎外感を感じるという方は、もしかしたら本来、世に属するのでなく、神に属する者なのかもしれません。
神の言葉、聖書の教えを聞いて、こっちの方がシックリくると感じられるなら、その可能性があります。
あとは信じて、従う決断をするだけです。
それで、キリストの御言葉が、その人を世から取り分け、神のもの、神の宝とします!
私たちを愛し、慈しみ、ともにいて下さる聖なる神を仰いで、ほめたたえましょう。
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