<今日の要点>
神を正しく恐れて、どんなときにも罪を犯さず、神が喜ばれることを行う。
<あらすじ>
今日から出エジプト記に入ります。
本文に入る前に、少し説明をしておきます。
出エジプト(イスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを出たこと)の年代について、考古学的には二つの説があります。
紀元前15世紀半ば(第18王朝)とする早期説と、紀元前13世紀前半(第19王朝)とする後期説です。
いまだに決着がついていませんが、私は早期説に立って進めたいと思います。
次に、出エジプト全体の構成について、前半1−18章までは、エジプトを出てシナイ山に着くまで。
イスラエルの民を虐げ、民族殲滅(せんめつ)をはかるエジプト王パロの支配から、神がいくつもの奇跡を行い、超自然的な御業を行われて民を救い出された歴史が記されています。
映画にもなるような劇的な場面の連続です。
後半は、シナイ山で、有名な十戒を授けられたところから最後まで。
ここで神はイスラエルに律法と幕屋を与えます。
どのように歩んだらいいのか教える律法と、神の臨在を表す幕屋。
教えだけでなく、神ご自身が彼らの中におられることをあらわす幕屋が与えられて、彼らは荒野にあっても、神とともに、約束の地を目指して歩んでいることを教えられました。
これは霊的に適用すると、エジプトの支配は、罪あるいはサタンの支配を表します。
それによって人々は苦しめられています。
その奴隷状態にある人々を、神は御子イエス・キリストによって、十字架と復活という超自然の御業によって、解放して下さいました。
そして、神が解放してくれたら、あとはどうでもいい、ではなくて、そのあとは、神に贖われた民として、御言葉で足元を照らしつつ、私たちのうちにともに住んでおられる神とともに、御国を目指すこの世の旅路を歩む。
そのような信仰生活の型を教えるものとなっています。
御言葉と御霊・神の臨在。
私たちになくてはならない、いのちそのものです。
そして神は、イスラエルの民に対してこう仰っています。
19章5節「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。
…」神の御教えに従って、神とともに生活するなら、神は私たちを宝とされる。
もちろん、自分の力でそうするのでなく、神がそのように私たちを作り上げ、磨き上げて下さるのです。
アメリカ長老教会のティム・ケラー師の言葉「神は私たちをありのままで見て下さり、ありのままで愛して下さり、ありのままで受け入れて下さる。
しかし、神の恵みによって神は私たちをありのままには捨て置かない。」
何と素晴らしい神でしょうか。
ピリピ1:6(新約p382)も見ておきましょう。
あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。
本文に入ります。
1節「さて」とあります。
普通、いきなり「さて」から始まる物語はありません。
実は、これは直前の創世記の続きであることを表します。
創世記の最後は、ヨセフが、神はいつの日か、必ず顧みてくださるから、その時には自分のからだもいっしょに約束の地カナンへと携え上ってくれ、と遺言して、棺に納められたところでした。
その言葉の通りに、神が、イスラエルを顧みて、エジプトから導き上って下さるという、神の御業がこれから始まります。
さらに、神はかつてアブラハムに「あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。
しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。」
(創世記15:13-14)と語られました。
創世記では、神は壮大なご計画を語られ、続く出エジプト記でその言葉の通りに、神が実行なさるのです。
1節以下、エジプトに下った時のイスラエルの子らの名のリストです。
ルベン、シメオン、レビ、ユダと懐かしい名前が並びます。
そして時は流れて、その時代の人々がみな死にました。
しかし民族としてのイスラエル人は、神の祝福によっておびただしく増え、その地は彼らで満ちたと言われるほどになりました。
神はご計画の通りに、食糧豊富なエジプトでイスラエル人を尋常ではないほど増やしておられたのです。
そして、ヨセフの死後、300年ほど経った頃、ヨセフのことを知らない新しい王が起こりました。
この頃、誰が王だったかについては諸説ありますが、その王は、イスラエルを恐れました。
それには、理由があります。
早期説に立つと、この頃の直前、エジプトの下流域(下エジプト)は、パレスチナあたりから来たセム系の人種が徐々にエジプト内に増えて、気づいたときには時すでに遅し。
元々いたエジプト人の王を追放して、自分たちでヒクソス王朝を始めました(ヒクソスとは、「異国の支配者達」の意)。
それが100年ほど続いてのち、上流域(上エジプト)に追いやられていたエジプト人の王が、ヒクソス王朝を倒して、全エジプトを統一したのです。
それがほんの二十数年前のこと。
なので、エジプト王は、イスラエル人が同じセム系民族のヒクソス王朝の残党に寝返るのでは、と恐れたのです。
そこで彼らに苦役を課して、弱らせるために、ビシビシと容赦なくムチを振るう監督を置き、倉庫の町ピトムとラメセス建設にあたらせました。
これらの町はナイル川下流東部、昔、ヤコブ一族が住んだゴシェンのあたりです。
ところが、不思議や不思議。
苦しめれば苦しめるほど、イスラエルの民はますます増え広がりました。
すると、そこに尋常ならざるものを感じたのでしょうか。
人々はイスラエル人を恐れました。
確かにこのとき、神が事を行っておられたのです。
となれば、神の働きは、誰も妨げることができません。
使徒の働きを見ると、一方では教会に対する迫害が加えられながらも、主のことばは、ますます広がったと、何度も記されています。
現代でも、教会指導者を捕らえ、キリスト教を抑え込もうとしている国で、それでもなお、爆発的に広がっていると聞きます。
神が事を行われるなら、何物もとどめることはできないのです。
しかし、それでおとなしく引き下がるパロではありません。
彼はさらに、粘土をこね、運ばせ、大量のれんが作りをさせ、またどんなところで、どんな畑仕事か、畑仕事をさせと、彼らに重労働を課しました。
ちなみに、エジプトはピラミッドを造る時代は過ぎていたので、他の建造物のために酷使されていたのでしょう。
挙句の果てに、パロは、とても人とは思えない命令を出しました。
15-16節「また、エジプトの王は、ヘブル人(イスラエル人のこと)の助産婦たちに言った。
そのひとりの名はシフラ、もうひとりの名はプアであった。
彼は言った。
『ヘブル人の女に分娩させるとき、産み台の上を見て、もしも男の子なら、それを殺さなければならない。
女の子なら、生かしておくのだ。』」
これは一種の同化政策というのでしょうか。
イスラエル人の女性がエジプト人の男性と結婚すれば、生まれる子はエジプト人になります。
こうして、エジプト人の人口を増やしながら、イスラエル民族を消滅させることを企んだのです。
しかし、これに対する二人の助産婦たちの信仰は、すばらしかった。
17節「しかし、助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王が命じたとおりにはせず、男の子を生かしておいた。」
彼女たちは、神を恐れました。神が生まれさせた命に手をかけることは、できませんでした。命は神に属するもの。
それに手をかけるのは、神の御怒りに値する大罪です。
彼女たちは、パロを恐れるにまさって、神を恐れました。
彼女たちは、自分と自分の家族の安全を危険にさらしても、神が与えた命を守るという、崇高な使命を果たしたのでした。
そのことは当然、パロの耳に入ります。
パロは彼女たちを問い詰めましたが、しかし彼女たちたちもたいしたもの。
「ヘブル人の女はエジプト人の女と違って活力があるので、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」
としれっと言ってのけたのでした。
これがウソだとしたら、ウソをついていいのか、と引っかかる人も、もしかしたらいるかもしれません。
もちろん、良い目的のためなら、ウソをついてもいいなどと、安易に言うことはできません。
真理は神に属する「真理の神聖」ということがあります。
ただ、こういう限界状況で、命を救うためのギリギリの状況では許されるのではないか、と思います。
悪意をもって人をだますウソではなく、命を救うために、やむなく事実とは違う言葉で応じるのですから。
この方が、例の「二つの大切な戒め」にかなっていると思います。
あの二つの戒めは、他のすべての戒めを解釈する際の大原則です。
実際、神ご自身が、彼女たちの決断をよしと認められて、彼女たちによくして下さったと20節は告げています。
その結果、イスラエルはますます増え、非常に強くなりました。
エジプト王はますます、恐れました。
パロは、こうなったら助産婦たちに任せておくことはできぬと、すべての国民に対して、イスラエル人の家に、もし男の子が生まれたのを見たら、ナイル川に投げ込め、と命じたのでした。
イスラエルの民は、何度かこのような民族殲滅の危機にあっています。
エステルの時代にも、危うく全滅させられるところでした(エステル記3:6以下、旧約p839)。
これらの背後に、霊的な存在の活動を認める向きもあります。
すなわち、神が、創世記3:15で約束された女の子孫、サタンの頭を踏み砕くという約束の子孫が、イスラエルから出るので、サタンは必至でそれを妨げようと、イスラエル根絶やしを企むのだ、などとも言われます。
しかし、神の御心は、誰も、何ものも、止めることができません。
神はご自身の民を救われるのです。
2章以下、それを見ていくことになります。
「命をささげし 証し人よ ダビデの御裔(みすえ)を 主と崇めよ」(新聖歌140番)
不吉な空気の覆う今日の箇所で、キラリと神聖な光を放つのは、シフラとプアの二人の助産婦たちの毅然とした姿勢です。
彼女たちは、エジプト王の命令に背きました。
一方では、聖書には、地上の権威に従うことが命じられています。
第一ペテロ2:13(新約p454)
2:13 人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。
…
「俺は、神様だけに従う!人間の作った制度なんかに、従わない!」という人がいたのか、その口を封じるように「人の立てたすべての制度に」とペテロは言います。
ただ「主のゆえに」従いなさいと。
これが権威に対する信仰者の取るべき基本姿勢です。
昔から、上に立つ者の悪口を言ったり、従いたくないというのは、人の世の常だったのでしょう。
しかし、クリスチャンは、権威に従う良い市民であれ、と言われます。
ローマ書13:2(新約p310)では「権威に逆らっている人は、神の定めに逆らっているのです。」
とさえ、あります。
しかし、です。
何も考えないで、ただ権威に従うわけではありません。
神の御心に反する命令は、拒まなければいけません。
ペテロは、「人に従うより、神に従うべきです。」
と言いました(使徒5:29、新約p236)。
私たちが権威に従うのは、神のゆえなのですから、逆に、権威が神に逆らうことを命じた場合は、権威にノーと言って、神に従うのです。
これは信仰の先輩たちがとってきた道でした。
古代のクリスチャンは、ローマ皇帝カエザルを神と拝むことを拒み、神に自らの命を捧げました。
戦時中は、韓国と日本で、天皇が現人神で、キリストよりも偉いと言うことを拒んだために、投獄され、ある人たちは殉教しました。
第二次大戦中のドイツで、ナチスによるユダヤ人狩りが行われていた時、ユダヤ人をかくまった人々がいました。
彼らも、当時の権威だったナチスの命令に従わず、自分たちの命の危険を冒しても、無実のユダヤ人たちの命を救うことを選びました。
神を正しく恐れるとは、奴隷のように、人を卑屈にさせる恐れでなく、逆にこの助産婦たちのように、何物をも恐れず、人に崇高な行動をさせる恐れです。
彼女たちが、神を正しく恐れ、命の危険を冒しても、パロの命令に背き、御心に従ったがゆえに、モーセは生き延び、やがて出エジプトという神の御業がなされることになります。
前回、神は、人の悪をも良いことの計らいとなさると学びましたが、また神は、彼女たちのような命を懸けた信仰の行いによっても、御業をなさいます。
ひるがえって、現代、これからどのような時代になるのか、わかりませんが、永遠のいのちを約束されている私たちはなおさら、神を正しく恐れる信仰に立って、彼女たちのような信仰の行いを主にお捧げできるようにと、聖霊の助けと導きを祈らされます。
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