礼拝説教要旨(2021.8.8)
良いことの計らいと
(創世記50:15-26) 横田俊樹師 
<今日の要点>
どんな状況にあっても、最終的にはハッピーエンドを用意しておられる神を信じる。

<あらすじ> 
 前回の続きです。
父ヤコブの遺言に従って、ヨセフは、アブラハム家先祖代々の墓へなきがらを葬りました。
神が、必ず与えると約束されたカナンの地。
神が言葉を発せられた以上、たとえ自分はこの世を去っても、神の言葉はむなしく地に落ちることがないのだから、いつの日か、必ず神はアブラハム、イサクとともに自分を復活させて、約束の地に立たせて下さるに違いない。
どうしてもカナンに葬ってほしいという遺言は、そんなヤコブの、神の言葉に対する信仰の証しでもありました。

カルヴァンは、この墓に葬られるところを見た息子たちも、そのヤコブの信仰にならって、約束の地を受け継ぐ信仰をしっかりと持っていてほしい、との息子たちへの教育的意図もあったとコメントしています。

しかし、そんなヤコブの意図を彼らはどれだけ汲み取ったか。
もしかしたら、ヨセフの兄たちの頭は、それどころではなかったのかもしれません。
というのも、彼らの心は別の心配でいっぱいだったからです。
かつて、まだ血気盛んな若かりし頃、父に溺愛されていたヨセフをねたみ、憎しみの炎が抑えきれなくなった兄たちは、あるとき、ヨセフを縛り上げて、通りすがりのエジプト行きの商人に奴隷として売りとばしてしまった。
その忌まわしい過去の傷がうずいたのです。
もう40年ほども経っていたのに。

それで、ヨセフは、今までは父を悲しませないように、また父の手前、良くしてくれていたが、父がいなくなった今こそ、仕返しに出るのではないか。
そんな恐れが、入道雲のようにムクムクと彼らの心に湧き起こったのです。
実際、彼らのしたことは、一生恨まれるに値することです。

そこで彼らは手を打ちます。
手のきれいなベニヤミンあたりに、でしょうか、ことづけしてヨセフに言いました。
「あなたの愛する父は、実は、死ぬ前に、ヨセフにこう言いなさいと命じておられました。
『あなたの兄弟たちは実に、あなたに悪いことをしたが、どうか、あなたの兄弟たちのそむきと彼らの罪を赦してやりなさい。
』と、父はこのように言っていました。
ですから、どうか、あなたの父の神のしもべたちのそむきを赦してやってください。」

父の神の御名まで引っ張り出して、必死です。
しかし、考えてみればおかしな話。
なぜ、こういうことをベニヤミンに言うのか。
言うなら、ヨセフに直接、言うでしょう。
こんな見え透いたウソを言うほど、いまだに恐れているとは、、。
そう思うと、彼らがあわれで、ヨセフは泣きました。
ヨセフという人は、よく泣く人です。
この様子を隠れて見ていたか、兄たちは、これはイケる!と踏んでヨセフの前に姿を現し、頭を地面にこすりつけて「私たちは、あなたの兄ではありません、奴隷として生かして下さい」と申し出たのでした。

 しかし兄たちの恐れは、まったくの杞憂でした。
ヨセフはすでに、心から彼らを赦していました。
それも、仕方なく赦してやったというのでなく、彼らをあわれみ、かわいそうに思って、やさしい言葉をかけて、慰めてさえ、くれたのでした。
一度は自分を殺そうと思った兄たち相手に。

19-21節「…『恐れることはありません。
どうして、私が神の代わりでしょうか。
あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。
ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。』

こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。」
2回も「恐れることはありません」と繰り返し、念を押して、くれぐれもそんなふうに恐れないでください、と語りかけました。
私たちも兄たちのようなことがあります。
キリストはすでに、私たちの罪、過ちを完全に赦してくださっているのに、私たちの方はそれを知らずに、自分を責め、また恐れているということ。
赦しを信じるというのも、案外、難しいことなのです。
聖霊の助けが必要です。

ヨセフがこんな風に赦すことができたことの一つには、彼がこのことの意味をキチンと信仰によって了解していたからでしょう。
つまり、事柄の背後に神の御手、神の御心を見ることができたからでしょう。
兄たちがしたことは確かに悪。
しかし神は、その悪をも、良いことのための計らいとされた。
ヨセフをエジプトの宰相の地位につけて、ヨセフの手腕によって、多くの人々の命をききんから救うためだった。
そう神のご計画を悟って、初めてこれまでの不可解な不条理な事柄の意味を了解できたのでした。

ここで、自分が今は、幸せだから、というのでなく、「多くの人々を生かしておくため」の神のご計画だったのだ、と言っているところも心に留めておきたい。
私たちの人生は、自分のためだけにあるのでなく、神の御心に仕え、他の人の益となるためでもある。
そのための苦しみだったとして、了解する。
ここにもキリストの似姿が透かし模様のように見えています。

こうしてヨセフと兄たちはその後、仲睦まじく幸せに暮らしたようです。
ヨセフは、孫、ひ孫までひざに抱くことができ、そして、いつしか地上を去るときが近づきました。
彼もまた、父ヤコブから譲り受けた信仰を守り通して、神はいつか必ず私たちを顧みて、カナンに上らせてくださるから、そのときには、私の体を携え上ってくれるようにと遺言します。

ヨセフは、幸せな人生を送ったから、それでもう十分、とはしませんでした。
神の約束を大切に心のうちに握りしめて、御国を待ち望んでいたのです。
神の約束を、信じていただけでなく、望みとしていたのです。
エジプトでの豪奢な生活に溺れず、骨抜きにされず、エジプトの栄耀栄華など、神の国に比べれば無に等しい。
ヨセフは、この世的には何不自由ない生活を恵まれていましたが、彼の心は神の約束を一心に見つめて離れませんでした。

ヘブル書11:13(新約p438)
これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。
約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。

ヨセフは、神の約束を望みつつ、その魂は先祖たちの所へ行き、なきがらは棺に納められました。
彼の望みは、果たして、どうなるのか。
神は本当に、彼の望んだ通り、なさるのか。
そんな余韻を残したまま、次の出エジプトへと続きます。
数百年後のエジプトへと。

「御神の時の 流れの中で すべては 益となりぬ」(新聖歌333番)
今日は20節に思いを巡らしたいと思います。
「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。
それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」
ある人は、これはヨセフ一代、その百年余りの生涯において体得した神学であり、告白だったと言います。人は悪をなす。
しかし神はそれを良いことのための計らいとなさる。
正しい意味でこのことを信じることは、私たちにとって有益です。
もちろん、「だったら、遠慮なく悪を行おう」などと言うべきでないことは、言うまでもありません。
ヨセフも、兄たちを受け入れる前に、かなり厳しく、彼らが本当に悔い改めているかどうか、芝居を打って吟味しました。
彼らは悔い改める必要があったのです。
ただ、神は、彼らの計った悪をさえも、良いことの計らいとなさったのです。

私たちは、兄たちの側になることも、ヨセフの側になることも、あるかもしれません。
人は罪を犯してしまうもの。
ヨセフの兄たちのように、頭に血が上って前後の見境がなくなって、ということもあれば、良かれと思って一生懸命、やったことが間違っていたということもあるかもしれません。

使徒パウロのように、神に精いっぱい仕えていると思っていたのに、正反対のことをしていたということさえ、あります。
人の罪の程の深さは、私たちの思いを超えています。
しかし、真摯に己の罪を悔いる魂に、主はヨセフのように「恐れることはありません。」
と声をかけて下さるのでしょう。
そして、後悔せずにはいられないことも、その時は理解できないことも、最後には神がすべてを良いことのために用いられる。
そのことが分かったとき、それは大きな慰めを与え、神への賛美を生まれさせます。

反対にヨセフの側になったとき。
不条理な苦しみを受けなければならなかったとき。
人々の背後にあって、すべてのことを導いておられる神に心を向けることができます。
それは、私たちの心を守ってくれるでしょう。
人の思惑、感情、意思を超えて、いっさいを超えて御心のままに導いておられる神がおられる。
人は自分に対して悪意をもったとしても、神は自分に対して善意あるのみです。
たとえ一時は苦しみに会うことがあってもー苦しみに会わないと言っているのではありません。

ヨセフも苦しみを通りました。
―そこにも意味がある。
苦しみにあったから、神に愛されていない、苦しみに会わなければ神に愛されている、などという幼稚な考えは卒業しましょう。
キリストの十字架にあらわされた神の愛から目をそらさず、キリストの愛に信頼を置くという、私たちの信仰生活の軸はブレずに持っていることができますように、聖霊の助け、守りを祈ります。

ある人はここのところ、次のようにコメントしていました。
「神は、かつての悪事をも善事となし、災いをも祝福に転じてくださいました。
大きく高い神のご計画の中では、悪人もいつしか奉仕者となり、敵対者も役目を担ったことは枚挙にいとまがありません。
ぜひともローマで福音をのべ伝えたいというパウロの願望は、他ならぬ敵達の反対と告訴によって成就されました。
パウロは官費で護衛付きでローマに渡航したのです。
やがて峠に達して、輝く日の下にたどった道を眺めるとき、いっさいは、みな神の善なる御心のために意味のある、有用なものであったことを知るにいたるのです。」

後から振り返って、ああ、そうだったのか、と分かる。
永遠の視点から見て、そうだったのか、とわかる。
神なしに、人の世界だけでああだこうだと考えていては腹のたつこと、腹に据えかねることがあっても、神の目的という一段高いところに立って考えてみれば、違った視野が開けてきます。

そして、すでに赦されていたのに、赦されていないかのように恐れていた兄たちを、ヨセフはあわれに思い、泣き、彼らを慰め、やさしい言葉をかけました。
御国では、こんな光景が、あっちこっちで見られるのかもしれません。
「復活」のときは「和解」のときでもあるでしょう。
悪を行った者たちを、された側の人が赦す。
あれは、これこれ、このためだったんですよ、と神の御心を仰いで、相手を心から赦して、神をほめたたえる。
その最たるものは、キリストの十字架でした。
ご自身を十字架につけた人間たちの悪、これ以上ない最悪をも、神は尊い救いのための計らいとしておられました。

人生には「?」があります。
人によっては、多くの「?」あるいは深い、大きな「?」、まだ意味が解らない「?」もあるかもしれません。
しかし確かなことは、この世界を治めておられる神がおられるということ。
たとえ私たちには今は、理解できなくても、善なる神の御手のうちにすべてのことがあるということ。

理解はできなくても、信頼して、お任せすることはできるはず。
それも、神を信じる者の人生観、世界観の一つの面です。
ジェラルド・L・シッツァーという神学者は「苦しみに遭う理由と、その苦しみに対する神の意図がよくわからなくても、計り知れない神の御心に自分自身を委ねることこそ信仰です。」
と言っているそうです。
彼は、母と妻と娘を一度になくした人でした。

最後に御言葉を三か所、開きましょう。

詩篇139:17-18(旧約p1046)
139:17神よ。
あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。
その総計は、なんと多いことでしょう。

139:18 それを数えようとしても、それは砂よりも数多いのです。

わけのわからない苦難が突然、ふりかかった義人ヨブが、最後になした信仰告白の言葉。
ヨブ記42:2(旧約p905)
あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。

そしておなじみのローマ人への手紙3:28(新約p302)
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。