礼拝説教要旨(2021.07.25)
信仰によって生きるとは
(ヘブル11:1-16) 柳吉弥太師 
礼拝説教要旨(2021.7.25) =所沢聖書教会=

信仰によって生きるとは (ヘブル 11:1〜16)

 昨年3月末をもって所沢聖書教会の牧師を退いて以来、自分では考えもしなかった出来事が次々と起って、戸惑いばかりの日々・・・という実感のままの今である。
2020年の年明けから、新型コロナウィルス感染症への対応が必要となり、世界中が戦々恐々となった。
日本中も右往左往し、教会も例外でなくなり、感染拡大を防ぐ対策を講じながら今なお終息していない。
私たちは、全知にして全能なる神の御手の中にあることを、決して忘れず、しっかりとこれからも歩みたいと願うばかりである。
救い主イエス・キリストを遣わして下さった父なる神が共におられるとの信仰を心に刻み、聖霊なる神の導きに従い、この地上の日々を歩み抜くことである。

 そのように自分に言い聞かせつつであるが、主なる神が共におられると感謝しながらも、あれこれと迷いや戸惑い、また疑問もわいて来る歩みでもある。
私の信仰の中身は、どのようなものなのか、何を、どのように信じ、何を拠り所として歩んでいるのか・・・等々、重い問が繰り返し心に突き刺さる。
コロナ感染症を鎮めて下さい、と祈りながら、世の多くの人々の祈りと、どこが、どのように違うのか。
これは大きな違いの筈である。

私たちが祈る祈りは、ご利益を求めての祈りではない! 恐らくこれが一番の違いであろう。
私たちの祈りは、神ご自身が生きて働き、最善を成して下さることを求めるものである。
そのことを信じて、神ご自身だけが崇められますように!と。
今朝はそのような視点をご一緒に心に刻みたい。

1、「信仰」と言っても、それを定義するのは思いのほか難しい。
「キリストの信仰」と言うとき、それは「キリストを信じる信仰」であったり、また「キリストご自身の信仰」である、と言われる。
その違いに立ち入ることはせず、ヘブル人への手紙11章1〜2節の言葉を先ず覚えたい。
「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
昔の人々はこの信仰によって称賛されました。」
信仰は目に見えないものを確信させるものと言われている。

そして3節が続く。
「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えないものからできたことを悟るのです。」
以下、「信仰によって」、「信仰によって」と続き、6節が語られる。
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」

 聖書が教える「信仰」は、天地を造られた創造主である神を信じる「信仰」である。
神は無から有を生じさせられた方。
その詳細は、「創世記」に明らかにされている。
そこでは、最初の人アダムが神の言葉に背いて、罪に堕ちたこと、けれども神は、その罪からの救いの道も約束しておられたことが記されている。

更に神は一貫して、人が信仰によって歩むようにと手を差し伸べ、神と共に歩むことの幸いを約束し続けられた。
アベル、エノク、に続いてノアのことが語られ、8節以下、アブラハムのことが記される。
ノアもアブラハムも、その「信仰」の核は、まだ見ていない事がらや、まだ何も知らないことについて、神が語られたこととして受け止め、信じて従ったことにある。
神ご自身の真実だけが、確かな拠り所と信じて従うのである。


2、私たち人間は、何かと目に見えることに頼り、耳で聞いたことを信じ、手で触って安心する。
いわゆる信心は、この世での見返りを求めて祈ったり、金品を供えるのが当たり前である。
見返りなしには、決して捧げものをすることはない、と言っても過言ではない。
私たちクリスチャンも、よくよく省みると、同じように祈っていることがある。

祈りが聞かれるかどうかについて、自分の信仰の良し悪しに結びつけたり、信仰の強い弱いを気にしたりしている。
祈りが聞かれないのは、不信仰だから・・・、また祈りが足りないから・・・と、自分を責めることになる。
確かに、願い事をして聞かれたなら、祈りが聞かれたと感謝するに違いない。
感謝なく過ぎるのは、やはり問題である。
けれども考え違いをしてはならない。


 父なる神を信じる私たちが、父に向かって熱心に祈るのは当然である。
同じことを繰り返し、また切々と祈ることもある。
けれども、神を信じていない人が祈るのと、神を信じる人が祈るのには絶対的な違いがある。
聞かれるか聞かれないかの半信半疑の祈りではなく、また、熱心でなければ聞かれないという思いの祈りではない。
神に計画を変えていただこうというのでもない。

神を信じて祈るとき、祈る私は、「神さま、私はあなたに従います」との信仰を、一層増し加えて下さいと祈ることになる。
時には「不信仰な私を支え、導いて下さい」との思いを込めて。
その祈りは必ず神に聞き入れられる。
父なる神は、子が祈る前から、子の必要を知っておられるからである。


3、「祈るときには、偽善者のようであってはいけません。」
「異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。」
「彼らのまねをしてはいけません。」
マタイの福音者6章で、主イエスは弟子たちに注意しておられる。
落し穴にはまらないように。
神ご自身が生きて働かれることを求め、私は神に従いますとの信仰が、何よりも増し加えられること、そのために祈りが導かれるよう、心することである。

すなわち、この世で、何がしかの益を求める祈りと、そうでない祈りの違いは、自分に見返りがあることを求めるのか、そうではなく、ただ神が働かれることを求めるのかの違いである。
その違いを言い当てているのが13節以下の言葉と考えられる。
「これらの人々はみな、信仰の人として死にました。
約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
・・・」

 「信仰によって」生きた人々、「信仰によって」この地上を歩んだ人々はみな、「信仰の人々として死にました」と言われている。
必ずしも、この地上では報われなかった事実が告げられている。
「天の故郷」をはるかに見て喜ぶ、その「信仰によって」、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していた・・・と。
16節には、「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。
それゆえ、神は彼らの神を呼ばれることを恥となさいませんでした。
事実、神は彼らのために都を用意しておられました」と。
やがての「天の故郷」、「天の御国」こそ、神を信じる信仰によって生きる人々、神の子とされた人々の確かの望み、究極の幸いである。
この事実をしっかりと覚えたい。
見失わないように!

<結び> 私たちは、天と地を造られた神がおられ、神によって生かされていることを忘れないように。
また、最初の人アダムの背きによって、全人類が罪に堕ちたこと、私たちも罪のゆえに神の裁き、死に値することを覚えなければならない。
けれども神は、罪ある私たちのために、御子の十字架の死によって救いの道を備えて下さった。
神の愛が、御子による身代わりの死によって表わされ、信じる者を滅びから救い出して下さるのである。

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
(ヨハネ3:16)
 イエス・キリストを救い主と信じる信仰によって、この地上の生涯を歩み抜くこと、やがて天の故郷に迎え入れられる望みをもって、神と共に歩むことができるよう、そのような信仰によって生きることができるように!!