礼拝説教要旨(2021.7.18)
ヤコブの神、私の神
(創世記49:13-33) 横田俊樹師 
<今日の要点>
決して聖人君子とは言えないヤコブの人生を守り導いた恵み深い神は、私の神でもある。

<あらすじ> 
 前回の続き。
ヤコブが死の床にあって、12人の息子たち、その子孫たちの将来について、神から示された言葉を語っている場面。
今日は、残りの8人を一気に駆け足でみます。

まずは13-15節、十男ゼブルンと九男イッサカル。
ここまで長男ルベン、次男シメオン、三男レビ、四男ユダと順番にきて、いきなり十男、九男に飛びます。
これは母親ごとにまとめて書いてあるためです。
前回見た長男ルベンからイッサカルまでの6人が妻レアから、16節のダンから21節のナフタリまでの4人は、二人の女奴隷ビルハとジルパから。
そして22節以下のヨセフとベニヤミンの2人は、妻ラケルによる子たちという具合です。

 ゼブルン族は、ガリラヤ湖の西側に小さいながら肥沃な土地を与えられました。
13節に「ゼブルンは海辺に住み」とありますが、その後の歴史で彼らが海辺の地を所有したことは、今の所、認められないようです。
が、シドンという地中海に面した港町から内陸に通じる「海辺の道」が領地を通っており、彼らは、それによって海上交易に乗り出していたので、そのことではないか、と言われます。

しかし、主要な道路というのは敵の侵入も受けやすく、BC8世紀アッシリア捕囚でゼブルンの人々は遠い地に捕らえ移されるという憂き目にあいました。
後に、戻ってきた人々もいましたが、その時には混血が進んでいたので、生粋のイスラエル人たちからは「異邦人のガリラヤ」と呼ばれて、さげすまれました。
イエス様の故郷ナザレは、そんなゼブルンの地にありました。
宣教活動の前半は、おもにカペナウムという、ゼブルンとナフタリとの境にあるガリラヤ湖に面した町で福音を宣べ伝えました。
苦しみを受けた地から、まず慰めるイエス様なのです。

イザヤ9:1、旧約p1139。
しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。
先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。

 次、イッサカル族は、ガリラヤ湖の南西にイズレエル平原という大きな穀倉地帯の広がる地を相続します。
彼らは14節「たくましいロバ」のイメージ。
持久力、力強さという賜物をもつ彼らに、肥沃な地が与えられました。
ちょうどうまい具合に、彼らの領地は北のタボル山と南のギルボア山とにはさまれていたので、その姿が、まるで二つの鞍袋を両脇において伏しているロバの姿に見立てられたのでしょう。

ここまでは微笑ましい光景ですが、次の15節は、どの注解書を見ても、好ましくない面が語られています。
肥沃な地ということが裏目に出て、あまり勤勉に働かなくても、そこそこ収穫は得られるので、安逸をむさぼることに慣れてしまった。
休息がいかにも好ましく、とあるように。
次第に覇気を失い、やがてその辺に住むカナン人に言われるままに貢ぎを治めるようになってしまったと言います。

戦って守るという覇気もなく、あたかもロバが重い荷物を背負わされてもジッとしているように、カナン人に隷属し、苦役に服する立場になってしまったのです。
天国ならぬ罪の世にあっては、時には、神が与えた自分たちの独立、自由を守るために戦わなければならないこともあるでしょう。
大切な人、大切なことを守るために、戦うべき時に戦えないと、本人が生きていくのが、つらくなるだろうと思います。

次、16-18節はヤコブの第五男、ラケルの女奴隷ビルハに最初に生まれた子ダン。
女奴隷から生まれたダンも、差別されずに、ほかの兄弟達と同じように、イスラエルを裁くようになる、と言われます。
この「裁く」は、「治める」の意。
彼らは出エジプトの際、3部族を束ねるリーダー的役割を与えられます
(民数記2:25-31、旧約p230)。
17節はダン族が蛇、まむしのイメージで描かれます。
道のかたわらにひそみ、やってくる馬に忍び寄って、いきなりかかとをカブリッとやる。
正々堂々と、雄々しく戦うというよりは、どこかに隠れていて、倒すというイメージ。
彼らの相続地は、最初イスラエル南部で、エジプトとメソポタミヤを結ぶ国際幹線道路に接していましたから、道のかたわらの蛇などと言われているのでしょうか。
のちに半分の部族は最北端に地を得ます。

 ところで、ここまで語ったヤコブは突然、天を見上げるや、
「主よ。私はあなたの救いを待ち望みます。」
と祈りを捧げました。
子孫の未来を示され語っていたヤコブは、その前途多難なことを示されて、思わずこの祈りが口からもれました。
ユダの末から平和の君が来て、地上に平和をもたらすと預言されたけれども、それは今日明日のことではない。
それが実現に至るまで、決して平坦な道ではない。
彼らを待ち構えているさまざまな戦い、苦難。
彼ら自身の背徳・背信行為。
それを思うと、ヤコブは自然とこう祈らされたのでした。

 先に進みます。
19節、ヤコブの第七男、レアの女奴隷ジルパが産んだ最初の子ガド。
彼らは非常に多くの家畜を持ち、ヨルダン川の東側に相続地を得ました。
しかし、その地の原住民であったモアブ人、アモン人などの領地とも接していたため、絶えず侵入されたり、略奪されました。
しかし彼らも負けてはおらず、戦って打ち勝ち、長い間独立を保っていたようです。
19節はそのことを言っているようです。

次は20節、ヤコブの第八男、レアの女奴隷ジルパの2番目の子アシェル。
彼らの相続地は、ガリラヤ地方北西部から地中海沿岸に至る広大な地域で、肥沃な土地である上、海上交易の盛んなフェニキヤの豊かな物資が入って来る地です。
それで、まるで王様の食事のような物で満ち足りると言われています。
カルヴァンは、あたかも神が彼らに次のように語っているかのようだと言います。
「あなたがたが、このような恵まれた相続地を得たのは、偶然でもなければ、運が巡ってきたからでもない。
あなたがたのためにわたしが、そこを定めたのだ。
そこは、わたしが用意した住まいなのだ。」
神への感謝を忘れないように。

ちなみに、これまであたかもヤコブの遺言に従って、相続地が割り振られたかのように見てきましたが、実は彼らの土地の相続はすべてくじびきで決められました。
(ヨシュア記13:7、旧約p391他)。
その結果、神がヤコブの口を通してあらかじめ語られた通りに、割りふられたということでした。
(参照、箴言16:33、旧約p1079)
次、21節。
ヤコブの第六男、ラケルの女奴隷ビルハの二番目の子ナフタリ。
相続地はガリラヤ湖の北西部一帯を占め、ヨセフスが「地上の楽園」と呼んだ豊かな土地。
山地の自由な氏族として伸びる姿が、描かれているのでしょう。

 あと二人。
まずヤコブの第十一男、ラケルの最初の子ヨセフ。
22節の、垣根を越えて繁茂する枝というイメージは、ヨセフの二人の子、マナセ族とエフライム族の繁栄する様を描いています。
彼らの相続地は、ヨルダン川の東西にまたがって、あたかも垣を越えて繁栄しているかのようです。

23節はヨセフの生涯の前半の苦難のこと。
しかし、24節ヨセフの方も、信仰によってその信仰の戦いを勝ち抜きました。
しかしそれは、ヤコブの頼ってきた全能者の御手によることだと、神を指さします。
イスラエルの岩なる牧者の「岩」は、あらゆる敵から身を守る堅固な砦ということ。
聖書では「岩」はしばしば救い主なる神を表します。
それはくれぐれも、あなたを助けようとされるあなたの父の神により、またあなたを祝福しようとされる全能者によること。
だから、高ぶることなく、この神により頼んで祝福を逃さないように、と諭しているのでしょう。
神は、高ぶる者に敵対し、へりくだるものを恵まれます(第一ペテロ5:5新約p458)。
続いて、その祝福は上よりの天の祝福、これは雨による農作物の祝福。
下に横たわる大いなる水の祝福とは、井戸水や湧き水でしょうか。
そして乳房と胎の祝福は子孫繁栄で、あわせて天、地、人と三拍子そろった祝福でした。
26節は、ヨセフが受ける祝福は、ヤコブ自身が父から受けた祝福より勝った祝福であり、永遠の祝福となろう、ああこれらの最高の祝福が、ヨセフのかしらの上にあるように、と祝福を祈りました。
ヨセフには、祝福のオンパレードでした。

 最後、ヤコブの第十二男、末っ子、ラケルによる第2子ベニヤミン。
相続地は、都エルサレムを含む東西に細長い地です。
彼らは、かみ裂く狼のイメージ。
攻撃的、肉食系。
あの大使徒パウロが、このベニヤミン族の出でした。
かつてはそれこそ、かみ裂く狼のように、朝に夕にクリスチャンを引っ捕まえては、女・子どもも容赦なく連行していた迫害の大将でしたが、ある日、復活のキリストにであって、福音を宣べ伝える宣教者となりました。
彼は、クリスチャンになったからと言って、おとなしくなったわけではなくて、今度は福音宣教のために、積極果敢に地中海世界を飛び回るようになったのでした。

 こうして父親として、預言者として、最後の責任を渾身の力を振り絞って果たして、最後は、先にヨセフにも固く誓わせたように、ほかの11人にも、自分のなきがらをカナンの地、あの約束の地に帰して、そこに祖父アブラハムが購入してある墓に納めるようにと命じました。
そして、すべてを語り終えると、ヤコブは、眠るがごとくに地上の旅路を終えました。

33節「ヤコブは子らに命じ終わると、足を床の中にいれ、息絶えて、自分の民に加えられた。」
波乱に富んだ生涯の最期は、静かな、平安な旅立ちでした。

「ヤコブの頼みし 活ける神仰ぐこそ げに幸いなれ」新聖歌17番
三人の族長のうち、最も人間臭く、それゆえ人気のあるヤコブ。
彼は、生まれるときから兄エサウのかかとをつかんで出てきて、長じては、腹ペコのエサウの弱みに付け込んで、一杯の煮物と引き換えに長子の権利を手に入れたり、さらには罪の上塗りで、父イサクを欺いてエサウの祝福を横取りしたり、お世辞にも聖人君子とは言えない人物でした。
おかげで家にいられなくなって、遠くアラムの地に逃避しなければならなくなりました。
しかし、そんな中、不安と恐れにおののくヤコブに主なる神は
「…わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」
(28:15)とお語り下さったのでした。

自分で蒔いた種で招いた状況なのに…。
このあわれみ、この恵み。
これがあるからこそ、自分のような者も、神を頼ることができる。
神様、ありがとうございます、と手を合わせさせられます。
神はその言葉通り、その後も彼を守られました。
人でなしのラバンのもとで辛酸をなめさせられた20年も、カナンに帰るときも、帰ってからも、生きた心地もしないことが何度もありましたが、そんな彼をその都度、守って下さいました。

最愛のヨセフが死んだと思っていた22年間はヤコブにとって長い長い最暗黒のときでしたが、その間も神はヤコブの信仰がなくならないように、長い長い間支えました。
そしてついには感動の再会を果たして、最後の17年は愛するヨセフとともに平穏な日々を恵まれたのでした。
波乱万丈のヤコブの生涯でしたが、過ぎてみれば、神はすべての苦難から救い出して下さっていた。
ここまでヤコブを守り導かれた神のご忍耐、お恵み、ご愛の深さを思わされます。
そしてこの同じ神が、私たちの神なのです。

Tコリ 10:13(新約p331)
あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。
神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。
むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

18節のような言葉が、最後の瞬間にも自然と口から出て来るというのは、ヤコブはこれまでの人生において、事あるごとにこう祈り、そして助けられてきたのでしょう。
私たちも生涯のうちに何度か、
「主よ。私はあなたの救いを待ち望みます。」
と天を仰がされることがあるかもしれません。
苦しみの中で神に叫ぶ機会が多いのは、こちらとしては決してうれしいことではありませんが、できれば少ない方がありがたいですが、しかし霊の目で見れば、それは神の目には実は尊い、神聖な瞬間なのかもしれません。
神に真剣に祈ることなく、スイスイと人生を歩んでいる人よりも、むしろ、そういう人にこそ、神は近くにおられるのではありませんか。

いつの時代にも変わることなく、ヤコブがより頼み、信仰の先輩たちが代々、より頼んできた神、そしてそのすべての苦難から救い出し、守って来られた神。
私たちも、その同じ神により頼むことができる幸いを覚えたいと思います。