<今日の要点>
キリストは、私たちに神との揺るがない平和を確立して下さった。
<あらすじ>
族長ヤコブ、別名イスラエルの晩年の記事が続きます。
この49章はヤコブが最期に語った12人の子たちへの遺言であり、また預言とされる箇所です。
ヤコブが個人的に、この子にはこうなってほしいとか、こっちの子はこんなふうになるだろうとか、親が勝手なことを言っているというのではなくて、聖霊による霊感によって、彼らの子孫、すなわちイスラエル12部族の将来について預言しています。
1節「終わりの日に」は、「後の日」とも訳せます(文語訳、新共同訳)。
ここでは、将来のことと、終末のことと両方を含んでいます。
また「予言」でなく「預言」ですから、単なる将来の予告という以上に、彼らに必要な戒めもあります。
それはまた、今、世を去ろうとしている父親としての、最期の責任だったとも言えるでしょうか。
2節「ヤコブの子らよ。
集まって聞け。
あなたがたの父イスラエルに聞け。」
と同じ内容を二回繰り返すのは、これから話すことがとても重要であることを表します。
襟を正して、聞け、と。
ちなみに、聖書ではこういう2つの文や句を並べる並行法という形がよく見られます。
同じ意味を繰り返して強調したり、反対のことを並べて対称を際立たせたりします。
覚えておくと、聖書を読むのに役立つコツの一つです。
まずは長子ルベン。
「見よ、わが子を」の意で、妻レアが誇らしげにつけた名前。
当時、長子のしかも男の子は、跡継ぎとして特別な栄誉を与えられました。
それで3節、あなたはわが長子、わが力、わが力の初めの実、すぐれた威厳、すぐれた力のある者、と五重の賛辞を連ねます。
しかし残念なことに、それらの賛辞は、ルベンの栄誉をたたえるよりも、むしろ嘆きを深め、恥辱を増し加えるものとなってしまいました。
以前、35章22節に記されていたスキャンダルの故です。
ルベンは、父ヤコブのそばめビルハと通じたという痛恨の出来事です。
4節で咎められているのはそのことです。
「水のように奔放」とは、濁流のように欲望がほとばしり出て、抑えが効かないことでしょう。
自制心がない。
それゆえ彼はもはや、他をしのぐことはないと言われました。
ルベン族は、のちに死海の東側に定着、砂漠のモアブ人の脅威にさらされ、大きくはなりませんでした。
カナンに入る直前にはモーセに「ルベンは生きて、死なないように。
その人数は少なくても。」
と祈られました(申命記33:6、旧約p365)。
また、ルベン族からは王も士師も預言者も出ませんでした。
お次は、次男シメオンと三男レビ。
彼らも脛に傷を持つ身。
何を言われるか、縮こまりながらヤコブの言葉を待ってると、案の定、彼らはルベン以上の厳しいお叱りを頂戴してしまいました。
7節には「呪われよ」と呪いの言葉まで出てきます。
で、彼らが何をしたかと言うと、34章に記されていた、例のシェケムで、妹ディナを汚されたと知った彼らが、怒りのあまり分別を失って、無実の村人までいっしょくたに全員殺してしまったという事件でした。
5節「彼らの剣は暴虐の道具」は、そのことです。
そんな彼らには父ヤコブの口から、聞く者を凍らせるような言葉が向けられました。
6節。
これも並行法で強調しています。
「わがたましいよ。
彼らの仲間に加わるな。
わが心よ。
彼らの集いに連なるな。」
たとえ肉親であっても、そのような悪をともにしてはならない。
暴虐を企む者は、神の民の中で仲間を得ることができるなどと思うな。
そのような怒りは、呪われるのだ!と雷を落とされました。
まるで、そんな悪事をするものは、親でも子でもない!という剣幕です。
この薬は効いたでしょう。
前後の見境なく怒りを爆発させてしまった愚かさが、心底、こたえたでしょうか。
箴言12:16(旧約p1073)
愚か者は自分の怒りをすぐ現す。
利口な者ははずかしめを受けても黙っている。
ストレスの多い昨今、ついイライラ、ドッカンとやってしまわないよう、自戒しましょう。
なお、7節後半「彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中で散らそう」について、シメオン族の相続地はユダの相続地の中にありましたが(ヨシュア19:1-9、旧約p400)、ダビデの時代以後はユダの相続地に統合され、人々は各地に散って行ったと思われます(第一歴代誌4:24以下、旧約p689)。
他方、レビ族は、呪いとして宣告されたこの言葉が祝福に転じて成就しました。
出エジプトの時の金の子牛事件の際、モーセとともに敢然と主につくことを選び取った彼らは、神に仕える祭司の部族とされました。
それで、イスラエルの町々で律法を教える祭司として、各地に散らされるようになったのです(民数記18:23、旧約p265、ヨシュア記21章、旧約p403)。
自分で蒔いた種も、その後に悔い改めて歩んでいけば、恵みに変わるという不思議です。
そういえば、よくよく見てみると、ここで呪われたのは、彼ら自身ではなく、「彼らの激しい怒りと、彼らのはなはだしい憤り」でした。
アダムが罪を犯したときに、呪いの矢がアダム自身に突き刺さらずに、いわばかすっただけで、土地に突き刺さったように。
ここにも神の憐みと自制が効いています。
呪いが直撃したらひとたまりもありませんが、彼らの激しい怒りやはなはだしい憤りだけが呪われたのであれば、悔い改めれば生きるのです。
ここにも残されていた神の憐れみを見よ、です。
さて、以上の三人は、今、地上を去ろうとする父ヤコブにこんな調子でこんなことを言わせてしまったのですが、四番目に登場するユダは、ヤコブの気持ちを明るくしてくれました。
「ユダ」とは、「ほめたたえる」の意(29:35、p51)。
ユダは、ヨセフを売り渡した一件の後、自暴自棄になってか、38章で見たような大失態を演じてしまいましたが、そのどん底で、己の罪を認め、悔い改めました。
それは本物の悔い改めでした。
その後のユダは責任感のある立派な信仰者になった様子がうかがわれます。
特に、ベニヤミンがエジプトに捕らえられそうになった時には、代わりに自分が奴隷になるから、どうかベニヤミンを父のもとに帰してやって下さい、と自分から強い願いをもって申し出ました。
愛から出た自己犠牲の姿勢です。
そこにはすでに、やがてユダの子孫としてお生まれになるキリストのお姿が透かし模様のように浮かんで見えました。
そんなユダには、尋常ではない祝福が与えられました。
8−12節でユダは、百獣の王ライオンのイメージが与えられました。
兄弟たちはあなたをたたえ、あなたの手は敵のうなじの上にあり、つまり敵の首根っこをつかまえて押さえつける図でしょうか、そして、あなたの父の子らはあなたを伏し拝む。
これはユダ族からイスラエルの王が出るという預言です。
特にダビデ王時代は、向かうところ敵なしで周囲の敵を勢力下に治め、その子ソロモン王の時代にイスラエルは最大版図となりました。
ユダ族はイスラエルの歴史において中軸となり、分裂後も南王国の屋台骨として最後まで支えました。
王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない、ある通りです。
(これも並行法)
そして10節後半にくると、「ついには」と、ユダ族から究極の最終的な王の到来を預言します。
「ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。」
イスラエル一国ではなくて、諸国の民も従う、特別な王の到来です。
ここは「シロの預言」として有名な箇所です。
「シロ」という言葉の意味については諸説ありますが、ヘブル語のシャロームという言葉と関係があるとする説を取ります。
平安があるように、などと挨拶で使うシャロームです。
それでここは、「ついには、平和をもたらす者が来て、国々の民は彼に従う」という意味になります。
それまでユダ王国も繁栄するとは言え、敵対する国々もあり、戦いは避けられなかった。
それが最後には、平和の君が来て、国々の民はみな、彼に従い、もはや平和を脅かす敵もいなくなる。
そして11-12節はその平和の君が来臨した王国の豊かさを描いているとされます。
普通、ロバをぶどうの木につないだら、喜んでぶどうの実をムシャムシャと食べてしまうでしょうが、ロバにさえ、そのような良いものが与えられる豊かさを表わしています。
11節後半の「着物をぶどう酒で洗う」とか「衣をぶどうの血で洗う」も、ぶどう酒を水のように用いるほど豊かであることの誌的な表現とされます。
12節の米印のところは欄外中にあるように「ぶどう酒より黒く」と訳されて、健康的な様子とされます。
目の黒さと歯の白さと対照させる並行法で、歯磨き粉のCMになりそうな絵です。
聖書の「平和」は単に争いがないという状態ではなく、アダムが罪を犯す前、創造の初めにあったような祝福に満ちた状態という積極的な意味。
霊的にも物質的にも祝され、満たされる平和です。
その平和をもたらす王がユダ族から出るという預言なのです。
さて、このシロとは、平和の君とは、誰のことでしょう?もちろん、イエス・キリストのことです。
ダビデ王、ソロモン王は前座。
真打はイエス・キリストです。
ここに描かれていた豊かさのあふれる光景は、キリストの再臨の時に完全に成就します。
「栄えに満ちたる 神の都は 千代経し巌の 礎固く 」(新聖歌145番)
キリストは平和の君ということを少し、掘り下げて考えましょう。
神との関係で平和というときに、二つの平和があります。
「神との平和」と「神の平和(神が与える平和)」です。
そして重要なことは、神との平和なしに、神の平和はない。
心の平安もない、ということです。
神と戦いながら、神に敵対していながら、平安はありません。
私たちのいのちの源であられ、すべてを治めておられ、全てを正しく裁かれる神との平和がまず第一に、私たち人間に必要なことです。
その後に、その結果として、神の平和が与えられます。
神がともにおられることから来る、理屈を超えた平安が与えられるのです。
キリストは、その神との平和のために十字架にかかられました。
キリストの十字架は、私たちに神との平和を与えるためです。
私たちが神との平和を得るための根拠は、私たちの行いや性質の良さはこれっぽっちも含まれません。
100%ただキリストの十字架の御業、キリストの完全な義をただで頂いて、そのキリストの完全な義のゆえに、神との平和は揺るがないのです。
神は私たちにではなく、キリストの義に目を注がれるのです。
これらのことをふまえて、ルベン、シメオン、レビのことを考えると、どうでしょう。
確かに彼らに向けられた言葉は、厳しいと感じます。
しかし、忘れてはいけません。
彼らもこの後、イスラエルの12部族として保たれていることを。
救いの恵み、選びの恵みは、微動だにしなかったことを。
それがあっての、あの??責なのです。
雷なのです。
彼らも神にとって、高価で尊い存在でした。
後に、出エジプトの後、大祭司が神に仕え、民をとりなす者として立てられます。
それはキリストを表すものです。
その大祭司がつける胸当てには、十二部族の名を表す印が、高価な宝石に刻まれ、金の枠にはめ込まれて、大祭司の胸にかけられました(出エジプト28:15-21、旧約144)。
あの三人を除いた九部族の名ではありません。
十二部族です。
大祭司は、あの三人の名も含めた十二部族の名を携えて、至聖所(神の臨在の場)に出て、あがないをしたのです。
ルベン、シメオン、レビも、こんなに尊ばれて、神の御前に運ばれ、覚えられるのだと、神ご自身が定められたのです。
さらに黙示録21章には、世の終わりに天から降りてくる、神の栄光に満ちた聖なる都エルサレムの光景が記されますが、その都には十二の門があって、それらの門には十二人の御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてありました(21:12、新約p501)。
ここも九部族でなく十二部族の名が刻まれているのです。
ルベンもシメオンもレビも、確かに神の恵みの中に保たれて、世の終わりの日、十二部族の栄誉を与えられるのです。
彼らは救われており、彼らが永遠の輝かしい御国を受け継ぐことは、揺るがない。
なぜか?それは、キリストの義のみが、救いの根拠だからです。
この救いの土台はびくともしないのです。
8節に兄弟たちがユダをほめたたえるとあったのは、この三人も含めて他の者も、心から自分の義となって下さった救い主をほめたたえるという意味において、完全に成就するのでしょう。
10節の、国々の民は、彼に従うも同様です。
私たちも、このキリストの揺るがない義を頂いていることを確かめて、神との平和を喜び、神の与える平和を喜びましょう。
ローマ書5:1(新約p296)
ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
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