<今日の要点>
人生にはさまざまな苦しみがあるが、最後には羊飼いなる主が、信じる者を守って下さる。
<あらすじ>
前回は、晩年を迎えたヤコブが、自分のなきがらを、どうしても、遠路はるばるカナンの地に葬ってくれ、とヨセフに託した場面でした。
今度は、残していく子どもたち、孫たちに、ヤコブがどうしても伝えておきたいことです。
カルヴァンは、この48章でのヤコブの意図は、ヨセフの心を神の約束に結び付けることだったとします。
すなわち、ヨセフがエジプトでの満たされた生活、それこそお大臣様と仰がれる生活にすっかり魂を奪われ、神の約束されたカナンの地のことなど、どうでもよくなってしまわないか、案じたというのです。
ヨセフは立派な信仰者ではあるが、人間は弱いもの。
万が一にも、今の生活さえ満たされれば、神がどうのこうの、面倒なことはいらない、などとなってしまいかねない。
あのエサウのように。
神は、宗教は、要するに、今の生活を良くするためにあるもの。
必要がないなら、別になくてもいいこと、などと生悟りなことを言い出さないとも限らない。
確かに、それはいつの時代にもあることでした。
ピリピ3:19-20(新約p387)
・・・彼らの思いは地上のことだけです。
けれども、私たちの国籍は天にあります。
そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
もちろん、今の目の前の生活も大切ですが、それがすべて、というのは、神の民のあり方ではない。
信仰者の世界観ではない。
神の約束して下さった天の御国を受け継ぐことこそ、究極の希望。
聖書は最初から最後まで、この望みを差し出しています。
この世界を造られた神は、この世界とは別に、永遠の御国を用意しておられる。
そっちが本番。
神が、ご自身の愛する子たちのためにと永遠の昔から用意しておられる、とっておきの場所。
これを逃すのは、前座だけ見て真打を見ないのと同じ。
前菜だけ食べてメインディッシュを食べないのと同じ。
それ以上にもったいないこと。
そのすばらしい御国を受け継ぐのに必要なのは、ただ神の約束を信じること。
御子イエス・キリストを信じる者は、みな、ただで、この御国を受け継がせてもらえるという、その恵みの約束を信じること。
そして信仰者は、この望みに究極の価値を置いて、今の生活を方向付け、整える。
あかしの生活を送れるよう、聖霊と御言葉を求めて歩む。
そんな信仰者のライフスタイルです。
さて、147歳の父ヤコブが病にかかったと聞いたヨセフは、すぐさま二人の息子を連れてかけつけました。
大エジプトの宰相として激務にあったでしょうに。
ヨセフが来たと聞いて、弱っていたヤコブは力を振り絞って床に座りました。
そうして今度は、やがて受け継ぐ約束の地の相続のことについて指示しました。
ヨセフの子であるマナセとエフライムをヤコブの子にするとは、本来、ヤコブの孫にあたるマナセとエフライムも、息子とすることによって、ヤコブから相続地を受ける資格を与えるということです。
そして、彼らのあとにヨセフに生まれる子たちは、マナセまたはエフライムの子とします。
ヨセフの子孫は、マナセとエフライムの二つの部族に分けられるわけです。
ですからヨセフ族は、マナセ族、エフライム族の2部族になります。
こうすることで、ヨセフは二倍の分け前を受けることになります。
こうして、イスラエルの12部族というときに、ヨセフ族という名前は見られず、代わってエフライム族、マナセ族の名が記されることになりました。
こうして話しているうちに、ヤコブは突然、愛妻ラケルのことを思い出したのでしょうか。
7節に突然、「私のことを言えば・・・」と彼女を失った悲しい記憶が口から漏れました。
もう何十年も昔のことですが、いまだにラケルのことを思い出すとズキンと心が痛んだでしょうか。
ヨセフはラケルの最初の子でしたから、ヨセフにもこの悲しみを分かち合いたいと思ったのでしょうか。
また、母ラケルもカナンの地に葬られているということも、ヨセフの心をカナンに向かわせることになったでしょう。
そこまで話して、ふと、ヤコブは、ヨセフの後ろに誰かいることに気づきました。
ヨセフは、「神がここで私に授けて下さった子どもです」と、ここでもヨセフらしく「神が」と神の主権を認めて紹介します。
すると「それはちょうどいい」とばかりに、さっそくこの場で、二人を祝福しようと言います。
孫を抱きよせ、口づけして、しみじみと神の恵みを実感したか、「神は、ヨセフだけでなく、ヨセフの子どもまで見させて下さった」と神への感謝を捧げました。
ヨセフもまた、子たちを引き寄せて、顔を地に着けて神を礼拝しました。
そして、祝福の祈りに入ります。
ここでちょっとしたアクシデントが起こりました。
当時、右手のほうが左手より大きな祝福を表しました。
ですからヨセフは、当然、長男のマナセがヤコブの右手側に来るように、そして次男のエフライムが、ヤコブの左手側に来るように、ヤコブに向き合わせた。
ヤコブがそのまま手をまっすぐに前にのばせば、右手で長男のマナセを祝福し、左手で弟のエフライムを祝福する事になるはずでした。
ところがヤコブは、わざわざ右手と左手を交差させて、右手を弟のエフライムに、左手を兄のマナセの方に伸ばして、祝福したというのです。
弟のエフライムのほうを上にしたのです。
こういうことはこれまでにもありました。
神の選びは、人間的な価値基準にはよらない、自由に決められることを表すためでした。
ヨセフは、当時の常識に従って、それは間違っていると思い、ヤコブの手を直そうとしましたが、ヤコブは「いや、これでいいのだ」と振り払って、構わずそのまま続けました。
兄も大きな部族になるが、弟はそれよりも大いなる部族になるという預言でした。
のちにイスラエルは10部族からなる北王国と2部族からなる南王国とに分裂しましたが、北イスラエルのことをエフライムと呼ぶようになりました。
エフライムが北王国の中心的な勢力になっていたのです。
そして20節は、やがてイスラエルの人々は、「神が、あなたをエフライムやマナセのようになさるように」と言って、互いに祝福しあうようになるという預言。
祝福の例とされるほど祝福されるというのです。
21-22節で、ヤコブはもう一度、約束の地にヨセフたちの心を結び付けます。
自分はもうすぐ世を去るが、神はあなたがたとともにおられ、あなたがたを先祖の地に帰して下さる。
そのあかつきには、私がかつて剣と弓とをもってエモリ人の手から取ったあのシェケムをあなたに与えよう、と。
ヤコブが剣と弓でシェケムの地を取ったという記事は聖書にはありません。
100ケシタで土地を買った記事はあります。
エモリ人が奪い取りに来たときに、ヤコブが剣と弓で戦って守ったということではないか、などと言われます。
ヨセフの遺骨もそこに葬られることになります。
「妙なる御恵み 日に日に受けつつ」(新聖歌300番)
今日は、15−16節のヤコブの祈りに注目します。
「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神。」
これはただ単に先祖伝来の宗教ということではありません。
これまで読んできたように、彼らにとって神は、正真正銘、生きて働かれる神、実際に彼らに語りかけ、約束を与え、彼らを導き、あらゆるわざわいから守って下さった方です。
ヤコブもそんな話を聞いて育ったのでしょう。
それもアブラハム、イサクと代が代わっても、変わらずに真実にご自分の民を守り、道いてこられた神です。
その神をヤコブ自身も経験してきました。
「きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。
すべてのわざわいから私を贖われた御使い。・・・」
16節の「御使い」とは受肉以前のキリストのこと。
実際にヤコブの歩んできた道を振り返ると、この祈りはヤコブの実感だったと思われます。
ヤコブの人生も、決して平坦な道ではありませんでした。
自分で蒔いた種とは言え、カナンの家にいられなくなって、一癖も二癖も三癖もあるおじのラバン狸のところに身を寄せて苦節数十年。
さんざんだまされ、只働き同然の数十年を送らされました。
カナンに帰るときも、自分がかつてだました兄エサウが400人を引き連れて向かっていると聞いて、生きた心地もなく、明日の今頃はこの世にいるのかどうか、と思うと、夜通し祈らずにはいられませんでした。
シェケムでは娘のディナのことで地元の人々を敵に回してしまい、あわや、全滅かという危機もありました。
それにヤコブ自身、悲しいことと告白していましたが、おなかの大きなラケルに旅をさせて、無理がたたってか、彼女を失うという悲しみもありました。
そして目の中に入れても痛くないヨセフのことも、野で獣に裂かれて死んだものと思って、何と二十数年間も悲嘆に沈む日々を過ごしました。
しかし、そんな中にも、よく考えてみれば、神の恵み、守りはありました。
ラバンの所では不条理な目に会ったものの、ちゃんと最後には神がヤコブに大いに報いて下さり、多くの家畜を伴ってカナンに帰ることができました。
エサウの一件も、エサウは過去のことをきれいさっぱり水に流してくれていて、全滅どころか感動の再開ができ、和解して、兄弟のきずなを回復することができました。
シェケムでの一件だって、結局は主が、回りの原住民たちが恐れを抱くようにして下さり、事なきを得てそこを出ることができました。
ラケルの事だけは、今でも悲しみとして残っていますが、それもやがての復活の希望があります。
むしろ、ラケルが先に召されたことは、ヤコブをますます神の約束を待ち望ませたでしょう。
そして最愛のヨセフは、ヨセフだけでなく、その子どもの顔まで見ることができるようにして下さいました。
つらかったこと、苦しかったこと、危うかったこと、思い出せば数々ありますが、またそういった時に支えられたこと、守られたことも、同じ数だけあって、こうしてこの日まで生き延び、幸いな晩年を恵まれたのでした。
それも自分で蒔いた種であったことさえも、です。
神は守って下さった。
ヤコブは、晩年を迎え、自分の一生を振り返って、改めて、神こそが自分の羊飼いであられ、あらゆる災いから守って下さったと、しみじみと実感したことでしょう。
信仰者の人生にも、苦難はあります。
しかし、最後は神の真実を礼拝させられるのでしょう。
第一コリント10:13(新約p331)
あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。
神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。
むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。
そして、この神が、この子どもたちをも祝福して下さるように、と心から祈ったのでした。
16節は、のちにイスラエルの人々が「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と神を呼ぶようにとの願い。
ヤコブたちが信じたこの神から子孫たちも離れず、この神の名が呼ばれ続けますように、と。
事実、のちにイスラエルの人々は、こう神を呼びました。
私たちも、人生を振り返って、自分自身が多くの恵みを頂いてきた、その神の恵みが、おまえたちにもあるように、と実感のこもった、受け売りではない言葉を言える者でありたいと願わされます。
この、私がよく知っている神が、おまえたちをも祝福して下さるように、と。
パウロも、自分が信じてきた方をよく知っており…と言っていました(第二テモテ1:12、新約p413)。
自分が信じてきた方がどんな方か、ぼんやりした存在でなく、よく知っていると言える存在になっていた。
神というお方は、よく従うほど、よく知ることができるのでしょう。
人とのかかわりでも、深くかかわるほどに、相手のことがよくわかってくるように。
そういった神との人格的な交わりを深める歩みを一日一日、積み重ねたい。
最後にカルヴァンの注解書から。
「ヤコブは気づいていた。自分は普通ではない仕方で、つまり、神の御力によって、数々の危機から奇跡的に救い出されたのだということを。
そして彼自身、大きな障害を前にしても、・・・信仰の翼によって、善なる神に向かって羽ばたいていった。
彼は悪の塊に押しつぶされることなく、どんなに深い暗闇の中でも、変わらぬ神のご好意を確信していた。
…我々はここから学ばなければならない。
我々人間を見守られ、我々をあらゆる悪から救い出されることが、キリストの本来の務めであった。
・・・キリストは今、我々に向けて広く御声をあげておられる。
『わたしに委ねられた信仰者たちを、わたしは見守りのうちに置き、決して滅ぼしたりはしない』と。」
ヨハネ6:39(新約p186)
わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。
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