<今日の要点>
キリスト者は、世を去るとき、先に召された兄弟姉妹とのいる所に移され、やがて栄光の身体に復活して、永遠の神の御国を受け継ぐ。
<あらすじ>
波乱万丈だったヤコブ、別名イスラエルの生涯も、ついに晩年を迎えます。
130歳でエジプトに来て17年、それまでとは打って変わって、平穏な日々を恵まれ、子孫が見る見る増えて、神の祝福を年々、目に見えて実感したでしょう。
27節「・・・彼らはそこに所有地を得、多くの子を生み、非常にふえた。」
とありますから、当初70人ほどだったヤコブ一族も、46章のリストを参考に計算すると、300人くらいにはなっていたでしょうか。
エジプトに下ることに恐れを抱いていたヤコブに、神はベエル・シェバで「恐れるな。
わたしはエジプトであなたの子孫を増やす」(46:3)と語られた、その言葉が成就し始めていたのでした。
そしてヤコブ147歳。
地上の旅路を終える日が近づいたのを悟ってでしょうか。
ヤコブはヨセフを呼んで、遺言を託します。
それは自分が死んだあと、自分のなきがらをどうしてほしいか、ということでした。
ヤコブは、このことをヨセフに明確に伝えていました。
以前は、こういうことを言うのは、タブーとされていたきらいがありますが、今はテレビでも葬儀のCMをやるなど、だいぶ意識が変わってきました。
自分自身の葬りについて、後は野となれ、山となれ、ではなく、立つ鳥跡を濁さず。
「キリスト教式で」、「教会にお任せする」など、ご家族の方にキチンと意志を伝えておくことが、大切です。
ある兄弟は、何十年も教会に通っていましたが、家族にはご自分がクリスチャンだということを言っていなかったため、その時が来た時に、教会はそのことを知らず、葬儀は仏式で行われてしまいました。
もちろん、葬儀が何式であれ、本人がキリストへの信仰をもっていれば、救われます。
葬式のやり方で救いがどうこうということは、全くありません。
しかし、無用な混乱を避けるため、自分の葬儀について、残される方々に明確に伝えておくのがベターです。
できれば愛唱讃美歌、好きな聖句などは毎年、書き留めて牧師に渡しておいてもよいと思います。
自分史(証し)も用意できたら、申し分ありません。
葬儀は、ご本人の希望にできるだけ、沿って行いたいと思っています。
ちなみに、葬儀社の方3名の対談記事によると、近年は、コロナ以前から前夜式・葬式を行うのは15%以下で、1日葬が主流になっていて、キリスト教葬に限らず、小さなお葬式が増えてきていたとのことです。
他方、できるだけ多くの人に参列してもらいたいという方もおられます。
先日配った「プレスビテリアン」(長老教会の広報誌)に、井荻福音キリスト教会の長老さんの葬儀のことが紹介されていました。
生前、ご本人は多くの人に参列してもらいたいと希望していましたが、コロナ禍の中でどうするか、ということで、インターネットを使って葬儀を生中継し、多くのご友人に参列してもらい、永遠のいのちの希望をおわかちすることができたとのことです。
静かに少人数でも、また多くの方々に参列してもらうでも、どちらでもご本人の希望に沿って行いますので、大切なのは本人の希望を明らかにしておくことです。
さて、ここでヤコブという人は、何かと手回しのいい人なので、残された人が困らないように、と人並みな気遣いをしただけなのかというと、そうではなくて、これは、それ以上の意味があったように思います。
29節「手をももの下に入れる」というのは、誓約を行なうときの厳粛な儀式です。
「愛と真実」と訳された言葉は「ヘセド ヴェ エメト」というヘブル語で、神に対して使われるときは「恵みとまこと」と訳される言葉です。
よく組で使われます。
「恵み(ヘセド)」とは、注解書によると、「しばしば感情的なものよりは意志的なものを表し、契約をどこまでも守ろうとする心を言う。」
とありました。
移り行く感情的な愛ではなく、困難があってもやり抜く愛ということでしょうか。
こうしてヤコブはヨセフに、厳粛な誓いをさせて、愛と真実を、私に尽くしてくれ、と頼みます。
ヤコブの、並々ならぬ強い意志が感じられます。
そこまでして、ヤコブがヨセフに頼みたいこととは、何だったのか。
それは、自分のなきがらを、エジプトには葬らないで、遠い約束の地カナンに運んで、先祖アブラハム、イサクたちの墓に葬ってくれ、ということでした。
「このエジプトは、豊かで居心地のいいところではあるが、しかしここは私の受け継ぐべき地ではない。
手間をかけて申し訳ないが、大変でも、ここから運び出して、あの、神が受け継がせると約束して下さった地カナンにある先祖の墓に葬ってくれ。」
とヨセフに託したのです。
どうして、ヤコブはそこまで、カナンの地にこだわっていたのか。
ヤコブは、30節「私が先祖たちとともに眠りについたなら」と言っているように、このままエジプトで死んでも、自分自身は先祖の所に行くと信じていました。
魂は、先祖の所に行くのです。
懐かしい人達の所に行くのは、それはそれでうれしさもあるでしょう。
ヤコブは、そこは心配していませんでした。
ではなぜ、どうしても、なきがらをカナンの地に葬ってほしかったのか。
それは、いつの日か、アブラハム、イサクとともに、カナンの地を受け継がせて頂くという、その神のお約束を信じていたからです。
神が一度、約束されたことは、必ず果たされる。
たとえ自分が死んでも、神は復活させてでも、その約束を果たされる。
神は真実な方。
ご自分の言葉に忠実な方。
そして神にとって不可能はない。
だから、その時まで、自分のなきがらは、あの約束の地カナンに葬ってもらって、そこで復活できるように、その日に備えたい・・・、そういうことだったのでしょう。
信仰とはこういうものだったか、と教えられます。
自分はもうすぐ死ぬ。
カナンの地を受け継がせるという、あの約束はどうなったんだ!ウソッパチじゃないか!とキレるのでなく、自分は死んでも、神の言葉は真実なのだから、自分はいったん死んでも、そのあと、いつの日か、神は復活させて、その地を与えて下さる、と御言葉を真実なものとする。
神の言葉を神の言葉とするとは、こういうことだったのか、と教えられるのです。
こうヤコブから後を託されたヨセフは、「きっとあなたの言われた通りにいたします。」
と応え、厳かに誓約しました。
31節「おじぎをした」は礼拝したとも取ることができます。
ヤコブは最大の気がかりを、信頼できるヨセフに託すことができて、神に感謝をささげたのでした。
これでもう何も思い残すことはない、と。
「われらついに輝く御国にて きよき民と 共に御前に会わん」(新聖歌517番)
今日の箇所は、ヤコブ晩年の記事でした。
意外なことにと言いますか、信仰者の晩年の様子が記されるのは、ここが初めてです。
アダムから始まり、義人ノア、そして族長アブラハム、イサクと、○○年生きたと生涯の年数は記されていましたが、晩年、どういうことを思っていたか、については記されていません。
聖書の中で、初めて出て来ることというのは、その事柄に関して大切なメッセージを伝えていると思われます。
今日は以下2点。
@ヤコブ自身は、先祖の所に行く
ヤコブは、地上を去って、先祖たちとともに眠りにつくと言いました。
これは気休めではありません。
事実、私たちは死んで消滅するのでなく、先に天に召された兄弟姉妹たちがいるところへ行くのです。
イエス様も証言していました。
マタイ22:31-32(新約p46)
それに、死人の復活については、神があなたがたに語られた事を、あなたがたは読んだことがないのですか。
『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。
神は死んだ者の神ではありません。
生きている者の神です。」
神が「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と語ったのはモーセの時代のことです。
それは、アブラハム、イサク、ヤコブの数百年あとです。
彼らはとっくのとうに世を去っていました。
しかし彼らは死んで消滅したのではなく、この時も生きていて、神は彼らの神であると仰っているのです。
彼らは、地上を去って別の場所に移って、そこで生きているということです。
そのことを神ご自身が証言されたのです。
キリスト者は、死の向こう側に、懐かしい人たちの待つ光景が開けているのです。
私たちにとって、死は通過点で、魂が地上から天へと場所を移すことです。
地上のマラソンを終えて、ゴールに凱旋することです。
そこは、魂の故郷、安息の場所です。
Aその後、終わりの時に復活して、永遠の御国を受け継ぐ
ヤコブの遺言は、神が、約束に従って必ず自分を復活させ、約束の地を継がせて下さるという、その希望また信仰をあかしするものでした。
今日で言えば、キリストを信じる者を、キリストは一人も失うことなく、復活させ、永遠の御国を受け継がせて下さるという希望また信仰です。
ヨハネ6:39-40(新約p186)
わたし(キリスト)を遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。
事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。
わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」
一人一人ということが、強調されています。
そのときには、数えきれないほどの人が、復活させられるでしょうが、どんなに小さな人も、目立たない人も、一人たりとも漏れることはありません。
イエス様自ら、一人びとりを復活させます。
復活して、神が永遠の昔から私たちのためにと、ご用意下さっていた御国を受け継ぎます。
エペソ1:11(新約p373)
この方(キリスト)にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。
・・・
その御国の様子は、次のように描かれています。
黙示録21:3-5(新約p500)
・・・「見よ。
神の幕屋が人とともにある。
神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。
また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。
もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。
なぜなら、以前のもの(罪と悲惨の世界)が、もはや過ぎ去ったからである。」
・・・「見よ。
わたしは、すべてを新しくする。」
古いものはみな、過ぎ去らせて下さいます。
世からあらゆる罪と悲惨がなくなり、人々の心も、今の世で受けた傷や心を痛ませる罪の記憶、怒りなども消えてなくなり、全き平安に満たされるでしょう。
神は、すべてを新しくされます。
さらに黙示録22:1-5(新約p502)
御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。
それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。
・・・もはや、のろわれるものは何もない。
神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。
また、彼らの額には神の名がついている。
もはや夜がない。
神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。
彼らは永遠に王である。
神の御顔を仰ぎ見るという、信じられない恵み、祝福・・・。
それは、どれほど私たちを喜びと賛美であふれさせることでしょう。
神ご自身の御顔を仰ぎ見るとき、この世でのあらゆる嘆き、悲しみ、憤りは、かすみのように消え去るのでしょう。
この御国の栄光を見ていたパウロの晩年の言葉。
第二テモテ4:6-8(新約p417)
私は今や注ぎの供え物となります。
私が世を去る時はすでに来ました。
私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。
かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。
私だけでなく、主の現れを慕っている者にはだれにでも授けてくださるのです。
義の栄冠を与えられるのは、パウロのような大使徒だからではありません。
「主の現れを慕っている者」には、誰にでも授けて下さるのです。
主を愛し、主を慕う者は、主に従います。
主に従えば、従うほど、主を身近に感じ、ますます慕い求めるようになります。
主に従って苦しみに会うことがあるならば、なおさら主を慕い求めるでしょう。
それぞれ、置かれている所で主を慕う生き方をさせて頂きたいものです。
世を去ったあとの世界に、神が、私を愛する神が待っておられるという世界観で送る人生。
特に晩年の日々。
神に愛され、恵みによる救いの約束を頂いて、永遠の御国の希望を仰ぎ見て、ますます喜びと期待をもって、その時を迎えることのできる幸いを感謝します。
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